第45話 静かな子は、誘いたいのに強くは言えない
倉科紬希は、自分が言葉を飲み込む方の人間だとよく知っている。
言えないわけじゃない。
ただ、言う前に考えてしまう。
これを言ったら相手は困るかな、とか。
今ここで言うほどのことかな、とか。
言わない方が空気がきれいに流れるなら、その方がいいかもしれない、とか。
そうやって選んでいるうちに、言葉は少しずつ自分の中へ沈んでいく。
そのやり方で、今まで困ったことはそこまで多くなかった。
少なくとも、自分一人が少し我慢すれば済む話なら、それで十分だった。
でも最近は、その“飲み込む”が少しだけ苦しい。
理由はわかっている。
久瀬湊人に対してだけ、言いたい言葉が前より増えているからだ。
来てほしい。
一緒にいてほしい。
打ち上げにも、普通に、ちゃんと。
でも、それをそのまま言ってしまったら、この人はたぶん困る。
困るどころか、自分の事情とこっちの期待を天秤にかけて、余計に苦しい顔をする。
だから言えない。
言えないまま、待つことになる。
その静かな待ち方が、思っていたよりずっと恋に近いのかもしれない――と、最近の紬希は感じ始めていた。
◇
金曜の打ち上げが近づいた木曜の朝、教室の空気は少しだけ落ち着かなかった。
文化祭の余韻そのものは薄れてきている。
でも“明日、ちょっと集まる”というだけで、高校生の教室は簡単に浮つく。
「だから店はもうここでよくない?」
すばるが朝からスマホを見せている。
「近いし、安いし、なんか無難に楽しそう」
「“なんか”で決めないで」
真白が言う。
「しかも安さと楽しさを同列に語るの雑」
「だって大事じゃん」
「それはそう」
日野が笑いながら頷く。
紬希は自席に座って、そのやりとりを聞いていた。
表面上は普通だ。
でも、自分の中にはもう一つ別の流れがある。
明日。
金曜。
来るかもしれない日。
そして同時に、来られないかもしれない日でもある。
その二つが重なっているだけで、胸の奥が少しだけそわそわする。
嫌なそわそわではない。
でも、落ち着く種類のものでもない。
「倉科さん」
不意にすばるが言う。
「どしたの」
「いや、今日ちょっと静か」
「そうかな」
「うん」
そこへ真白が入る。
「考えごとでしょ」
その言い方が妙に当然で、紬希は少しだけ笑ってしまう。
「……そうかも」
「やっぱり」
真白は頷く。
「最近、わかりやすい時ある」
「真白に言われるとちょっと複雑」
すばるが笑う。
「お互いさまじゃない?」
日野が言う。
その軽い会話の中で、扉が開く。
久瀬だった。
「おはようございます」
その声が聞こえた瞬間、自分の気持ちが少しだけやわらぐのがわかる。
来た。
ちゃんと今日もここにいる。
たったそれだけで、こんなに呼吸がしやすくなるのかと思う。
「おはよう」
紬希が返すと、久瀬は一瞬だけこちらを見て、少しやわらかく頷いた。
「おはようございます」
その一往復だけで、また少しだけ心が落ち着く。
こういうところだ。
こういう、小さくて目立たないのにちゃんと残るやりとりの積み重ねが、気づけばもうかなり大きくなっている。
◇
午前中の授業は、内容よりも明日のことの方が少しだけ気になってしまった。
ノートは取れている。
先生の声も聞こえている。
でも、ふとした瞬間に思う。
明日、来られるのかな。
来たいとは思っているんだよね。
でも、また“学校の外の予定”が重なるかもしれないんだよね。
そのたび、前の席の少し斜め右にいる久瀬の横顔を見る。
別に思いつめた顔ではない。
でも、最近の紬希にはわかる。
この人が何かを抱えている時の静かさが。
そして、その抱えたものを自分たちにぶつけないようにしていることも。
それが、やさしい。
でも、そのやさしさのせいでこちらは強く言えなくなる。
来てほしい。
でも、来てほしいと強く言うほど、この人は追い詰められそうで言えない。
「……むずかしい」
小さく呟いた瞬間、隣の席の女子が「ん?」とこちらを見た。
紬希は慌てて首を振る。
「なんでもない」
こういう時、自分は本当にわかりやすいのかもしれない。
◇
三限目のあと、廊下で久瀬と二人きりに近い瞬間があった。
移動教室から戻る流れの中で、人が少しばらけたタイミング。
窓際に夕方ほどではないやわらかい光が落ちている。
「倉科さん」
久瀬が小さく声をかける。
「これ、次の授業のプリント」
「あ、ありがとう」
受け取る。
指先は触れない。
でもその距離が妙に近く感じる。
少しだけ沈黙が落ちる。
その数秒が、今の紬希にはかなり長く感じられた。
本当は聞きたいことがある。
明日、大丈夫?
来られそう?
来たいって言ってたの、本当?
でも、それを全部そのまま言うわけにはいかない。
言いたい。
でも、言えない。
そのあいだで止まっていると、久瀬の方が先に口を開いた。
「……明日」
心臓が少し跳ねる。
「はい」
「まだ、確定はしていませんが」
やっぱりそう来るのだと思う。
この人は、こういう時にちゃんと先に言おうとする。
だから余計に責められない。
「行きたいとは思っています」
静かな声だった。
飾った感じはない。
ただ、本当にそこだけは伝えておきたかったみたいな音だった。
紬希は、ほんの一瞬だけ息を止める。
やっぱり、その一言はずるい。
ずるい、というか、反則だ。
来られるとは言わない。
でも、来たいとは言う。
その本音だけをちゃんと出されると、待つ側の心が余計に揺れる。
「……うん」
まず、それだけ返す。
それから少しだけ勇気を出した。
「来られたら、うれしい」
かなり小さな声だった。
強くは言えなかった。
言えたのは、その程度。
でも今の紬希には、それが精一杯だった。
久瀬は少しだけ目を見開いて、それからほんのわずかに笑った。
「はい」
短い。
でも、その返事だけで、言ってよかったと思ってしまう。
来てほしい、とまでは言えなかった。
でも、来られたらうれしい、は言えた。
その違いは自分でもよくわかっている。
強く引っ張らない。
でも、待っていることだけは伝える。
それが今の自分にできるギリギリなのだろう。
◇
昼休み、窓際。
いつものように人が集まり、いつものように軽口が飛び交う。
でも紬希の中では、さっきの廊下の会話がまだ残っていた。
「……倉科さん?」
すばるが言う。
「また静か」
「今日はほんとに多いね」
日野が笑う。
「そうかな」
「そう」
真白が即答する。
「なんか、今の倉科さんは“考えごと”っていうより“待ってる人”の顔」
その表現があまりに正確で、紬希は一瞬だけ言葉を失った。
「え」
「なにその顔」
すばるが食いつく。
「図星?」
「……ちが」
否定しかけて、やめる。
違わないからだ。
言葉に詰まった時点で、三人ともだいたい察したらしい。
特にすばるは、少しだけ困ったように、でもどこか共感するような顔をしていた。
「まあ」
日野が笑う。
「明日近いしな」
そう、日野のこの軽さがありがたい。
全部を恋とか秘密とかにしないで、“明日近いしな”で受け止めてくれる感じが。
「……来られたら、って思ってるだけ」
結局、紬希はそれだけ言う。
かなり本音だった。
そして、その言い方に一番強く反応したのは、真白だった。
「それ」
「え」
「わかる」
真白は短く言う。
「来て、とは言いたくないの」
「うん」
紬希は小さく頷く。
「でも、来られたらいいなって思う」
その共有は、少しだけ意外で、でもかなり救いでもあった。
真白はもっと強い言葉を使う人だと思っていた。
でも根っこのところでは、自分と同じように“強く言えないから待つ”を選んでいるのかもしれない。
すばるもすぐに言う。
「私もたぶんそれ」
「鳴海も?」
「うん。なんかもう、“絶対来て!”って言うと重くなる気がして」
その言い方には、文化祭以降の彼女なりの配慮がにじんでいた。
窓際の空気が少しだけ静かになる。
そこにいるのに、今はまだ話題の中心にはいない久瀬の存在が、逆に強く感じられる静けさだった。
紬希は、その中で少しだけ思う。
みんな同じなのだ。
来てほしい。
でも強くは言えない。
それぞれ違う形で、待つ方を選んでいる。
それはかなりやさしい。
そしてかなり苦しい。
◇
放課後、教室が少しずつ帰り支度の音へ変わっていく頃。
久瀬はまだ席にいた。
でもどこか、夕方以降のことを考えている顔でもある。
明日の予定は、まだ確定していない。
だからたぶん、本人の中でも落ち着かないのだろう。
紬希は鞄へノートを入れながら、少しだけ迷った。
もう一度何か言うべきか。
でも、言いすぎてもだめだ。
今朝も、昼も、もう十分に気持ちは出ている気がする。
そう思った時、久瀬の方から小さく声が飛んできた。
「倉科さん」
「え」
「……さっき、ありがとうございます」
さっき、というのは廊下のことだろう。
来られたらうれしい、と言ったこと。
「ううん」
紬希は小さく首を振る。
「本音だから」
そこまで言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
でももう引っ込められない。
久瀬はそれを聞いて、少しだけ困ったような、でもうれしそうな顔をした。
「そうですか」
「うん」
「……では」
彼は一拍だけ置いてから続ける。
「できるだけ、そちらへ寄せます」
その言い方が、いかにもこの人らしい。
“行きます”ではない。
でも、“行きたくない”でもない。
事情がある人間なりの、かなり本気の寄せ方だ。
紬希は小さく笑ってしまう。
「うん」
それで十分だった。
少なくとも今は。
◇
夜、自室で一人になったあと、紬希はベッドの上で膝を抱えたまま、今日一日のことをゆっくり思い返していた。
朝、待っていた。
廊下で、来られたらうれしいと言えた。
昼、真白とすばるも同じように待っているとわかった。
放課後、久瀬は“そちらへ寄せます”と言った。
強く来てとは言えなかった。
でも、それでも十分に気持ちは伝わってしまった気がする。
静かな子は、来てほしいと言わないまま待ってしまう。
その待ち方の中で、少しずつ、でもはっきりと好きになっていく。
たぶんもう、かなりそうなのだろう。
「……来てほしいな」
誰もいない部屋で、ようやくその言葉が小さく出る。
教室では言えなかった言葉。
でも、本当はそれがいちばん本音だった。
言えないままでも待ってしまう。
その待つ時間さえ、少しずつ恋の形になっていくのかもしれなかった。




