第44話 お嬢様は、“打ち上げに行きたい顔”を見逃さない
御門朱莉は、楽しそうな空気の中心にいる人間より、その少し外側にいる人間を見る方が好きだった。
輪の真ん中で笑っている人間は、だいたい分かりやすい。
今が楽しいとか、注目されたいとか、自分の言葉がどれくらい届いているかとか、そういうものが表へ出やすい。
でも、輪の外側一歩分の位置にいる人間は違う。
自分から前へは出ない。
なのに、その場へ混ざっていたい気持ちだけは、ふとした瞬間に顔へ出る。
しかも本人は、それを隠せているつもりだったりする。
そういう人間の方が、見ていてずっと面白い。
だから金曜の打ち上げがほぼ決まり、クラスの空気が少し浮つき始めた頃から、朱莉は二年三組の前を通るたび、ほんの少しだけ意識していた。
久瀬湊人が、その空気の中でどんな顔をしているかを。
◇
昼休みの終わり際、教室の前を通ると、ちょうど扉が半分開いていた。
中ではいつもの窓際の一角に、あの面々が集まっている。
日野がスマホを見せながら何か笑っている。
鳴海すばるが大げさに反応し、柊坂真白がそれを冷静に切る。
倉科紬希は少し控えめに笑っていて、その笑い方が前よりずっと自然だ。
そして、その少し外側に久瀬湊人がいた。
相変わらず、自分から真ん中に出る感じではない。
でも、完全に外から見ているわけでもない。
輪の中へちゃんと気持ちは入っているのに、立ち位置だけが半歩引いている。
その半歩分の距離が、朱莉には前よりずっと面白く見えた。
「……へえ」
小さく呟く。
少し前まで、あの男は学校を“うまくやり過ごす場所”として扱っているように見えた。
目立ちたくない。
深入りしたくない。
でも、最低限は整えておきたい。
そんな感じだ。
だが今は違う。
窓際の空気が打ち上げの話で少し浮くたび、
久瀬の横顔に、ほんの少しだけ期待が混じる。
その期待の出方が、本人の意志より早い。
打ち上げへ行けるかもしれない。
そこへ混ざれるかもしれない。
そういう、かなり“普通の高校生”っぽい顔を、最近の彼は時々してしまう。
そして、そのあとすぐに別の重さが乗る。
たぶん学校の外の事情だ。
家側か、配信側か、あるいは両方か。
詳細はまだ分からない。
けれど、“来たいのに来られないかもしれない人間”の顔としてはかなりわかりやすい。
「……欲張りになってるわね」
朱莉は壁にもたれず、そのまま数秒だけ教室の空気を見ていた。
学校をうまくやりすごしたいだけなら、打ち上げの予定にそんな顔はしない。
来られなければそれでいいと割り切る方が、よほど楽だ。
なのに今の久瀬は、そこへちゃんと行きたいと思ってしまっている。
しかも、その“行きたい”を言葉ではなく表情の端に出してしまうくらいには。
それはかなり危ない変化だった。
欲しくなった居場所を守るために人は無理をする。
無理をするほど綻びやすくなる。
そして綻びたところを、誰かに見つけられる。
朱莉はそれをよく知っていた。
◇
その日の放課後、朱莉は資料室へ向かう途中で、ちょうど久瀬湊人を見つけた。
廊下の端。
人気の少ない窓際で、一人スマホを見下ろしている。
立っているだけなのに、顔が少しだけ硬い。
打ち上げの話が出たあとで見るには、あまりに分かりやすかった。
「アンタ」
朱莉が声をかけると、久瀬はわずかに肩を揺らしてこちらを向いた。
「御門さん」
「その呼び方、ほんと毎回ちょっと整いすぎ」
「そうでしょうか」
「そう」
朱莉は数歩だけ近づいて、窓際の壁へ軽く寄りかかる。
「今日、打ち上げの話してたでしょ」
久瀬は一瞬だけ黙った。
それだけで十分だった。
「……聞こえていましたか」
「聞こえる位置にいたもの」
正確には、わざとその位置を通ったのだが、そこは言わない。
「で?」
「で、とは」
「行きたいの?」
いきなりそこへ行くと、さすがに久瀬も少しだけ困った顔をした。
「ずいぶん直球ですね」
「回りくどいの好きじゃないの」
「そうでしたね」
「で?」
もう一度促す。
久瀬はしばらく窓の外へ視線を流した。
校舎の向こうでは、運動部の掛け声がかすかに聞こえる。
この学校の放課後らしい音。
その音を一度だけ聞いてから、彼は静かに言った。
「……行きたいです」
短い。
でも、その短さが逆に本音だった。
朱莉は小さく目を細める。
「へえ」
「意外ですか」
「いいえ」
むしろ、かなり予想通りだ。
「でも、思っていたより素直に言ったわね」
「ここで否定しても、あまり意味がない気がしたので」
「それは賢い」
朱莉は少しだけ笑う。
「で、問題は?」
行きたいと言った以上、次に来るのはそこだ。
来たいのに何が邪魔するのか。
久瀬は今度は答えが遅かった。
沈黙の長さで、そこがかなり言いにくい場所だと分かる。
「……学校の外の事情です」
ようやく出た答えは、それだけだった。
「家?」
わざとそう言ってみる。
反応を見るために。
久瀬の目が、ほんのわずかに動く。
否定しきれない人間の沈黙だ。
かなり当たりに近い。
「なるほど」
朱莉はそこで深く追わなかった。
今必要なのは正体の詳細ではなく、彼がどれだけそこに引っ張られているかを見ることだ。
「アンタ」
朱莉は言う。
「学校を“擬態先”以上のものにし始めてる」
その一言に、久瀬は真正面からは返さなかった。
ただ、少しだけ息を止めた。
その反応だけで、十分すぎる。
「……そう見えますか」
ようやく出た声は、かなり低い。
「見える」
朱莉は即答した。
「前のアンタなら、“打ち上げ行けなくてもまあいいです”の顔ができた」
「そんな顔、していました?」
「してた」
そこは迷わない。
「でも今は違う」
朱莉は彼の目を見たまま続けた。
「来たいのが先に出る。そのあとで“でも無理かも”が乗る」
かなり嫌そうな顔をした。
図星なのだろう。
「……よく見ていますね」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「見たくないところまで見られてる感じがします」
その言い方に、朱莉は思わず少しだけ笑った。
かなり本音だ。
「それ、前にも聞いた気がする」
「ええ」
「じゃあ、何度もそう思わせてるってことね」
「御門さん相手だと、わりと」
「光栄だわ」
そこまでやりとりしてから、朱莉は少しだけ声の温度を落とした。
「本気で欲しくなったら、一番危ないわよ」
久瀬は黙る。
でもその黙り方が、今までとは少し違った。
ただ言葉を濁すための沈黙ではない。
たぶん、自分でもその危うさをわかっている人間の沈黙だ。
「……何がでしょう」
質問の形をしているのに、声には少しだけ諦めが混じっている。
朱莉はそこを逃さない。
「その静かな居場所」
言い切る。
「窓際の空気も、打ち上げも、“普通の高校生としてそこにいる時間”も」
そこまで並べると、久瀬の目がほんの少しだけ伏せられた。
否定しない。
否定できない。
「欲しくなったら、人は守るために無理する」
朱莉は静かに続ける。
「無理する人間は綻ぶ」
「……」
「しかもアンタは、綻ぶのがすごく下手」
その言葉に、久瀬はようやく少しだけ苦笑した。
「ひどい評価ですね」
「褒めてるわけじゃないもの」
「半分くらいは?」
「今日は一割」
「かなり低い」
「でも正確」
そう言うと、彼はまた黙った。
その沈黙の中で、朱莉は一つだけはっきりとしたことがあった。
この男はもう、“ただ秘密を隠したい”段階にはいない。
秘密のせいで失いたくないものができてしまっている。
そこが前よりずっと危険で、そして前よりずっと人間らしい。
◇
少しだけ風が吹いた。
放課後の廊下を抜ける風は、昼より冷たく、でも完全に夜の匂いではない。
久瀬は窓の外を見たまま、小さく言った。
「できれば」
朱莉は待つ。
「できれば、普通に行きたいんです」
その言い方には、もう変な取り繕いがほとんどなかった。
普通に。
それは彼にとって、いま一番難しい願いなのかもしれない。
「そう」
朱莉は短く返す。
そして、わずかに肩をすくめた。
「だったら、余計に危ない」
「厳しいですね」
「現実的って言って」
そこでようやく、久瀬はほんの少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
でも、その笑いは教室で見るものよりずっと疲れていた。
朱莉はその顔を見て、少しだけ思う。
ああ、この男は本気だ、と。
秘密の中身はまだ曖昧でいい。
家柄なのか、配信なのか、あるいはもっと別の何かも混ざっているのか。
そこはまだ全部見えない。
けれど、学校の静かな居場所を本気で守りたいと思っていることだけは、もう十分すぎるほど見えてしまっていた。
「御門さん」
「何」
「今日の話は」
「誰にも言わないわよ」
先回りして言う。
「今さら、そこで信用を落とすほど暇じゃないもの」
「……助かります」
「ただし」
朱莉はまっすぐ彼を見た。
「アンタが自分で壊しそうになったら、口出すかも」
「それは」
「褒めていいわよ」
少し前にも似たやり取りをした気がする。
だが今日は、前より少しだけ本気だった。
久瀬は数秒迷ってから、静かに言った。
「かなり迷惑ですが、少しだけありがたいです」
その返しが、妙に正直で、朱莉は少しだけ目を丸くした。
「へえ」
「何でしょう」
「今の、かなり本音っぽい」
「そうかもしれません」
そう言って彼は視線を逸らす。
その仕草が少しだけ年相応で、朱莉はそれを面白いと思った。
◇
別れたあと、朱莉は一人で校門へ向かっていた。
夕方の光が道路へ長く落ち、通学路の端を自転車が何台か通り過ぎていく。
いつもの学校帰りの景色だ。
でも彼女の中では、今日の会話がまだ静かに残っていた。
普通に行きたい。
あの一言が、意外なほど重かった。
ただ秘密を抱えているだけの人間は、もっと冷たく割り切れる。
行けないなら行けない。
仕方ない。
それで終われる。
でも久瀬湊人は違う。
行きたい。
普通に混ざりたい。
その願いを持ってしまっている。
それならたしかに、危ない。
「……本気で欲しくなってるじゃない」
朱莉は小さく呟く。
学校生活そのものか、
窓際の空気か、
あるいはその両方か。
どちらにせよ、彼の中で“守りたい側”へ重みが移っていることだけは確かだ。
その変化は、見ていて面白い。
でも同時に、少しだけ放っておけない種類の危うさでもある。
だからこそ、次に彼が綻ぶなら、たぶんもう少しだけ深く踏み込むことになるだろう。
そう思いながら、朱莉はスマホを取り出した。
何も打たず、すぐ閉じる。
まだ誰にも言わない。
でも、このまま何事もなく済むとは思っていなかった。
◇
夜、自室で配信前の待機画面を見ながら、湊人は放課後の朱莉の言葉を何度も思い出していた。
学校を“擬態先”以上のものにし始めてる。
本気で欲しくなったら、一番危ない。
普通に行きたいんです。
最後の一つは、自分が口にした言葉だ。
なのに一番刺さっている。
「……認めたくないわけじゃないんだけどな」
独り言が落ちる。
認めてしまうと、たぶんいろいろまずい。
学校の静かな居場所を欲しがっていること。
打ち上げに普通に行きたいと思っていること。
来られるかどうかを、あの窓際の人たちに心配されるのが少しうれしいこと。
どれも、少し前の自分ならもっと上手く切り離せたはずだ。
でも今はもう、切り離しきれない。
それはきっと、かなり危ない。
でも危ないからといって、元に戻りたいとも思えない。
待機コメントが流れる。
今夜も夜の王子として話さなければならない。
けれどその前に、湊人は一度だけスマホのクラスグループを開いた。
すばるが店候補の写真を追加し、
日野が「普通に楽しみ」と打ち、
真白が「まだ確定してない」と冷静に返し、
紬希が小さく「行けたらいいね」と書いている。
その一行を見た瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。
やっぱり、来たい。
かなり、本気で。
その気持ちがもう顔に出るくらいには、自分は学校を“擬態先”以上のものにしてしまっているのだろう。




