第43話 打ち上げが近づくほど、来てほしい空気は言葉より先に伝わる
金曜日が近づくほど、教室の空気は少しずつ浮いていった。
文化祭そのものはもう終わっている。
装飾も外され、段ボールも片づき、教室の見た目だけならすっかり元通りだ。なのに人の会話だけがまだ完全には日常へ戻らない。
文化祭どうだったとか、
あの時の写真がどうとか、
どのクラスの展示がよかったとか、
打ち上げの店どうするとか。
そういう話題が、朝にも昼にも、放課後前にも自然と混ざる。
そしてそのたび、久瀬湊人の胸の奥には、あの薄い棘がまた少しだけ動いた。
金曜の夕方。
打ち上げ仮決定。
でも家側からは、金曜夜についても予備待機の可能性ありという連絡が来ている。
まだ確定ではない。
それがいちばん厄介だった。
来られるかもしれない。
でも来られないかもしれない。
この“かもしれない”が、最近の自分と窓際の空気の相性をどんどん悪くしている気がする。
来たい、とは本当に思っている。
思っているから、曖昧に濁すたび自分の方が削られる。
「……向いてないな」
朝、駅から学校へ向かう道の途中で、湊人は小さく呟いた。
文化祭準備もそうだったが、こういう“みんなで何かをする予定”は、秘密を抱えた人間にあまり向いていない。
しかも今の自分は、その予定に混ざりたいと本気で思ってしまっている。
そこが一番まずい。
◇
教室へ入ると、いつもの窓際の空気はすでに半分できていた。
日野が前の席からだらっと振り返り、
すばるが「今日こそ級長に店の候補聞く」と息巻き、
真白が「朝からうるさい」と刺し、
紬希がその横で小さく笑っている。
そこへ自分が入る。
もう、それがかなり自然になってしまっている。
「おはようございます」
声をかけると、すばるがすぐに反応した。
「おはよー。で、どう?」
「何がでしょう」
「今日の顔」
すばるが言う。
「良くも悪くも、まだ“わからない”って顔してる」
やめてほしいな、と湊人は思う。
でも、かなり当たっている。
真白もこちらを見た。
「鳴海、その言い方ちょっと雑」
「でも合ってない?」
「……合ってる」
そこは認めるらしい。
紬希は何も言わなかったが、視線だけが少しだけ心配そうだった。
「大丈夫です」
とりあえずそう言うと、真白がすぐに返す。
「その“大丈夫”が信用できる日は少ない」
かなり厳しい。
でも今の湊人には、その厳しさが前ほどただ痛いだけではなかった。
見てくれている。
しかも、雑に流さず、でも大きく騒がずに。
それがわかるからだ。
「……今日は、まだ」
少しだけ正直に言い直す。
「まだ、ですか」
紬希が小さく繰り返す。
「はい」
「その“まだ”は」
すばるが言いかけて、少しだけ止まる。
「いや、やめとこ」
自分でブレーキをかけたらしい。
文化祭前なら、そのままもっと軽く踏み込んでいたはずだ。
でも今のすばるは、“聞こえてしまう人”としての慎重さを覚え始めている。
それがありがたくて、そしてやっぱり少し苦しかった。
◇
一限目と二限目のあいだ、教室のざわめきが少しだけ薄くなった時間だった。
級長の女子が、クラスの前の方で何人かと打ち上げの話をしている。
店がどうとか、人数がどうとか、開始時間がどうとか。
その断片だけでも、金曜の夕方が少しずつ現実味を帯びてくるのが分かった。
そしてそのたび、湊人の胸の中では家側の通知文面がちらつく。
予備待機の可能性あり。
たったそれだけなのに、向こうの事情は平気でこちらの予定を半分壊す。
「久瀬」
真白が小さく呼ぶ。
「はい」
「今日、また変なとこで止まってる」
さすがだった。
教科書を開いたまま、一秒くらい思考が飛んでいたらしい。
「少しだけ」
「最近その“少しだけ”便利に使いすぎ」
「便利なので」
「認めた」
真白が呆れる。
でも、そのあと少しだけ声を落とした。
「打ち上げのこと?」
かなり核心だった。
湊人は一瞬だけ迷う。
けれど、ここでまた全部を曖昧にすると、たぶんもっと顔に出る。
「……半分くらいは」
それが精一杯だった。
真白はそれを聞いて、小さく息を吐く。
「半分、ね」
「ええ」
「残り半分は?」
「言えないことです」
そこまで言うと、真白は少しだけ目を細めた。
「前よりは、まし」
「何がでしょう」
「誤魔化し方」
意外な答えだった。
「完全に何もない顔するより、そうやって“何かある”って見える方がまだいい」
その言い方はかなり真白らしい。
飾らず、でもやさしい。
「……ありがとうございます」
反射で礼を言うと、真白はすぐに刺してくる。
「そこ礼じゃない」
「では何と」
「普通にして」
「難題ですね」
「知ってる」
そう言って、真白は少しだけ視線を逸らした。
たぶん彼女自身も、最近の自分がかなり“待つ方”へ寄っていることを自覚しているのだろう。
◇
昼休み、窓際。
今日の会話の中心は完全に打ち上げだった。
「で、店の候補三つ」
すばるがスマホ画面を見ながら言う。
「安さ重視、近さ重視、映え重視」
「最後いらなくない?」
真白が即座に切る。
「いるよ」
「なんで」
「文化祭の打ち上げって、ちょっとくらい浮かれたいじゃん」
「鳴海、それ全部自分基準」
日野が笑う。
「でもわかる」
紬希が小さく言った。
「え、倉科さんも映え派?」
「派、ではないけど」
紬希は少しだけ困ったように笑う。
「写真は残るし」
「ほら!」
すばるが勢いよく言う。
「真白以外わかってる!」
「何がよ」
「思い出は見た目も大事」
「雑な標語みたい」
日野が吹き出す。
笑いが起きる。
その笑いの中で、湊人は少しだけ思う。
こういうどうでもいい話をしている時間が、前よりずっと好きになっている。
前なら、そこに混ざりながらもどこか外側にいた。
今は違う。
普通にその続きが聞きたいし、自分も少しだけ意見を言いたいと思ってしまう。
「久瀬くんは?」
すばるが聞く。
「どの店派?」
「急ですね」
「急に聞くよ。今そういう会議だから」
湊人は少し考えた。
「……近さ、でしょうか」
「お」
日野が反応する。
「理由ちゃんとしてる」
「移動時間が短い方が、全体としては楽なので」
「出た」
真白が言う。
「そういうとこ」
「何がでしょう」
「意見の出し方が、地味なのに中身はちゃんとしてるとこ」
それはたぶん褒めている。
でも半分くらいは困ってもいるのだろう。
紬希が小さく言う。
「でも、たしかに」
「うん?」
「来やすい方がいい」
その一言が、窓際の空気を少しだけ静かにした。
来やすい方がいい。
それはたぶん、店の話だけではない。
来られる人が増える方がいい。
そしてたぶん、その中には久瀬も含まれている。
紬希は言ってから少しだけ視線を落とした。
すばるも、真白も、そこをわかっている顔をしている。
日野だけが「それはそう」と素直に頷いた。
やっぱりやさしいな、と思う。
言い方が。
誰も強く「来て」とは言わない。
でも、来てほしい空気だけが少しずつこちらへ集まってくる。
「……ありがたいです」
思わず口をついて出た。
すばるがすぐに反応する。
「そこで礼なんだ」
「反射なので」
「ほんと真面目」
でもその言い方は、前よりずっとやわらかい。
真白が飲み物を置いて言う。
「礼より、決まったらちゃんと言って」
「ええ」
「来られるかどうか」
「……はい」
「その“はい”は今のところ信じる」
それもまた、かなりやさしい言い方だった。
湊人は、そこでようやく自分がかなり追い込まれていることを再確認する。
やさしさが増えるほど、下手な嘘をつけなくなる。
そしてこの窓際の人たちは、前よりずっと“来てほしい”を隠しきれていない。
その空気が、言葉よりずっと重く届く。
◇
放課後、窓際のメンバーが少しだけ残って文化祭後の細かい確認をしている時だった。
級長が店候補の紙を持ってきて、わりと明るい声で言った。
「とりあえず金曜で押さえられそう!」
その一言で、教室のあちこちに小さなざわめきが起きる。
「おお」
日野が言う。
「じゃあほぼ決まり?」
「たぶん!」
級長は頷く。
「最終確認だけ今日中に返ってくる」
「きたー!」
すばるが嬉しそうに両手を上げる。
「文化祭完全終了感!」
「大げさ」
真白が言うが、声音はそこまで冷たくない。
紬希も少しだけうれしそうだった。
その輪の中で、湊人は自分の鼓動が一段だけ早くなるのを感じた。
金曜。
ほぼ決まり。
家側は、まだ“予備待機の可能性あり”。
つまり今夜か、遅くとも明日の早い時間には、向こうの確定が来る。
来れば、自分はこの窓際へどちらかを告げなければならない。
行けるのか。
行けないのか。
それを考えただけで、胸の奥が少し痛む。
「久瀬くん」
すばるがこちらを見る。
「うれしそうじゃない?」
ぎくりとする。
「いや、別に」
反射的に出た言葉を、真白がすぐ切った。
「それ」
「え」
「“別に”じゃない」
真白は少しだけ目を細める。
「今の顔、たぶん“うれしいけど別のこと考えてる”の方」
そこまで正確に言われると、もう逃げようがない。
紬希も少しだけこちらを見ている。
その視線は責めていない。
でも“見えている”ことだけは、はっきり伝わる。
「……半分は」
観念して口を開く。
「うれしいです」
その一言で、すばるの顔が少しだけやわらいだ。
日野も「じゃん」と笑う。
真白は黙ったまま、次の言葉を待つ顔になる。
紬希はわずかに息を止めている気がした。
「残り半分は」
湊人は続ける。
「まだ、別の予定が確定していないので」
できるだけ正直に言う。
それが今の自分にできる線だった。
教室の空気が少しだけ静まる。
けれど、前みたいな重い沈黙ではない。
むしろ“ああ、やっぱりそういうものはあるんだ”と、全員がそれぞれの形で受け止める沈黙だった。
「そっか」
日野が一番先に言う。
「まだあるんだな」
「はい」
「ならまあ、先に言ってくれてるだけマシか」
その軽さがありがたい。
すばるも小さく頷く。
「うん」
「決まったら」
真白が言う。
「ちゃんと言って」
「はい」
「曖昧な顔で当日迎えないで」
「そこは努力しま」
「禁止」
真白が即座に切る。
その反応に、すばるが少しだけ笑う。
紬希もつられて小さく笑った。
その薄い笑いが、今の湊人にはひどく救いだった。
◇
夜、自室。
スマホの画面に映るのは、二つの未読通知だった。
一つは家側。
まだ開いていない。
開けば金曜の運命が決まる。
もう一つはクラスのグループ。
すばるが候補店の写真を送り、日野が「普通にうまそう」と返し、真白が「鳴海はテンション上げすぎ」と打ち、紬希が「どこでも楽しそう」と小さく書いている。
その流れを見ていると、胸の奥がやわらかく痛む。
来てほしい。
誰も強くそうは言わない。
でも、その空気は言葉よりずっと先に伝わる。
静かな居場所を守りたい。
そう思ってしまった時点で、曖昧な嘘は前よりずっと使いにくくなった。
「……開くか」
小さく呟き、湊人は家側の通知を開いた。
その数秒後、画面を見つめたまま、長く息を吐くことになるのだが――その時の彼はまだ、窓際の空気のやさしさが、これからの返事をどれだけ難しくするのかを、十分には測りきれていなかった。




