第42話 静かな子は、来てほしいと言わないまま待ってしまう
倉科紬希は、誰かを待つこと自体は嫌いではない。
電車を待つ時間も、
図書室で借りたい本の返却を待つ時間も、
夜に好きな配信が始まるまでの数分も、
どちらかと言えば静かで好きな時間だ。
でも、“来るかもしれない人”を待つのは少し違う。
来ると決まっているなら落ち着ける。
来ないと分かっているなら、最初から心の置き場所を決められる。
いちばん困るのは、そのあいだだ。
来るかもしれない。
でも、来られないかもしれない。
そういう人を、最近の自分は待ってしまう。
そしてその“待ってしまう自分”が、前よりずっとはっきり見えるようになってきた。
金曜の打ち上げ候補日が近づく水曜の朝、紬希は駅から学校までの道を歩きながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
久瀬湊人は「行くつもりでいます」と言った。
その言い方は以前より少しだけ本気で、でもやっぱり完全な断言ではなかった。
責めたいわけではない。
むしろ、そう言うしかない事情があるのだともうわかっている。
わかっているからこそ、困る。
来てほしい。
でも、その言葉をそのままぶつけたら、この人はたぶん余計に苦しい顔をする。
だから言えない。
言えないまま、自分の中だけで待つことになる。
「……よくないな」
小さく呟く。
好きかもしれない相手を待ってしまう。
しかも、来てほしいとちゃんと言わないまま。
それはたぶん、かなりよくない状態だ。
◇
教室へ入ると、久瀬はまだ来ていなかった。
それだけで、胸の内側がほんの少しだけざわつく。
まだ早い時間だ。
遅刻でも何でもない。
でも、文化祭のあとからこういう小さな“いない”が、前より少しだけ気になる。
紬希は自席に鞄を置きながら、自分が扉の方へもう一度視線を向けたことに気づいて、少しだけ嫌になる。
「倉科さん」
すばるがすぐに反応する。
「おはよ」
「おはよう」
「……今、扉見た?」
ぎくりとする。
「え」
「見た」
横から真白が言う。
「鳴海、そこ拾うんだ」
「いやだって」
すばるは少しだけにやにやしながら言う。
「最近みんなわかりやすくない?」
「主語大きい」
真白が切る。
「でもまあ、わかる」
日野まで笑う。
「今の倉科さんはちょっとそういう感じだった」
「そういう感じって何」
紬希が聞くと、日野は悪びれずに答える。
「誰か待ってる感じ」
その一言が、思ったよりまっすぐで、紬希は言葉に詰まった。
「……日野くんって、たまにすごい」
小さく言うと、日野が笑う。
「褒められた?」
「半分くらい」
真白が言う。
「評価方式うつってる」
すばるが吹き出した。
その時、ちょうど扉が開いた。
「おはようございます」
久瀬の声。
紬希は自分がほっとしたことを、かなりはっきり自覚してしまった。
それがまた、少しだけ苦しい。
「おはようございます」
返す声が少しだけやわらかくなる。
たぶん自分だけが気づくくらいの差だと思う。
でも、自分では分かる。
待っていた。
来てくれて少し安心した。
その感情が、声に少しだけ混ざってしまった。
久瀬はそこまで気づいたかどうか分からない。
でも真白とすばるは、ほんの一瞬だけこちらを見た気がした。
◇
午前中の授業は、比較的穏やかだった。
文化祭の余韻も少しずつ薄れ、教室の空気もようやく平常へ戻り始めている。
でも、窓際の五人のあいだにある“わずかな慎重さ”だけは、まだ完全には消えていない。
それをいちばん強く感じたのは、三限目のあとの短い休み時間だった。
紬希がノートを閉じていると、久瀬がこちらへ小さく紙を差し出した。
「これ、級長からです。打ち上げの日程、今日中に確定するかもしれないと」
「あ……ありがとう」
受け取る。
紙には簡単なアンケートのようなものが印刷されていた。
第一希望、金曜夕方。
第二希望、土曜昼。
見た瞬間、胸が少しだけ重くなる。
もちろん、自分の都合で選べる話ではない。
でも、この紙一枚の向こうに“来るかもしれないし来られないかもしれない人”の顔が浮かんでしまう。
「困りましたね」
思わず、かなり小さな声で漏らす。
久瀬は一瞬だけ目を伏せた。
「……そうですね」
その返事が、あまりにも静かで、紬希は逆に少しだけ驚く。
困るのは自分だけではない。
この人自身も、たぶんかなり困っている。
それが分かるから、なおさら責められない。
でも、責められないまま気持ちだけが進むのも、しんどい。
「倉科さん」
久瀬が少しだけ声を落とした。
「はい」
「もし、ですけど」
その“もし”だけで、かなり慎重な話だと分かる。
「来られなかったら」
紬希は反射的に息を止める。
「ごめんなさい」
続いたのが謝罪だったから、余計に。
「……まだ決まってないよ」
できるだけやわらかく返す。
でもその声は、自分で思っていたより少しだけ弱かった。
来てほしい。
でも謝ってほしいわけじゃない。
その二つの感情が胸の中でぶつかる。
「はい」
久瀬は小さく頷く。
「なので、決まるまでは何も言わない方がよかったかもしれませんが」
「それは」
紬希は少し迷ってから言った。
「言ってくれて、よかった」
かなり本音だった。
真白が前の席からこちらをちらりと見た。
たぶん、会話の全部は聞こえていない。
でも、空気の重さだけは拾っている。
すばるも戻ってきたばかりのところで、紙を持つ紬希と久瀬の顔を見比べ、何か察したように動きを少しだけゆるめた。
やっぱり、この窓際は前よりずっとやさしい。
でも、そのやさしさがあるぶんだけ、逃げ場も少ない。
◇
昼休み、窓際。
アンケートの紙は、結局全員の前に置かれることになった。
「うわー」
すばるが大げさに声を出す。
「来たね、運命の紙」
「大げさ」
真白が言う。
「でもまあ、今日決まるなら決まった方がいい」
日野も頷く。
「どっちにしろ予定立てやすいし」
紬希はその言葉を聞きながら、小さく思う。
そう、予定は立てやすい。
でも、自分の気持ちの置き場所は、むしろ決まるほど苦しくなるかもしれない。
金曜になれば、来られる可能性は上がる。
それはうれしい。
でも“来られる可能性が上がる”を、ここまで意識してしまっている時点で、自分はかなり待っている側なのだ。
土曜になれば、来られないかもしれない。
それなら最初からそう思えばいいはずなのに、実際に紙で突きつけられると、胸が少しだけ沈む。
「倉科さん」
すばるが言う。
「どっち派?」
「……金曜」
答えてから、少しだけ恥ずかしくなる。
理由を説明しなくても、たぶんこの窓際では半分くらい伝わってしまう。
すばるは一瞬だけこちらを見てから、小さく頷いた。
「うん」
それ以上は言わない。
そこが最近の彼女なりのやさしさなのだろう。
真白も短く言う。
「私も」
日野は「じゃあ三票」と笑い、
そして最後に視線が久瀬へ向く。
その一瞬、紬希はまた自分の中で“待っている”感情をはっきり自覚した。
来てほしい。
ちゃんと。
できれば、何も気にせず。
「……僕も」
久瀬は少しだけ間を置いてから言った。
「金曜の方が、ありがたいです」
その“ありがたい”という言い方が、やっぱりこの人らしい。
行きたい、でも断言はしきれない。
その中でできるだけ本音を出した結果みたいな言葉。
紬希は小さく息を吐く。
うれしい。
でも、少しだけ切ない。
この人は、たぶん本気で来たいのだ。
それが分かるから、余計に“来てほしい”を強く言えなくなる。
◇
放課後、アンケートの集計はかなりあっさり終わった。
級長が教室の前で言う。
「多数決で金曜にします。お店はこっちで押さえるから、来られない人は先に連絡してねー」
その一言で、教室の空気が少し動く。
金曜。
ほっとしたような顔をする人もいれば、部活の予定を思い出して眉を寄せる人もいる。
窓際の五人のあいだにも、目に見えない程度の変化があった。
日野は「じゃあほぼ決まりだな」と軽く笑い、
すばるは「頼むから全員来て」と大げさに言い、
真白は「鳴海が一番騒ぐでしょ」と冷たく刺す。
紬希は、そのやりとりの中で少しだけ久瀬を見る。
彼は、わずかに肩の力が抜けたように見えた。
でも同時に、まだ何か完全にはほどけていない顔でもあった。
たぶん、金曜ならすべて解決、ではないのだろう。
それでも、金曜で少しだけ近づける可能性が増えた。
そう思ってしまう。
「……来られるといいね」
小さく、ほとんど自分に言うみたいに呟いたつもりだった。
でも、久瀬には聞こえたらしい。
「はい」
彼は静かに返す。
「そう思っています」
その一言が、またやさしい。
どうしてこの人は、来られるか分からない時ほど、来たい気持ちだけはちゃんと伝わる言い方をするのだろう。
そういうところが、やっぱり反則だと思う。
◇
夜、部屋で一人になってから、紬希はベッドの上で膝を抱えた。
今日は一日、待つ側の自分ばかりを意識していた気がする。
朝、教室にまだいないことに少し落ち着かなくなった。
紙を受け取った時、土曜ではなく金曜であってほしいと思った。
昼休み、金曜と答える時に少しだけ期待した。
放課後、“来られるといいね”と自然に言ってしまった。
来てほしいと言わないまま、
でも来てくれる方を願っている。
それはかなり、恋に近い待ち方だ。
「……だめだなあ」
小さく呟いて、枕へ顔を埋める。
でも、だめだと思いながら、それをやめたいとは思えない。
静かな子は、来てほしいと言わないまま待ってしまう。
そして、その待つ時間の中で、少しずつ好きになっていくのだろう。




