第41話 決めつけないままでいるには、好きすぎる耳が邪魔をする
鳴海すばるは、自分のことを“わりと人の気持ちがわかる方”だとは思っていない。
空気は読む。
流れも読む。
でも、それはどちらかと言えばオタクとして鍛えられた観察眼の副産物みたいなものだ。
配信で今どのコメントを拾うべきか、
コラボで誰が一歩引いたか、
雑談で声の温度が少し落ちたか。
そういう“見える変化”に敏感なだけで、別に人の心の機微へ特別強いわけではない。
だから今の状況は、かなりしんどい。
真白みたいに「今日は顔がこう」と切り込めるわけでもない。
紬希みたいに、静かに近づいたまま黙っていられるわけでもない。
日野みたいに、わからないところをわからないまま流して空気だけ軽くする器用さもない。
そのくせ、耳だけは無駄にいい。
久瀬湊人の声が、どうしても“あっち側”に引っかかる。
言葉そのものではない。
もっと細かい、間とか、落とし方とか、相手を止める時のやわらかさとか、そういうものだ。
決めつけたくない。
でも、決めつけないままでいるには、自分の耳はあまりにも好きすぎる。
「……ほんと、向いてないな」
朝、駅から学校へ向かう道を歩きながら、すばるは小さく呟いた。
向いてないのは、秘密を抱えた相手へ距離を取ることだ。
しかもその相手が、もし本当に推しと近い場所にいるのだとしたら、なおさら。
◇
教室へ入ると、久瀬はもう来ていた。
最近はそれだけで少しだけほっとする自分がいる。
文化祭のあとから、その感じは少し変わった。
前はただ「いるな」で済んでいたのに、今は「今日はいまのところ、ここにいるんだ」と思ってしまう。
それはたぶん、真白や紬希も同じなのだろう。
みんな少しずつ、“いる”ことを前提にし始めている。
その前提が、時々あっけなく崩れることも知ってしまったから、余計に。
「おはよー」
すばるが席へ向かいながら言う。
「おはようございます」
返ってくる声は、相変わらず落ち着いている。
だめだ、とすばるは一瞬だけ思う。
朝一のその声だけで、耳が勝手に比較モードへ入りかける。
違う違う、と心の中で打ち消す。
今日はそこへ行かない。
少なくとも、朝からは。
「鳴海」
真白がすぐに言った。
「何その顔」
「今日それ流行ってる?」
「流行ってない。アンタがわかりやすいだけ」
「また考えすぎ顔?」
日野が前の席から笑う。
「……まあ、ちょっと」
素直に認めると、真白が意外そうに目を細めた。
「そこ認めるんだ」
「毎回否定してもバレるし」
「学習した」
「えらい」
日野が言う。
「日野はその褒め方が雑」
すばるが返すと、小さな笑いが起きる。
こういう瞬間は助かる。
文化祭の非常階段以降、窓際の空気は完全には元に戻らない。
でも、こうやって笑いが起きるたび、まだ壊れてはいないのだと確認できる。
その“壊れていない”を守りたいと思ってしまうのが、またしんどい。
◇
一限目のあと、短い休み時間。
すばるは机へ突っ伏すふりをしながら、周囲の声をぼんやり聞いていた。
教室のざわめき、廊下を歩く足音、誰かが椅子を引く音。
その中に久瀬の声も混ざる。
たったそれだけのことなのに、耳が勝手に拾う。
拾うな、と本気で思う。
でも、推しを長く聞いてきた耳は、好きな方向の音を簡単には流してくれない。
「鳴海」
小さな声で呼ばれて顔を上げると、紬希が立っていた。
「ちょっといい?」
「え」
「廊下」
珍しい。
紬希の方からこういうふうに呼ばれるのは、かなり珍しい。
少し驚きながらついていく。
廊下の窓際、他クラスの声が少し遠く聞こえる場所で、紬希は足を止めた。
「どうしたの?」
すばるが聞くと、紬希は少しだけ迷うように視線を落とした。
「……鳴海さんって」
「うん」
「決めつけたくないのに、気づいちゃうの、つらい?」
その問いは、ほとんど核心だった。
すばるは思わず乾いた笑いを漏らす。
「なにそれ、いきなりすぎない?」
「ごめん」
「いや、でも」
そこで言葉を切る。
ごまかしても意味がない気がした。
「……つらいよ」
正直に言うと、紬希は少しだけ目を伏せた。
「やっぱり」
「倉科さんも?」
「私は、耳じゃないけど」
そう言ってから、彼女は少しだけ壁の方を見る。
「でも、偶然で片づけにくくなってるのは同じ」
静かな声だった。
けれど、それがかなり深いところまで来ているのはすぐに分かった。
「そっか」
すばるが小さく返す。
「うん」
「なんかさ」
すばるは窓の外を見ながら言う。
「私、もし完全に勘違いだったら気持ち悪いなってずっと思ってる」
紬希がこちらを見る。
「声が似てるとか、温度が近いとか、それだけで勝手に“もしかして”ってなるの、かなり失礼じゃん」
「……うん」
「でも逆に、聞こえちゃったものをなかったことにするのも無理で」
そこまで言ってから、すばるは少しだけ笑った。
「要するに、オタクの耳が最悪」
紬希もほんの少しだけ笑う。
「それ、少しわかる」
「倉科さんは何が?」
「私は……」
そこで彼女は少しだけ言葉を探した。
「やさしさの置き方、みたいなのが残る」
その表現に、すばるは少し息を止める。
ああ、と思う。
やっぱりこの子は、かなり近いところを見ている。
「それ、しんどくない?」
「しんどい」
紬希は素直に頷いた。
「でも、知りたいかって言われると、それもまだ怖い」
「わかる」
すばるも即答する。
本当に、その通りだった。
知りたいわけではない。
でも何も知らないままでもいられない。
その中間で足を取られている。
似たような苦しさを、静かな子も抱えていたのだと思うと、少しだけ救われた。
「ありがと」
すばるが言う。
「え」
「なんか、私だけじゃなかった」
紬希は少しだけ目を丸くして、それからやわらかく笑った。
「うん」
「これで真白だけ鈍かったら面白いのに」
半分冗談で言うと、紬希は困ったように笑う。
「真白さんは、たぶん違う方向でかなり見てる」
「だよねえ」
そこは二人とも同意だった。
◇
昼休み、窓際。
廊下で少し話したせいか、すばるの中では紬希への見方が少し変わっていた。
前から静かな子だとは思っていたが、静かなままここまで深く揺れているのは、想像していた以上だった。
それに比べると、自分はやっぱり騒がしい。
悩んでも、表へ少し出てしまう。
そういう意味では、静かな人の方がずっと苦しいのかもしれない。
「で、結局打ち上げの日、いつ確定するんだろ」
日野が言う。
「級長待ち」
真白が答える。
「金曜寄りらしいけど」
「頼むからそうであってほしい」
すばるが大げさに手を合わせる。
「なにその祈り方」
「だってさ」
そこで、少しだけ言葉を切る。
ほんとは、“最近いろいろある人がいるから”と言いたい。
でも今それを明るく言うのは違う。
「……金曜の方が都合いい人多そうだし」
結局そう濁すと、真白が横目で見てきた。
たぶん意図は伝わっている。
久瀬はその会話を聞きながら、少しだけ目を伏せていた。
そこにまた、すばるは少し胸が痛む。
こういうところだ。
この人は、自分の都合で周囲が動くのを喜べない。
むしろ、申し訳なさそうにする。
それがまた、推しっぽいとかどうとかを抜きにしても、厄介なくらい人を引っかける。
「久瀬くん」
気づけば呼んでいた。
「はい」
「もし金曜で確定したら」
そこまで言ってから、少し迷う。
でも続ける。
「ちゃんと来る?」
窓際の空気が、ほんの少しだけ止まる。
聞き方を間違えたかもしれない。
でも、それはかなり本音だった。
最近の自分たちは、“行けるなら行きたい”という言葉を何度も聞いてきた。
そしてそのたび、来られなかったり、途中でいなくなったりする顔も見てきた。
だから、曖昧な期待に乗るのが少し怖い。
それでも聞いてしまうのは、やっぱり“来てほしい”からなのだろう。
久瀬は数秒だけ黙ってから、静かに答えた。
「……行くつもりでいます」
その返事は、いつもより少しだけ慎重だった。
でも、その慎重さが逆に本気に聞こえる。
「つもり、ね」
真白が言う。
「でも前よりまし」
「評価が細かい」
日野が笑う。
紬希は何も言わなかったが、その顔は少しだけやわらいでいた。
すばるも、小さく息を吐く。
「そっか」
それだけ言う。
決めつけない。
でも、期待しすぎない。
その中間を選ぼうとしている自分に気づいて、少しだけ苦笑した。
◇
放課後、自室に戻ったあとも、すばるは昼の会話を反芻していた。
ちゃんと来る?
あの聞き方は、かなり本音だったと思う。
来てほしい。
でも来られないなら、前もって心の準備をしたい。
そういう、少しだけ待つ側の感情。
それは真白が最近よくやっていることに近い。
自分までそうなってきたのかと思うと、少しだけ複雑だった。
ベッドに転がり、スマホを開く。
今日は切り抜きフォルダを開かない。
その代わり、クラスのグループを開く。
まだ打ち上げの日は正式決定していない。
級長からの返事待ち。
その沈黙が少し長いだけで、やけに気になる。
「……ほんと、面倒」
呟きながら、すばるは目を閉じた。
決めつけないままでいるには、自分の耳は好きすぎる。
でも、決めつけた瞬間に何かが壊れる気もする。
だから今はまだ、この曖昧な位置にいるしかない。
そしてその曖昧さの中で、久瀬湊人がちゃんと窓際へ来るかどうかを、自分もまた待ってしまっているのだった。




