第40話 静かな居場所を守りたい人ほど、嘘のつき方が下手になる
土曜の予定が重なると分かった夜から、久瀬湊人はずっと、自分の中に薄い棘が刺さったまま生活している気分だった。
抜けない。
でも、深く刺さって出血しているわけでもない。
ただ、動くたびに少し痛い。
家側からの正式通知。
土曜午後、出席必須。
その短い文面だけで、クラスの打ち上げ候補日の一つがかなり危うくなった。
まだ最終決定ではない。
でも、あの窓際のメンバーが「じゃあ土曜にしよう」と言った瞬間、自分はまた“来たいのに来られない人”になる。
そして今の自分には、それが前よりずっと重い。
前なら、仕方ないで済ませられた。
学校の外にある事情を優先し、学校側の約束は曖昧なまま流しても、自分の胸はそこまで痛まなかった。
でも今は違う。
日野の気楽な誘いも、
すばるのわかりやすい期待も、
真白の“待つ方を選ぶ”言い方も、
紬希の静かなやさしさも、
全部がちゃんと胸へ残る。
残るから、嘘をつくのが前よりずっと難しい。
「……最悪だな」
朝、制服のボタンを留めながら、湊人は小さく呟いた。
静かな居場所を守りたい。
その気持ちが強くなるほど、曖昧な言い方も、上手い逃がし方も、前ほど便利ではなくなっていく。
たぶん、自分はもう少し前のように器用には隠せない。
◇
教室へ入ると、窓際の空気はすでにでき始めていた。
日野が前の席から何か喋っていて、
すばるがそれに大げさに反応していて、
真白が「朝からうるさい」と刺していて、
紬希はその少し外側で小さく笑っている。
そこへ自分が入っていく。
それが、最近ではかなり自然になってしまった。
「おはようございます」
声をかけると、日野が「おはよー」と返す。
すばるも「おはよ」と言ったあと、少しだけこちらを見て、わずかに間を置いた。
たぶん、文化祭以降の慎重さがまだ残っているのだろう。
真白はちらりとこちらを見る。
「今日、寝不足」
それは問いではなく、ほぼ断定だった。
「そう見えますか」
「見える」
「最近ほんとに見すぎじゃない?」
すばるが言う。
「アンタも人のこと言えないでしょ」
真白が即座に返す。
「いや、私はほら、オタクだから」
「便利ね、その言葉」
日野が笑う。
紬希はそのやりとりの中で、少しだけ心配そうにこちらを見ていた。
目が合う。
ほんの一瞬。
それだけで、湊人は自分がまた少しだけ息苦しくなるのを感じる。
やさしい視線だ。
責めていない。
でも、責めていないからこそ、余計に下手な嘘をつきたくなくなる。
「……少しだけ」
結局、真白へそう返す。
「少しだけ、ですか」
「うん」
真白は頷く。
「その“少しだけ”が信用できない日はある」
かなり刺さる言い方だった。
日野が横から笑う。
「真白、最近そこ厳しいよな」
「厳しいんじゃない」
真白は紙パックを机へ置いた。
「わかりやすいって言ってるだけ」
「それを厳しいって言うんだよ」
すばるが言う。
空気は軽い。
でもその軽さの奥で、真白の視線はたぶん前よりずっと正確にこちらを見ている。
ごまかしが効きにくい。
それは困る。
でも少しだけありがたくもある。
そう思ってしまう時点で、かなり深いところまで来ている。
◇
一限目と二限目のあいだ、日野が廊下へ出て、すばるも購買の下見か何かでいなくなった短い時間だった。
教室にはまだ人がいる。
でもこの列のまわりだけ、少しだけ会話が薄い。
「……土曜」
真白が不意に言った。
心臓が少しだけ嫌な鳴り方をする。
「はい」
「まだ決まってないけど」
「ええ」
「もし、その」
そこで彼女は少しだけ言い淀んだ。
珍しいな、と湊人は思う。
真白は基本的に、こういう時ほど言葉を選ばない方だからだ。
「打ち上げ、土曜になりそうなら」
結局、彼女はかなりまっすぐに言った。
「先に言って」
それだけだった。
でも、十分すぎるほど意味はある。
「……はい」
湊人が頷くと、真白は少しだけ視線を逸らした。
「来られないなら来られないで、べつにいいの」
「はい」
「よくはないけど」
「そこは否定しないんですね」
「しない」
真白は即答した。
「でも、直前まで“行けるかも”みたいな顔される方が、もっと面倒」
たぶんそれが本音なのだろう。
待つと決めた人の、ぎりぎりの線引き。
知らないふりはしない。
でも、必要以上に期待を持たされるのも嫌。
その中間で、先に知っておきたいのだ。
やっぱり、やさしい。
かなりやさしい。
そして、そのやさしさが今の自分には少し痛い。
「……わかりました」
短く答えると、真白は小さく息を吐いた。
「そこはちゃんとわかるんだ」
「理解したいとは思っています」
「その言い方」
「褒めています?」
「半分」
「残り半分は」
「面倒」
そこまで言ったところで、すばるが戻ってきた。
「なに、二人でまた静かな会話してた?」
「してない」
真白が即答する。
「してたよ絶対」
「鳴海は耳がよすぎるの」
「知ってる」
すばるが言う。
その言い方が、文化祭以前より少しだけ重い。
でも、以前ほど痛々しくはない。
たぶん彼女なりに、“疑い”とどう付き合うかを少しずつ学んでいるのだろう。
◇
昼休み、窓際。
今日は打ち上げの話が本格的に出た。
「でさ」
日野がスマホ画面を見せながら言う。
「級長が“候補日は金曜夕方か土曜昼”だって」
「うわ、二択か」
すばるが言う。
「私はどっちでもいける」
「アンタはそうでしょ」
真白が返す。
「日野も?」
「俺もまあ」
そこまで来たところで、視線が自然にこちらへ集まりかけるのが分かる。
わかりやすすぎる。
でも、それだけこの話題の中に自分が含まれているということでもあった。
少し前なら、勝手に決まってから「来られる?」と聞かれていたはずだ。
今は違う。
決まる前から、こちらの事情を少し気にしながら進んでいる。
それがうれしい。
そして苦しい。
「……久瀬くん」
すばるが先に聞いた。
「はい」
「金曜と土曜、どっちがまだマシ?」
その聞き方は、かなり気を遣っている。
“来られるの?”ではなく、“どっちがまだマシ?”。
つまり、完全に自由ではないことを前提にしている。
ごまかしたくなる。
でも、ここでまた曖昧にすると、真白の言う“面倒な顔”になる。
湊人は少しだけ息を吸った。
「……金曜の方が、たぶん」
言った瞬間、窓際の空気が少しだけ静かになる。
土曜を避けたい。
そこだけは、かなりはっきり出てしまった。
「そっか」
日野がまず頷く。
「じゃあ、そっち推す?」
「私はいいよ」
すばるがすぐに言う。
紬希も小さく頷いた。
「私も」
真白だけは一度こちらを見てから、短く言った。
「なら金曜でいい」
その一言に、湊人は少しだけ目を伏せる。
やさしい。
かなり。
でも、そのやさしさを受ける自分は、やっぱり少しだけ痛む。
どうして金曜の方がいいのか。
土曜に何があるのか。
それを言えないまま、こちらの都合だけが通っていく感じがするからだ。
「……ありがとうございます」
静かに言うと、すばるが少しだけ困ったように笑った。
「そういう時だけ礼がちゃんとしてる」
「そこはちゃんとしたいので」
「それが重いんだよなあ」
でも、その言い方は責めではなかった。
むしろ、半分は冗談の温度へ戻っている。
真白が小さく言う。
「礼より、来られる方を優先して」
「……はい」
そこまで言われると、余計に胸が苦しい。
静かな居場所を守りたい人ほど、嘘のつき方が下手になる。
それはたぶん、こういう時のことを言うのだろう。
◇
放課後、打ち上げの日程は仮に金曜夕方の方向でまとまった。
級長が「まだ確定じゃないけど、この方向で店見る」と言い、クラスの空気もだいたいそれで落ち着く。
少しだけ、肩の力が抜ける。
土曜の家側の用件と正面衝突する可能性が、一旦は下がったからだ。
でも、その安堵も長くは続かなかった。
校門を出る少し前、スマホが震える。
家側管理室からだ。
金曜夜についても予備待機の可能性あり。詳細後送。
思わず立ち止まりそうになる。
金曜まで。
そこまで食い込んでくるのか。
笑いたくなる。
でも笑えない。
土曜だけじゃない。
向こうはもう、自分の学校側の予定とまともに噛み合うことを前提にしていない。
「……ひどいな」
独り言が漏れる。
その少し後ろから、真白の声がした。
「何が」
心臓が一拍、嫌な跳ね方をする。
振り返ると、真白が一人で立っていた。
どうやら帰るタイミングが重なったらしい。
「いえ」
反射でそう言いかけて、やめる。
最近はこれをやりすぎている。
そして、そのたびに余計な顔になる。
「……少し、予定が」
できる範囲で正直に言うと、真白は数秒だけこちらを見る。
「金曜?」
驚く。
「どうして」
「顔」
それだけだった。
「金曜の話してた直後に、その顔したらわかる」
ほんとうに、最近の彼女は嫌なくらい正確だ。
「……まだ確定ではないんです」
「出た」
真白が小さく息を吐く。
「でも、増えたんでしょ」
「はい」
「最悪」
その一言は、たぶん自分に向けたものではない。
状況そのものへ向けられていた。
少しだけ救われる。
でもその救いが、余計に胸を締めつける。
「……ごめん」
思わず言ってしまう。
真白はすぐに眉を寄せた。
「そこ謝らないで」
「でも」
「でも、じゃない」
彼女は少しだけ視線を逸らしてから、続けた。
「アンタが悪いわけじゃないでしょ」
その言葉が、想像以上にまっすぐ刺さる。
悪いわけじゃない。
でも、結果として迷惑をかけるかもしれない。
その中間が、いちばん苦しい。
「だから」
真白は言う。
「決まったら先に言って」
「……はい」
「嘘みたいな顔で“行けるかも”するの、ほんと腹立つから」
それはかなり真白らしい表現だった。
でも、そこまで言ってくれるのも、たぶん彼女なりのやさしさなのだ。
「わかりました」
今度はちゃんと答える。
真白は小さく頷いた。
「ならいい」
それだけ言って、先に歩き出す。
数歩進んでから、振り返らずに付け足した。
「今日、ちょっと顔色悪いし」
「え」
「夜更かししないで」
その一言に、湊人は完全に言葉を失う。
やさしい。
こんなふうに言われると、もうごまかしだけで押し切るのがほんとうに苦しくなる。
◇
夜、自室でスマホの通知を見つめながら、湊人は長く息を吐いた。
金曜打ち上げの仮決定。
金曜夜予備待機の可能性。
土曜午後の出席必須。
向こうの事情は、学校の静かな居場所を少しずつ削っていく。
そのたびに、自分は曖昧な言い方を選びたくなる。
でも最近は、その曖昧さが前ほど上手く機能しない。
真白は見抜く。
すばるは聞いてしまう。
紬希は静かに近づいてくる。
日野の何気ないやさしさも、前より重い。
「……下手になったな」
独り言が落ちる。
嘘のつき方が、ではない。
嘘をついたあとの平気な顔の仕方が、だ。
静かな居場所を守りたい人ほど、嘘のつき方が下手になる。
きっと、自分はそういう段階へ入ってしまっている。
配信開始前の待機画面が光る。
夜の王子の声が必要とされる時間だ。
でも今夜の湊人は、昼の教室でかけてもらった言葉ばかりを思い出していた。
金曜でいい。
決まったら先に言って。
夜更かししないで。
そういう小さなやさしさを受け取るたび、守りたいものは増えていく。
そして増えた分だけ、下手な嘘はもうつけなくなっていくのだった。




