第39話 校門の外にある名前は、教室の中では呼ばれたくない
久瀬湊人は、その日一日ずっと落ち着かなかった。
教室にいる。
授業を受ける。
昼休みに窓際で話す。
文化祭後の細かい片づけの相談にも、必要な分だけ口を出す。
やっていることは、ここ最近と大きく変わらない。
むしろ表面だけ見れば、少しずついつもの日常へ戻ってきているようにすら見えた。
すばるはまだ少し慎重だが、無理に重くしない方を選んでいる。
紬希は静かなまま、前より少しだけ視線の熱が増した。
真白は“知らないふり”ではなく、“待つ方”を選び始めている。
日野だけは相変わらず日野で、それがありがたい。
全部、ありがたい。
ありがたいのに、今日に限って胸の奥が妙にざわつくのは、理由がはっきりしていた。
朝から何度も思い出してしまうのだ。
校門の外に停まっていた、あの黒い車を。
家側管理室からの短い通知。
本日、確認済み。後日詳細を伝える。
それが何を意味しているのか、まだ正式な説明はない。
でも、わかる。
向こうは、もう自分の学校生活を“遠くから把握するだけ”では済ませない段階へ入りかけている。
それが嫌だった。
配信のことを知られるのも困る。
でも家側のことが教室へ近づいてくるのは、また別の怖さがある。
学校での久瀬湊人は、できるだけ何者でもない方がいい。
少なくとも、あの窓際の空気の中では。
だからこそ、今朝からの嫌な予感が、ずっと喉の奥に引っかかっていた。
◇
昼休みの終わり頃、真白がふいに言った。
「今日、また顔が硬い」
湊人は思わず顔を上げる。
「そうでしょうか」
「うん」
真白はあっさり頷いた。
「文化祭のあとみたいな硬さじゃなくて、別のやつ」
その言い方が、妙に鋭い。
すばるがパンの袋を畳みながら横から聞く。
「別のやつって何」
「なんか……」
真白は少しだけ言葉を探した。
「今日は“まだ起きてない嫌なこと”を警戒してる顔」
一瞬、窓際の空気が止まりかける。
そこまで見えるのか、と思う。
しかも、かなり正確だ。
「……柊坂さんって」
湊人が苦笑する。
「時々、本当に嫌なくらい見ていますよね」
「見てない」
「見てるよ」
すばるがすぐに言う。
「今のかなり当たってるし」
紬希も小さく頷いた。
「……うん」
それだけで、また逃げ場が少し減る。
「別に」
真白はストローを紙パックへ戻しながら言う。
「今日のアンタがわかりやすいだけ」
「つまり結局わかりやすいと」
「そう」
即答だった。
そのあっさりした感じに、少しだけ救われる。
深刻そうに言われるより、こうして“見えてるけど大げさにしない”方が、今の自分にはありがたい。
ありがたい。
でも、やっぱり少し痛い。
やさしさも観察も、最近は全部少しずつ近い。
その近さの中へ、家側の重い気配だけは持ち込みたくなかった。
◇
五限目が終わる頃には、嫌な予感はかなり形を持ち始めていた。
スマホの通知は来ていない。
でも、それが逆に不気味だった。
家側は、たぶんこういう時にわざわざ事前連絡をしてこない。
必要なら、静かに近くまで来る。
学校生活の流れを乱さないまま、でも逃げ道がない形で。
そのやり方を、湊人は知っている。
だから、ホームルームが終わって教室が帰り支度の空気へ変わっていく中で、彼は一度もスマホを確認しなかった。
確認した瞬間に、現実へ名前がついてしまう気がしたからだ。
「久瀬」
日野が鞄を持ちながら振り返る。
「今日、もう帰る?」
「はい、そのつもりです」
「じゃ、一緒に駅まで行く?」
その何気ない誘いに、湊人は一瞬だけ詰まる。
できれば一人になりたくなかった。
でも、誰かと一緒に校門を出るのはもっとまずい気がした。
「……すみません、今日は少し」
「また?」
すばるが聞きかけて、でも途中で止める。
その止め方に、少しだけ胸が痛む。
「ええ」
湊人は短く頷く。
「少しだけ」
真白がその言い方に小さく息を吐いた。
でも、責めるような声ではなく、かなり静かだった。
「じゃあ」
「はい」
「今日は戻らないでしょ」
その問いに、湊人は驚く。
「……たぶん」
「なら最初からそういう顔してる」
真白はそう言ってから、少し視線を落とした。
「わかるから」
その一言が、ひどくやさしかった。
わかるから。
だからもう、無理に“あとで戻れるかも”みたいな顔をしなくていいと、そう言われている気がした。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
真白はすぐ返す。
「ただ」
「ただ?」
「今日は、変に一人で抱え込みすぎないで」
それが今の彼女なりの精一杯なのだろう。
踏み込まず、でも見捨てず、待つ方を選ぶ言い方。
紬希も、その会話を静かに聞いていた。
少しだけ迷ってから、小さく言う。
「気をつけて」
その短い一言に、余計な説明はない。
でも、だからこそまっすぐ届く。
すばるは何か言いたそうだったが、最後には軽く手を振るだけにした。
「……また明日」
それもまた、今の彼女なりの“聞かないでおく”だった。
「はい」
湊人はそれだけ返し、教室を出た。
背中に向けられる視線が、いつもより少しだけ重い。
でもそれは、疑いだけの重さではなかった。
待ってくれている人の重さでもある。
それが、少し苦しい。
◇
校舎を出て、校門へ向かう道はいつもより静かに感じた。
部活へ向かう生徒たちの声はある。
自転車置き場の金属音も、グラウンドの掛け声も聞こえる。
なのに、湊人の耳にはそれらが妙に遠い。
校門が見える。
その少し先、道路脇の目立ちにくい位置。
やはり、いた。
黒い車。
今日はエンジンがかかっている音までわかる。
ぴたりと静かなまま、でも“待っている”ことだけは明確な佇まい。
「……最悪だな」
小さく呟く。
引き返すという選択肢はない。
それをしたところで、向こうはまた別のタイミングで来るだけだ。
しかも今日は、教室の外まで歩いてきてしまっている。
逃げる方が目立つ。
湊人は一度だけ目を閉じ、息を整えてから校門を出た。
車の後部座席のドアが、音もなく開く。
降りてきたのは、五十代半ばほどの男だった。
黒に近いスーツ、無駄のない所作、感情を大きく表に出さない顔。
「お久しぶりです、湊人様」
その呼び方だけで、背筋に冷たいものが走る。
「……外でその呼び方はやめてください」
反射的に低く言う。
男は一礼だけして、すぐに言い直した。
「失礼しました、久瀬様」
「それも十分に嫌です」
「では、湊人様」
「結局戻るんですね」
その軽いやりとりだけでも、もう十分に学校の外の空気だった。
男の名は、相馬だった。
家側の管理を長く担当している人物で、湊人が子どもの頃から知っている。
丁寧で有能で、そして必要な時だけ驚くほど容赦がない。
「本日は確認事項があり、短くお時間をいただきたく」
「学校の外まで来る必要が?」
「必要がありました」
「どういう」
問い返しかけたところで、相馬の視線が一瞬だけ湊人の肩越しへ向いた。
嫌な予感がする。
振り返る。
少し離れた場所。
校門の内側の植え込み近くに、御門朱莉が立っていた。
思考が一瞬止まる。
朱莉は、こちらを見ている。
まっすぐ。
しかも、その目には驚きよりも先に“やっぱりそういうことか”がある。
「……御門さん」
口の中で名前だけが転がる。
どうしてここに。
いや、理由はどうでもいい。
見られた。
しかも最悪に近い角度で。
相馬は気づいていないのか、あるいは気づいていても表に出さないのか、変わらぬ声で続ける。
「先日の件ですが、今後は学校近辺での確認が増える可能性があります」
「やめてください」
思ったより強く出た。
「学校には学校の生活があります」
「承知しております」
「承知していてこれですか」
「確認の必要があると判断されました」
その“判断されました”という受け身が、家側らしくて腹立たしい。
朱莉はまだ見ている。
近づいてはこない。
でも、完全に聞こえない距離でもない。
ここから先を長引かせるのはまずい。
「要件だけ言ってください」
低く押さえて言う。
相馬は一瞬だけ黙り、さらに声を落とした。
「来週、御前での顔出しがございます」
その一言で、胸の奥が重く沈む。
御前。
つまり、家の中でもかなり上の人間の前へ出る必要があるということだ。
断れる類の用件ではない。
「日程は」
「土曜」
短い。
しかし、それだけで十分に嫌な予感が走る。
土曜は、クラスの文化祭打ち上げ候補日と重なる可能性が高い。
「……最悪ですね」
「ご予定があるのですか」
相馬は本当にわかっていない顔で聞く。
「あるかもしれません」
「なら調整を」
「できる話ではないでしょう」
「その通りです」
まったく悪びれない。
だから嫌なのだ。
向こうは、学校の約束や友達との予定を“可能なら調整するもの”としてしか見ない。
自分にとってどれだけそれが重いかなんて、たぶん本質的には理解していない。
湊人は一度だけ、強く息を吐いた。
「要件は以上ですか」
「ひとまずは」
「ならもう帰ってください」
「承知いたしました」
相馬は一礼する。
だが去り際に、一つだけ付け加えた。
「お顔色が優れません。無理はなさらぬよう」
その言葉に、湊人は一瞬だけ笑いそうになる。
「それを言うなら」
静かに返す。
「学校の外まで来ないでください」
相馬は何も答えず、車へ戻った。
ドアが閉まり、黒い車は音も少なく走り去る。
残ったのは、放課後の空気と、自分の早くなった鼓動と――そして、まだ校門の内側に立つ朱莉だった。
◇
御門朱莉は、車が見えなくなってからようやく歩き出した。
「……へえ」
その一言に、含まれるものは多い。
彼女は近づきながらも、最初から全部を暴こうとはしなかった。
少し離れた位置で立ち止まり、湊人を見たまま言う。
「今の」
「はい」
「かなり“学校の外の顔”だったわね」
否定できない。
今さら、ただの知人です、で通る空気でもない。
「御門さんは」
湊人は少しだけ苦い顔をする。
「本当に、タイミングがいいんだか悪いんだか分かりません」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「敵に回したくない」
「前も聞いた」
朱莉は小さく笑う。
そして、その笑いをすぐ収めた。
「でも、なるほどね」
「何がでしょう」
「正体の名前そのものより、先に見えてたものがあるって話」
その言葉に、湊人は少しだけ目を細める。
「アンタ、秘密が重いんじゃないのよ」
朱莉は言い切る。
「秘密に引っ張られてる“生活”の方が重い」
かなり正確だ。
かなり嫌なくらい。
「……御門さんは」
「うん」
「どうしてそこまで」
「面白いから」
即答だった。
「でも今日ので、少し変わった」
「何が」
「アンタ、ただ正体を隠してるんじゃなくて、学校の方を本気で守りたいのね」
それは、今の湊人にとってかなり核心だった。
学校の方。
窓際の空気。
文化祭打ち上げかもしれない土曜。
真白の待つという言い方。
紬希のやわらかい「気をつけて」。
すばるの“決めつけたくない”。
日野の気楽さ。
それら全部を、向こう側の事情で踏みつぶしたくない。
そう思ってしまっている。
「……否定はしません」
湊人が静かに言うと、朱莉はほんの少しだけ目を細めた。
「じゃあ、もうかなり危ないわね」
「何が」
「アンタ」
あっさり言う。
「守りたいものが増えた人間って、一番綻びやすいから」
それは、あまりにもその通りだった。
湊人は何も言えなかった。
言えない沈黙が、そのまま肯定になる。
朱莉はそれを見て、少しだけやわらかい声になった。
「安心して」
「何をですか」
「今のところ、誰にも言わない」
その言葉に、湊人は少しだけ息をつく。
だがすぐに、彼女は続けた。
「でも、アンタが自分で壊しそうになったら止めるかも」
「……それは」
「褒めていいわよ」
「かなり迷います」
「そう」
朱莉はふっと笑った。
「じゃあ、今日はそれでいいわ」
そう言って、彼女は先に校門の外へ歩き出す。
途中で一度だけ振り返った。
「土曜、気をつけなさい」
その一言だけ残して。
土曜。
やはり、彼女もあの相馬との会話の断片を聞いていたのだろう。
湊人は一人、校門の前に立ち尽くす。
学校の中では呼ばれたくない名前。
学校の外でだけ動くはずだった事情。
それらが、もうかなり近いところまで来てしまっている。
◇
その夜、部屋のベッドに腰かけたまま、湊人はスマホの画面を長く見つめていた。
クラスのグループには、打ち上げ候補日についての軽いやりとりが流れている。
すばるが「金曜寄り」と言い、日野が「月曜でもいい」と返し、真白が「どっちでも早く決めて」と短く打っている。
紬希はまだ既読だけだ。
一方で、家側からはさっきの件の正式通知が届いていた。
土曜午後、出席必須。
短い。
逃げ道もない。
「……やっぱりな」
独り言が落ちる。
学校の中では“また明日”と笑っていられる。
でも校門の外には、別の名前で呼ぶ人間がもう来ている。
教室の中では守りたいものが増えた。
でも、そのぶんだけ外側の圧は重くなる。
そして、知られてしまったあとでは、やさしささえ少し痛い。
真白の「今日は戻らないでしょ」も、
紬希の「気をつけて」も、
すばるの「また明日」も、
日野の何気ない誘いも、
全部ありがたいのに、今の自分には少しずつ重い。
守りたいと思っているからこそ、そのやさしさを裏切る可能性があることが苦しい。
スマホを伏せ、天井を見上げる。
「……土曜か」
学校の約束と、家の命令が、とうとう同じ場所へ来た。
ここから先は、たぶん今までよりずっと厄介になる。
そう思いながらも、湊人はまだ、窓際の空気を手放したくないと思っている自分をやめられなかった。




