第38話 静かな子は、やさしくされた分だけ逃げ場をなくしていく
倉科紬希は、自分が“やさしさ”に弱い方だと、最近ようやく自覚し始めていた。
昔からそうだったのかもしれない。
ただ、今まではそこまで強く意識したことがなかっただけで。
派手な言葉に弱いわけではない。
分かりやすく褒められることにも、そこまで慣れていない。
むしろ急に強い好意を向けられると、一歩引いてしまう方だ。
でも、さりげないやさしさには弱い。
困っている時に、無理に踏み込まず気づいてくれる。
自分が言葉を探している間、急かさず待ってくれる。
少しだけ揺れている時に、そこを責めずに整えてくれる。
そういう、目立たないのにちゃんと残るやさしさ。
たぶん、自分はそういうものに弱い。
そして今、久瀬湊人はまさにその種類のやさしさを持っている。
だから困る。
かなり困る。
しかも、そのやさしさの方向が、夜の推し――天瀬アルトへ感じてきたものと少しだけ重なるから、なおさら逃げ場がない。
「……ほんとに、反則」
朝、駅から学校までの道を歩きながら、紬希は小さく呟いた。
答えを出したいわけじゃない。
急いで知りたいわけでもない。
でも、近づくたびに“知らないままではいられない”気持ちも増えていく。
そのくせ、やさしくされるたびに、無理に引く理由も薄くなっていく。
たぶん今の自分は、かなり危ういところにいる。
◇
教室に入ると、窓際の空気は今日もそれなりにいつも通りだった。
日野が前の席でだらっとしていて、
すばるが「昨日の連絡あった?」と何かしらを気にしていて、
真白がその横で「朝からうるさい」と切っていて、
そして久瀬がもう来ている。
その光景を見ただけで、紬希は少しだけ気持ちが落ち着く。
そのこと自体が、もうかなり危ないのだと自分でもわかる。
「おはよう」
小さく声をかける。
「おはようございます」
返ってくる声は、変わらない。
なのに今の紬希には、その“変わらなさ”が逆に少ししんどい。
文化祭の非常階段以降、
昼休みの会話以降、
全部が少しずつ変わっているはずなのに、
この人はちゃんといつもの温度を作ろうとする。
それはたぶん、やさしさだ。
そして、自分たちに余計な気を遣わせないための努力でもある。
そういうのが分かるから、余計に逃げにくくなる。
「倉科さん」
すばるがすぐに反応する。
「今日ちょっと顔色いい」
「そうかな」
「うん。昨日よりは」
昨日よりは、という言い方に、わずかに含みがある。
たぶんすばるなりに、文化祭以降の空気の重さを見ているのだろう。
真白もちらりとこちらを見る。
「まあ、今日はちょっとまし」
「評価方式なの?」
日野が笑う。
「最近の真白、なんか全部採点してない?」
「してない」
「してるよ」
すばるが言う。
その流れに少しだけ笑いが起きる。
紬希もつられて小さく笑った。
こういう時、心のどこかで思ってしまう。
この空気が続けばいいのに、と。
でも続いてほしいと思うほど、その空気の中にいる久瀬湊人の存在が、前よりずっと大きくなる。
それがまた、厄介だった。
◇
二限目のあと、移動教室へ向かう廊下で、小さな出来事があった。
廊下は少し混んでいて、別クラスの生徒たちが一斉に動いている。
紬希はノートと教科書を抱えて歩いていたが、曲がり角のところで前から来た男子とぶつかりそうになった。
「あ」
と思った瞬間、横からすっと手が伸びる。
久瀬だった。
強く引くわけでもなく、ただ肩がぶつからない程度に自分の進路をずらしてくれる。
それだけ。
ほんの一瞬。
「大丈夫ですか」
言い方まで落ち着いている。
「……うん」
紬希は小さく頷く。
「ありがとう」
「いえ」
それで終わる。
終わるのに、その短さが余計に残る。
これなのだ。
こういうところ。
大げさに助けない。
でも、ちゃんと間に合う。
しかも、そのあとで恩着せがましいことを何も言わない。
紬希は自分の胸が、また少しだけ苦しくなるのを感じた。
やさしくされた分だけ、引く理由が減っていく。
「……最近」
思わず口に出そうになって、やめる。
「何か」
久瀬が聞き返す。
「ううん、なんでも」
そう返すしかない。
最近、こういうの多いね。
最近、ちょっと近いね。
最近、あなたの声が余計に残る。
そんなこと、言えるわけがない。
久瀬はそれ以上聞かなかった。
ただ、少しだけ目を細めて「そうですか」と言う。
その“聞かないでいてくれる感じ”すら、やっぱりやさしい。
「……だめだ」
小さく呟くと、久瀬が少しだけ首を傾げた。
「え?」
「なんでもない」
紬希は足を早めた。
これ以上近くにいると、また余計なことを考えてしまうから。
◇
昼休み、窓際。
今日の空気は昨日より少しだけ軽かった。
すばるが相変わらず文化祭打ち上げの話を進めたがり、日野が「だから日程まだ決まってないって」と笑い、真白が「鳴海は三日先まで浮かれすぎ」と刺す。
その中で、紬希はお弁当箱を開きながら、なるべく普通に振る舞おうとしていた。
でも、さっき廊下での一瞬がまだ残っている。
肩が触れないように進路をずらされた時の距離感。
「大丈夫ですか」の温度。
それが妙に消えない。
「倉科さん」
日野が急に呼ぶ。
「え」
「今なんか考えごとしてた?」
「……少しだけ」
「最近多いね」
すばるが言う。
「そうかな」
「うん」
すばるはパンの袋を開けながら、でも声は少しだけやわらかい。
「まあ私も人のこと言えないけど」
その一言に、真白が横から「そこは自覚あるんだ」と挟む。
笑いが起きる。
けれど紬希の中では、別のところが少し引っかかっていた。
人のこと言えない。
すばるはたぶん、まだ“非常階段の数秒”を抱えたままだ。
真白も、“外の顔がある”確信を完全には処理しきれていない。
自分も同じ。
みんなそれぞれ違う方向で、でも同じ人の“見えていない部分”に引っ張られている。
それなのに、こうしてまだ同じ窓際で笑っている。
それはたぶん、かなり危うくて、でもかなりやさしい状態だ。
「……紬希?」
気づけば、久瀬が少しだけ不思議そうにこちらを見ていた。
名前を呼ばれて、一瞬だけ胸が跳ねる。
「ごめん」
反射で謝ると、真白がすぐに言う。
「最近みんなすぐ謝りすぎ」
「ほんとそれ」
すばるが言う。
「この窓際、謝罪文化できてない?」
「嫌な文化」
日野が笑う。
そのやりとりの中で、久瀬が小さく言った。
「考えごとをしていても、別に悪いわけではないと思います」
さりげない。
ものすごくさりげない。
でも、それが紬希には妙に効いてしまう。
悪いわけではない。
そう言ってもらえるだけで、自分の中の混乱や揺れまで少しだけ許された気がする。
「……うん」
それしか返せない。
やっぱりだめだ、と思う。
こういう一言で救われるたびに、余計に好きになってしまいそうになる。
好きかもしれない、ではもう遅いのかもしれない。
たぶん、かなりその近くまで来ている。
◇
その日の放課後、紬希は図書室で本を借りた帰りに、校舎裏の渡り廊下を歩いていた。
夕方の光はやわらかく、廊下の端まで少しだけ長く伸びている。
この時間の学校は好きだ。
昼より静かで、でも完全には終わっていない感じがするから。
曲がり角を曲がったところで、前方に朱莉の姿が見えた。
御門朱莉。
今日も姿勢がきれいで、歩くだけで少しだけ空気が変わる人。
「御門さん」
「倉科さん」
朱莉は立ち止まり、紬希を少しだけ見た。
「図書室帰り?」
「うん」
「真面目ね」
「前も言われた」
「そうだっけ」
たぶん覚えているくせに、こういう人はわざと少し曖昧に返す。
少しだけ並んで歩く形になる。
会話が自然に続く相手ではないけれど、朱莉は不思議と沈黙を気まずくしない。
「この前の話」
朱莉が先に切り出した。
「急がない方がいいってやつ」
紬希は少しだけ肩を揺らした。
「うん」
「守れてる?」
真っ直ぐだ。
でも不思議と、責められている感じはしない。
「……わからない」
正直に答える。
「答えを出そうとはしてない」
「でも?」
「でも、近づいてる気がする」
言葉にしてみて、自分で少し驚く。
かなり本音だった。
朱莉は横目でこちらを見た。
「誰に」
「……人に」
「雑」
「だって」
言いにくい。
好きになりかけている同級生に。
しかも、その人が推しと少しだけ重なってしまっているせいで、自分の感情の輪郭が余計に曖昧になっているなんて、そう簡単に言えるわけがない。
「やさしくされると」
紬希は少しだけ目を伏せた。
「引く理由が減る」
そこまで言ってから、頬が熱くなる。
かなり恥ずかしい。
でも、たぶん本質はそこだ。
朱莉は少しだけ黙ってから、静かに言った。
「それは、かなり本気ね」
「……そうかも」
「気づくの遅い方?」
「遅いと思う」
「そう」
朱莉は前を向いたまま続ける。
「じゃあ、今かなり来てるわよ」
その言葉が、妙に現実味を持って胸へ入る。
かなり来ている。
たしかに、そうかもしれない。
朝、声を聞いてほっとする。
少しやさしくされると一日引きずる。
他の子との距離に少しだけざわつく。
しかも、それが推しへ向ける感情と少し重なっている。
冷静に考えると、かなり来ている。
「……だめだ」
小さく呟くと、朱莉が珍しく少しだけ笑った。
「その“だめ”は、たぶんもう手遅れ側のやつ」
「ひどい」
「褒めてるわけじゃない」
「わかってる」
でも、不思議と少しだけ気持ちが軽くなる。
誰かに言われることで、ようやく自分の中の輪郭が少し見えることもある。
今の朱莉の言葉は、まさにそれだった。
◇
夜、部屋のベッドに座りながら、紬希はスマホを見つめていた。
アルトの配信通知が来ている。
でも今日は、すぐには開かなかった。
逃げたかったわけではない。
むしろ逆で、今の自分がその声を聞いたら、また少しだけ何かが進んでしまう気がしたのだ。
久瀬のやさしさに、もうかなり弱くなっている。
そこへアルトの声まで重なると、本当に逃げ場がなくなる。
「……でも、聞きたいし」
結局、開く。
再生する。
部屋に流れるアルトの声は、今日もやわらかい。
落ち着いていて、少しだけ人を安心させる温度がある。
その声を聞きながら、紬希は思う。
答えを急がない。
それはたぶん正しい。
でも、答えを急がないまま近づいてしまうこともある。
やさしくされた分だけ、逃げ場をなくしていく。
それが今の自分だった。
そして、その逃げ場のなさを、少しだけ心地いいと感じ始めている自分がいることも、もう否定しきれなかった。




