第37話 ツンデレは、知らないふりより“待つ方”を選び始める
柊坂真白は、自分が待つのが得意な人間ではないと思っていた。
いや、正確には、待たされるのが嫌いだ。
連絡が遅いのも嫌い。
曖昧な返事も嫌い。
来るのか来ないのか分からない予定も嫌い。
そういう“相手の都合に気分を引っ張られる感じ”が、昔からあまり好きではなかった。
だから本来なら、久瀬湊人みたいなタイプは、いちばん苦手な部類のはずなのだ。
何か言えない予定がある。
時々急にいなくなる。
でも来たい気持ちだけはちゃんとある。
そういう、待つ側に少しだけ期待を残す人間。
面倒だ。
本当に面倒だと思う。
なのに最近の真白は、その面倒から完全に降りることができなくなっていた。
知らないふりをして、どうでもいい顔をして、勝手に向こうがいなくなるのを見送る。
たぶん前の自分なら、それができた。
でも今は違う。
文化祭の非常階段以降、久瀬の中に“学校の外の顔”があることを、もう完全には無視できない。
鳴海すばるや倉科紬希ほど直接的な音ではなくても、あの日の空気が、何かをはっきり変えてしまったのは分かる。
そして変わったあとで、自分が選び始めているのは“知らないふり”ではなく、“今は待つ”の方だった。
「……ほんと、最悪」
朝の洗面台で髪を整えながら、真白は小さく呟いた。
待つなんて、性に合わない。
なのに、その選択をしている自分がいる。
◇
教室へ入ると、日野がもう来ていた。
「おはよ」
「おはよう」
「今日も顔いいな」
「朝一で雑なこと言わないで」
真白が返すと、日野は笑う。
「褒めてんだけど」
「褒め方が雑」
「それ真白最近よく言うよな」
「鳴海のせい」
名前を出したちょうどそのタイミングで、すばるが教室へ滑り込んできた。
「今私の悪口言った?」
「言ってない」
「言った顔してる」
「アンタの被害妄想でしょ」
「ひど」
朝のいつもの流れ。
少しだけほっとする。
久瀬はまだ来ていなかった。
その事実に、真白は自分が少しだけ時計を見たくなっていることに気づく。
まだ遅刻ではない。
むしろ普通の時間だ。
なのに、いないだけで少しだけ落ち着かない。
これが嫌だ。
こういうところが、かなり嫌だ。
「真白?」
すばるが不思議そうに見る。
「なに」
「今、扉の方見た」
「見てない」
「見たって」
「見てない」
「見てたよ」
日野まで笑う。
「今日は久瀬待ち?」
「違う」
即答だった。
だが、その即答が早すぎたのか、すばるがにやにやし始める。
「へえ」
「何」
「いや別にー?」
「その顔やめなさい」
「やだ」
「ほんとに面倒」
真白が小さく息を吐いた、ちょうどその時だった。
「おはようございます」
扉の方から、いつもの声。
真白は無意識にそちらを見ていた。
見てから、自分で少しだけ嫌になる。
やっぱり待っていたみたいだからだ。
久瀬はいつも通りの顔で教室へ入ってくる。
少し眠そうで、でもちゃんと整っていて、妙に静かなままそこに馴染む。
「おはよー」
すばるが先に言う。
「遅かったじゃん」
「そうでしょうか」
「私が来るより後なら遅い」
「基準がおかしい」
日野が笑う。
真白は少しだけ間を置いてから言った。
「……おはよう」
「おはようございます」
返ってきた声は変わらない。
その変わらなさに、少しだけ安心してしまう自分がまた面倒だった。
◇
その日の午前中、久瀬はいつもより少しだけ静かだった。
べつに変ではない。
文化祭後の疲れもまだ少し残っているのだろうし、クラスの空気も完全には戻りきっていない。
でも真白には、それだけじゃないと分かった。
何かを考えている時の静かさだ。
しかも、自分の中だけで整理しようとしている時のやつ。
授業中にスマホを見るわけではない。
ぼんやりしているわけでもない。
ただ、反応の奥行きが少し薄い。
言葉の返りが半拍遅い。
そういう小さな違い。
そして、そういう時の久瀬は大抵、放課後に何かある。
「……わかりやすいのよね」
心の中で呟く。
文化祭以前の真白なら、そこまでで終わっていた。
“また何かあるんだな”と距離を取って、それ以上気にしない。
でも今は、その先を考えてしまう。
今日もどこかで切り替わるのか。
学校の外の顔へ。
そしてそのことを、今はまだ聞かないと自分で決めている。
聞かない。
でも、何も感じないふりもしない。
その中途半端な立ち位置が、思っていた以上に神経を使う。
◇
二限目のあと、短い休み時間。
真白がノートを閉じたところで、久瀬が少しだけこちらを見た。
視線が合う。
その一秒くらいの間に、真白はなんとなく分かってしまう。
ああ、今日も何かあるな、と。
「何」
先に言う。
「え?」
「その顔」
「どんな顔でしょう」
「“言うべきか迷ってる顔”」
久瀬が少しだけ目を細めた。
「そんなにわかりやすいですか」
「最近はかなり」
真白はあっさり言う。
「……そうですか」
「で?」
そこまで言ってから、自分でも少しだけ驚く。
前みたいに“また何かあるの?”と刺すのではなく、“言うなら聞く”側の声になっていたからだ。
久瀬は少しだけ周囲を見てから、小さく答えた。
「放課後、少しだけ抜ける可能性があります」
「可能性」
「はい」
「高い?」
「……高めです」
その言い方に、真白は小さく息を吐く。
やっぱり、と思う。
でも、以前みたいにそれだけで棘は出なかった。
「わかった」
短く返す。
久瀬が少しだけ驚いた顔をする。
「それだけですか」
「それ以上、今ここで何聞くの」
真白は肩をすくめた。
「言えないんでしょ」
「……はい」
「なら、待つしかないじゃない」
口に出した瞬間、自分で少しだけ目を瞬く。
待つしかない。
それを自分が言うのか、と思う。
でも同時に、それが今の本音でもあった。
問い詰めたところで、久瀬は言えない。
言えないのに責めても意味がない。
それならせめて、“抜けるならそう言え”の方がまだましだ。
「……柊坂さん」
「なに」
「今日は、少し優しいですね」
「それ褒めてる?」
「かなり」
「なら撤回する」
そう言うと、久瀬がほんの少しだけ笑った。
その笑い方が、思っていたより自然で、真白は少しだけ胸の奥がやわらかくなるのを感じた。
こういうところだ。
待つ方を選んでしまう理由は。
◇
昼休み、窓際。
今日は比較的空気が軽かった。
日野が朝から購買で勝った負けたを繰り返し、すばるが文化祭の打ち上げ候補日を勝手に絞り込み、紬希はその会話に以前より自然に混ざる。
少し前なら、この輪の中にいる自分を真白はもう少し斜めに見ていたと思う。
でも最近は、自分でも驚くくらい当たり前にそこへ座っている。
そして、その中心の少し外側に久瀬がいることも、もうかなり当たり前になっていた。
「打ち上げさ」
すばるが言う。
「来週金曜か、再来週の月曜あたりが濃厚」
「なんでそんな早いの」
日野が聞く。
「クラスの空気が熱いうちにやるのが大事だから」
「熱って何」
真白が言う。
「文化祭の余韻」
「オタク用語っぽく言わないで」
紬希が少し笑う。
その笑い声のあと、すばるがふと久瀬を見た。
「で、久瀬くん」
「はい」
「今日の放課後、やっぱ厳しそう?」
質問は軽かった。
でも、少し前より確実に慎重だ。
窓際の空気が、ほんの少しだけ静かになる。
その静けさを、真白は前ほど嫌ではないと思った。
前は、こういう沈黙が来るたびにイライラしていた。
でも今は、その沈黙の中に“待っている人の気配”があると分かるからだ。
それは面倒だ。
でも、面倒なだけでは片づかない。
「……はい」
久瀬が答える。
「今日は、たぶん」
「そっか」
すばるは短く頷く。
それ以上は掘らない。
紬希も何も言わなかった。
でも、その沈黙の置き方は優しい。
“わかったよ”を声にしないまま置く感じ。
真白はその二人を見て、少しだけ思う。
みんな変わったな、と。
文化祭以前なら、もっと単純に騒いだはずだ。
来るのか、来ないのか、なんで、また?
そういう軽い不満や興味で終われた。
でも今は違う。
みんな少しずつ、“聞きたいけど今は聞かない”を覚えてしまっている。
それはたぶん、優しさだ。
そして同時に、かなり厄介でもある。
「……今日、何時くらい?」
真白は自分でも少し迷ってから、そう聞いた。
すばると紬希が少しだけこちらを見る。
聞かないと決めた。
でも、何も聞かないふりもしたくない。
その中間にある問いが、これだった。
久瀬は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに答えた。
「まだ確定ではありませんが、十七時台には」
「わかった」
真白は頷く。
それで十分だった。
何時なのか。
それだけ知れれば、待つ側にも準備ができる。
少なくとも“急にいなくなる”よりはずっとましだ。
「真白」
すばるがにやにやしながら言う。
「なに」
「なんか最近、“聞き方”がちゃんとしてきた」
「何それ」
「前はもっと“またいなくなるの!?”って感じだったのに」
「うるさい」
真白は即座に切る。
「学習したの」
「へえ」
日野が笑う。
「えらいじゃん」
「日野までうるさい」
でも、そのやりとりの中で真白自身も少しだけ認めていた。
そうだ。
自分はたぶん、知らないふりより“待つ方”を選び始めている。
それは性に合わない。
でも今の久瀬に対しては、その方がまだ自分らしくいられる気がした。
◇
放課後、久瀬が席を立つ少し前。
教室の空気は帰り支度へ流れ始めていて、でもまだ完全には散っていなかった。
真白は自分の鞄へノートを入れながら、横目で隣を見る。
久瀬はスマホを確認して、ほんの少しだけ息を吐いた。
たぶん時間だ。
「行くの」
真白が聞く。
「……はい」
やはり、そう答える。
以前なら、ここで少し棘が出た。
でも今日は違った。
「わかった」
それだけ言ってから、少し間を置く。
「戻るなら、連絡」
口に出してから、自分で少しだけ驚く。
そこまで言うつもりはなかったのに。
久瀬も驚いた顔をした。
「連絡、ですか」
「嫌ならいいけど」
「いえ」
彼は少しだけ、かなり少しだけ柔らかい顔になる。
「そうします」
その一言で、真白の胸の奥が妙にあたたかくなった。
これだ。
たぶん、こういうのだ。
全部を知らないままでも、
全部を諦めたわけでもなくて、
でも少しだけ待てるようになる。
それは恋と言うにはまだ曖昧かもしれない。
でも、かなり大事な変化な気がした。
「じゃあね」
真白が言う。
「はい。また」
久瀬はそう返して教室を出る。
その背中を見送りながら、真白は小さく息を吐いた。
やっぱり待つのは好きじゃない。
でも、前みたいに何も知らないふりで切るよりは、少しだけましだ。
◇
帰り道、一人で歩きながら、真白は今日の自分を振り返っていた。
朝、待っていた。
昼、時間を聞いた。
放課後、戻るなら連絡とまで言った。
ここまで来ると、さすがに自分でも笑えてくる。
「……ほんと、私らしくない」
小さく呟く。
でも、その“らしくなさ”を、もう完全に嫌だとも思わない。
知らないふりをして切り捨てるのは簡単だ。
でもそれをしなかったのは、久瀬がちゃんと来たがっていることも、ここにいたいと思っていることも、もう知ってしまったからだろう。
そして、その“いたい”に、自分も少しだけ応えたいと思ってしまっているのだろう。
ツンデレは、たぶんこういう時にいちばん面倒だ。
素直に「行かないで」とも言えないし、
「好きだから待つ」とも言えない。
でも、知らないふりだけはもうできない。
だから代わりに、
何時か聞く。
戻るなら連絡と言う。
それくらいの、半端にやさしいことをしてしまう。
「……最悪」
また同じ言葉が出る。
でも、前より少しだけ、その言葉の響きがやわらかい。
知らないふりより、“待つ方”を選び始める。
それはたぶん、恋のかなり手前にある、でももう後戻りしにくい変化だった。




