第36話 静かな子は、答えを急がないまま近づいてしまう
倉科紬希は、たぶん逃げるのがあまり上手くない。
はっきり言えば、苦手だ。
嫌なことから全力で目を逸らすとか、
見なかったことにするとか、
都合の悪い感情へ名前をつけずに通り過ぎるとか、
そういう器用なことができない。
だから、少しずつ気づいてしまったものを、少しずつ抱えたまま歩くことになる。
久瀬湊人のことも、そうだった。
気になる。
声を聞くと少し落ち着く。
話しかけられるとうれしい。
他の誰かと近い空気になっていると、ほんの少しだけ胸がざわつく。
そこまでは、もう認めている。
かなり認めている。
でも、そこへ天瀬アルトが重なる。
文化祭の日の非常階段で聞いてしまった、たった数秒の声。
あれ以来、紬希の中では“偶然にしては近すぎる”という感覚が消えなくなっていた。
それでも、答えを急ぎたくはない。
急いだ瞬間に、何かを壊してしまう気がするからだ。
だから今日も、紬希はいつも通り教室へ向かう。
答えを出さないまま、でも前より少しだけ緊張しながら。
◇
朝の教室には、文化祭の余韻がまだ少し残っていた。
机の配置は元に戻っている。
装飾も外されている。
それなのに、人の話し方だけがまだ少し浮ついている。クラス展示の出来とか、他クラスの出し物の話とか、写真がどうとか、打ち上げがどうとか。
日野は朝から写真フォルダを見返していて、すばるは「待ってこれ送って、今すぐ」と騒いでいる。
真白は「朝からうるさい」と言いながらも、完全には輪の外へ出ていない。
そして、久瀬もそこにいた。
紬希は教室へ入った瞬間、どうしても最初に彼を探してしまう自分に気づく。
それがもうかなり恥ずかしいのに、やめられない。
「おはよう」
小さく言う。
「おはようございます」
返ってくる声は、今日も変わらずやわらかい。
それだけで、胸の内側が少しだけ落ち着く。
同時に、その“落ち着いてしまうこと”自体が厄介だとも思う。
「倉科さん、これ見て」
すばるがすぐにスマホを差し出してきた。
「何?」
「文化祭写真。日野の顔が全部同じ」
「それもう昨日も聞いた」
真白が呆れる。
「だって面白いんだもん」
日野は笑っている。
「そんなに同じ?」
紬希が画面を見ると、本当にだいたい同じ顔だった。
思わず少しだけ笑ってしまう。
「ほら」
すばるが言う。
「倉科さんにも刺さった」
「刺さるって言い方」
真白がまた呆れる。
その小さな笑いの流れの中で、紬希は少しだけ救われる。
文化祭以降、窓際の空気は前より少しだけ慎重だ。
でも、壊れてはいない。
こうしてまだ、笑える。
それがありがたい。
◇
一限目の前、教室が少しざわついている時間に、紬希は自分の席でノートを整理していた。
その時、すぐ横に小さな影が差す。
「倉科さん」
顔を上げると、久瀬がいた。
「これ、昨日先生から返された掲示案です。確認済みの印だけついていました」
「あ、ありがとう」
文化祭の後処理で、まだ細かい書類が少し残っている。
掲示の最終配置確認を一緒にしていた関係で、紬希のところにもその手の紙がよく回ってくるようになっていた。
紙を受け取る時、指先が少しだけ触れそうになる。
それだけで、紬希は自分の心臓が少しうるさくなるのを感じた。
落ち着け、と思う。
こんなの、ただ紙を渡しただけだ。
「……助かる」
ようやくそう言うと、久瀬は少しだけ笑った。
「それならよかったです」
この笑い方が、だめなのだ。
大げさではない。
でも、ちゃんとこちらへ届く笑い方をする。
それを見ていると、紬希は時々、本当に反則だと思う。
「何」
横から真白の声がした。
「え」
「アンタたち、朝からそこだけ妙に静か」
真白は頬杖をつきながらこちらを見る。
「別に」
紬希が答えるより先に、久瀬が言った。
「書類を渡していただけです」
「それは見ればわかる」
真白は淡々としている。
でも、その目は少しだけ細い。
なんだろう、と紬希は思う。
真白は最近、久瀬に関することだけ、細かく拾う時がある。
しかも、からかうというより、確認に近い感じで。
それを見て、胸の奥がまた少しだけざわつく。
自分が何にざわついているのかは、もうかなりわかっていた。
◇
昼休み、窓際。
今日は日野が珍しくおにぎりで済ませていて、すばるが「購買戦争に敗れたな」と勝ち誇った顔をしていた。
「敗れてはない」
日野が言う。
「今日は最初からおにぎりの気分だった」
「それたぶん負け惜しみ」
「違うって」
「でも日野って、たまにそういう潔さあるよね」
紬希が小さく言う。
「たまに?」
日野が笑う。
「たいていいつも適当じゃない?」
真白が言う。
「ひど」
「でも文化祭の時は助かった」
久瀬がぽつりと言う。
「え」
日野が少し目を丸くする。
「ほんとに?」
「ええ。動きが軽かったので」
「そこ褒められるんだ」
すばるが笑う。
「真白は?」
「何が」
「文化祭時の日野」
「……まあ、いたらいたで助かった」
少し間があってからの返事。
「うわ」
すばるがにやにやする。
「今日の真白、褒めモード入ってる?」
「入ってない」
「久瀬くんは?」
「何がでしょう」
「文化祭時の真白」
「鳴海」
真白が低く止める。
「今の質問はかなり質が悪い」
「でも気になるじゃん」
「気にしなくていい」
即答だった。
そのやりとりに笑いが起きる。
でも紬希は、その笑いの中で一つだけ思う。
真白はやっぱり、文化祭以降も久瀬に対して少し近い。
いや、前から近かったのかもしれない。
ただ、今まではツンの方が強く見えていただけで。
そう思った瞬間、また胸の奥がちくりとした。
もう否定できない。
自分は、こういうことで少しだけ嫌な気持ちになる程度には、久瀬湊人のことを気にしている。
そこまで認めたところで、すばるが急に紬希の方を見た。
「倉科さん」
「え」
「今日、やっぱ少し静かじゃない?」
ぎくりとする。
「そうかな」
「うん」
すばるはストローをくわえたまま言う。
「文化祭前の静かさと、今の静かさちょっと違う」
そこまで言われると、さすがに驚く。
すばるは声の違和感だけではなく、こういう小さな変化もよく拾う。
「……少し考えごと」
紬希は曖昧に答える。
「何考えてるの」
すばるが聞く。
真白が「鳴海」と止めようとしたが、紬希は少しだけ迷ったあと、逆に答えてみた。
「……人のことを、どこまで知りたいんだろうって」
その一言で、窓際の空気がわずかに止まる。
すばるの目が少しだけ揺れる。
真白は完全には表情を変えないが、飲み物のストローを持つ手が止まった。
久瀬だけが、ほんの少しだけ視線を落とした。
言ってしまった、と紬希は思う。
かなり直接的だったかもしれない。
でも、今の自分にとってそれはかなり本音だった。
好きな人のことを知りたい。
それは自然だ。
でも、どこまで知っていいのかはわからない。
しかも今の自分は、“同級生として気になる人”と“推しとして憧れている人”の境界が曖昧になりかけている。
知りたい。
でも知ってしまったら戻れない気もする。
その両方がある。
「……難しいよね」
意外にも、最初に言ったのはすばるだった。
その声には、かなり本気の共感があった。
「知りたいけど、知り方によっては嫌になる時あるし」
それはたぶん、非常階段のあとの彼女の苦しさでもあるのだろう。
真白も少し遅れて言う。
「知らないままでいられない時もあるけど」
「うん」
紬希が小さく頷く。
「でも、急いで暴きたいわけじゃないの」
その言葉は、窓際の空気全体に向けたものだった。
誰か一人ではなく、全員に。
そしてたぶん、久瀬本人にも。
湊人はしばらく黙ってから、静かに言った。
「それは、かなりありがたいです」
短い。
でも、その言い方には本音が混じっていた。
紬希は少しだけ胸が痛くなる。
やっぱりこの人は、何かを抱えている。
しかも、それを知りたがらないでいてくれることに、明確に救われている。
そこまで分かってしまうと、逆に強く踏み込めなくなる。
◇
放課後、紬希は一人で図書室へ向かっていた。
文化祭後のレポート用に少し資料を借りるつもりだったが、半分くらいは気持ちを落ち着かせるためだ。
窓際の空気は嫌いじゃない。
むしろ好きだ。
でも、あそこにいると最近、自分の感情が少しずつ表へ出そうになる。
廊下を歩いていると、前方から人影が来た。
御門朱莉だった。
相変わらず姿勢がきれいで、歩いているだけで“この人は普通の高校生じゃない雰囲気を持ってる”と思わせる。
朱莉は紬希を見ると、少しだけ目を細めた。
「倉科さん」
「……御門さん」
「図書室?」
「うん」
「真面目ね」
「そうかな」
「少なくとも鳴海すばるよりは」
その名前が出た瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。
そういう軽口を言う人なのだと知っているだけで、話しやすさは増す。
だが朱莉はそのまま、少しだけ声を落とした。
「アンタ」
「え」
「静かに見てる方でしょ」
突然の言葉に、紬希は少しだけ戸惑う。
「何が」
「人」
朱莉はまっすぐだった。
「しかも、見たものをすぐ口に出さないタイプ」
図星だった。
「……そうかも」
紬希がそう返すと、朱莉は小さく頷く。
「なら、たぶん一番しんどいわね」
「何が」
「気づいたことを、自分の中だけで何度も反芻するでしょ」
その一言に、紬希は言葉を失いかけた。
なんでそんなことが分かるのだろう。
いや、この人はそういう見方をする人なのだ。
声の違和感ではなく、
不在の気配でもなく、
人が何かを抱えた時の“重さ”を見る人。
だから今、紬希が文化祭以降ずっと自分の中で揺れていることまで、なんとなく察してしまうのだろう。
「……御門さんは」
紬希が小さく言う。
「何か知ってるの?」
かなり踏み込んだ問いだった。
でも、聞いてみたかった。
朱莉は少しだけ笑う。
「知らない」
「でも」
「でも、“何かある”は知ってる」
あっさり言い切る。
「ただ、正体そのものより先に見えるものがあるだけ」
「先に見えるもの?」
「覚悟とか、守り方とか」
紬希には、その言葉の意味が半分しか分からなかった。
でも、なぜかすごく重要なことを言われている気がした。
「倉科さん」
朱莉が続ける。
「急がない方がいいわよ」
「……何を」
「知ることも、好きになることも」
その二つが並んだ瞬間、紬希の胸が大きく鳴る。
顔に出たのだろう。
朱莉は「図星ね」とでも言いたげに、ほんの少し口元を上げた。
「静かな子って、答えを出すのは遅いくせに、心だけは先に進むから」
それは、今の紬希にとってあまりにも正確だった。
◇
その夜、ベッドの上で天井を見ながら、紬希は朱莉の言葉を何度も思い返していた。
急がない方がいい。
知ることも、好きになることも。
静かな子って、答えを出すのは遅いくせに、心だけは先に進むから。
どれも、ひどいくらい当たっている。
自分は答えを急ぎたくない。
久瀬が何を隠しているのかも、
アルトとどこまで近いのかも、
そして自分がどこまで久瀬を好きになりかけているのかも、
全部まだはっきりさせたくない。
でも、心だけは勝手に前へ行く。
朝、声を聞けてほっとして、
昼、真白との距離に少しだけざわついて、
放課後、同じ教室に残っていないことが少しだけ寂しかった。
そこまで来てしまっている。
そして、その“少しずつの前進”の先に、もし本当にアルトの影があるのだとしたら――。
「……だめ」
小さく呟いて、枕へ顔を埋める。
答えを出したいわけじゃない。
でも、もう何も知らないままでもいられない。
その中間の場所で、じわじわと好きになってしまっている。
静かな子は、答えを急がないまま近づいてしまう。
それがたぶん、今の自分だった。




