第35話 オタクは推しを疑いたくない、だからいちばん苦しむ
鳴海すばるは、推しに夢を見すぎるタイプではない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
もちろん推しは好きだ。
かなり好きだ。
配信があれば可能な限り見るし、切り抜きも保存するし、声の調子や笑い方の違いまでわりと平気で覚えている。
でもそれは、盲目的に神格化しているというより、“ちゃんと見て好きになっている”感覚に近い。
だから天瀬アルトに対しても、
王子っぽい、
やさしい、
返しが綺麗、
声が落ち着く、
そういう良さを山ほど知っている一方で、
たぶん疲れる日もあるし、
たぶん無理してる日もあるし、
全部が全部、画面の向こうで完璧なわけじゃないとも思っていた。
思っていた、はずなのに。
「……これ、いちばん嫌なやつでは?」
夜、自室のベッドに転がったまま、すばるはスマホを胸の上へ置いて天井を見上げた。
非常階段で聞いてしまった、あの数秒。
そのあと昼休みに交わされた、あの会話。
久瀬湊人が何も知らない顔ではいられないこと。
でも、決定的に認めることも否定することもできないこと。
全部ひっくるめて、今の自分の立ち位置が最悪すぎる。
もし完全に違うなら、こんなに苦しまなくていい。
「いやー、さすがに似てただけだわ!」で笑って終われる。
逆に、もしはっきり本人だと分かれば、それはそれで大混乱だけど、少なくとも答えは出る。
でも今は、そのどちらでもない。
たぶん近い。
でも、まだ言い切れない。
その中間で止まっている。
しかも、推しを知ってる耳が「聞いたものは聞いた」と主張し続けるから質が悪い。
「やだなあ……」
思わず声に出る。
けれど、嫌だと言いながら、本当に距離を取りたいわけでもないことを自分で知っている。
それがいちばん面倒だった。
◇
翌朝、教室へ入る前から、すばるは少しだけ覚悟していた。
今日はたぶん、久瀬を普通に見るのが難しい。
でも、だからといって避けるのも違う。
避けたら避けたで、今度は自分が余計に不自然になる。
だから普通にする。
できる範囲で。
少なくとも、文化祭の非常階段のことを思い出して固まるみたいな真似はしない。
「おはよー」
扉を開けて、なるべくいつも通りのテンションで言う。
日野が「おはよ」と返す。
真白はすでに席にいて、こちらを一瞥したあと「ちゃんと起きてる」とだけ言った。
意味が分からないようでいて、たぶん“変に沈みすぎてはいない”を確認しているのだろう。
そして、久瀬もいた。
「おはようございます」
返ってくる声はいつも通り。
いつも通り、なのに。
すばるの耳が勝手にそこへ意識を寄せる。
語尾の落ち方。
最初の母音の開き方。
言葉の角を丸める感じ。
だめだ、と心の中で思う。
朝一からやるな。
そんなふうに聞くな。
けれど、もう一度引っかかってしまった耳は、簡単には元の雑な聞き方へ戻ってくれない。
「……おはよ」
少し遅れて返すと、真白が横から小さく言った。
「今日も考えすぎ顔」
「真白、それ言うの好きだね」
「わかりやすいから」
「そこまで?」
日野が笑う。
「鳴海ってほんと顔に出るよな」
「日野まで言う?」
「言う」
そこで教室の空気に小さな笑いが起きる。
その笑いに混ざりながら、すばるは少しだけ救われた。
完全には戻れない。
でも、“いつもの流れ”はまだ壊れていない。
それだけでも今は助かる。
◇
一限目が終わったあと、すばるは飲み物を買いに行くふりをして、少しだけ廊下へ出た。
別に本当に喉が渇いたわけではない。
単純に、教室の中でずっと“普通にする”をやり続けるのがしんどくなっただけだ。
自販機の前で立ち止まり、適当にミルクティーを押す。
ガコン、と缶が落ちる音がして、それを取り出したところで、聞き慣れた声がした。
「逃げたの?」
真白だった。
「逃げてない」
「そう」
真白は隣の自販機で水を買う。
「でも、教室の空気からちょっと退避したかった顔してる」
「……ほんとにさ」
すばるは缶を持ったまま息を吐く。
「最近の真白、私のこと見すぎじゃない?」
「見てない」
「見てるよ」
「鳴海がわかりやすすぎるだけ」
真白はそう言って缶を開けた。
しばらく二人で廊下の窓際に寄る。
昼の光が床に落ちていて、グラウンドからは体育の声が遠く聞こえる。
「……さ」
すばるが先に口を開く。
「私、別に暴きたいわけじゃないんだよ」
真白はすぐには返さなかった。
数秒置いてから、小さく聞く。
「何を」
「それ」
言葉にすると、やっぱり妙に重い。
「わかってる」
真白は短く言う。
「でも、耳がさ」
すばるは缶を握る指に少し力を入れた。
「聞いちゃってるのに、“何もありませんでしたー”って自分に言い聞かせるの、しんどい」
「うん」
「しかも、もし本当に違ったら、私が勝手に気持ち悪いオタクなだけじゃん」
そこはかなり本音だった。
推しを好きすぎるあまり、
同級生にまで重ねて、
声が似てる、
温度が近い、
だから怪しい、
なんて。
もし全部勘違いだったら、かなり最低だ。
本人に対しても、推しに対しても。
真白は水を一口飲んでから言った。
「鳴海」
「なに」
「たぶん今いちばん苦しんでるの、そういうとこでしょ」
すばるは少しだけ目を丸くする。
「どういうとこ」
「信じたいわけじゃないのに、聞こえちゃってるとこ」
かなり正確だった。
すばるは観念したみたいに壁にもたれた。
「……そう」
「でしょ」
「でも真白だって、違う方向で引っかかってるじゃん」
「そりゃね」
真白は否定しない。
「私は声とかじゃないけど」
「何なの」
「何かある時だけ、あいつの“ここにいます”って顔が薄くなる」
それは真白らしい言い方だった。
すばるは少し笑う。
「なにそれ、詩人?」
「うるさい」
「でもわかる」
すばるは缶を見下ろす。
「……だからさ、私だけの幻聴じゃないんだよね」
「そこまで言ってない」
「でも近いでしょ」
「まあ」
真白は少しだけ視線を落とした。
「何もない、はもう無理」
それがたぶん、今の五人の共通認識なのだろう。
何もないわけではない。
でも、全部を知っているわけでもない。
その中間で、全員が少しずつ苦しくなっている。
◇
昼休み、窓際の空気はやはりまだ少し硬かった。
日野が一人だけ普段通りで、それが逆にありがたい。
紬希は静かで、でも必要なところではちゃんと返事をする。
真白は少しだけ強めに普段通りを作っている。
久瀬はそんな全体の空気をたぶん理解したうえで、必要以上に触らないようにしている。
そういう“全員ちょっとずつわかってる”状態が、かえってぎこちない。
「そういえばさ」
日野がパンをかじりながら言う。
「今度、文化祭の打ち上げっぽいやつ、やる流れあるらしいよ」
「え、もう?」
すばるが反応する。
「早くない?」
「いや、クラスで軽く集まるだけっぽい」
「へえ」
真白が言う。
「行く?」
「私はまあ、たぶん」
日野は頷く。
すばるも「私は行く」と即答した。
真白は「まだわからない」と言いながらも、断る気配はそこまでない。
そして問題は、やはり最後だった。
「久瀬は?」
日野が聞く。
その問いに、窓際の空気が少しだけ静かになる。
まただ。
また、“来るのか、いないのか”をみんなが少し気にしてしまう。
すばるはその沈黙に、少しだけ胸が痛くなった。
これを作っている一端が、自分にもある気がしたからだ。
けれど久瀬は、以前より少しだけ間を短くして答えた。
「行けるなら、行きたいです」
その一言が、妙にまっすぐ落ちる。
日野は「お、前向き」と笑い、真白は少しだけ目を細めた。
紬希は静かに、でもたぶん少しだけ救われた顔をした。
すばるはその反応を見て、自分の中でさらに苦しくなる。
こういうところなのだ。
自分が、久瀬湊人のことを“ただの怪しい人”として見切れない理由は。
ちゃんと来たいと言う。
来られないことをごまかしたいわけではなく、本当にその場にいたいと思っているのが分かる。
それなのに外せない何かがある。
そして、その言い方がまた、やわらかくて、少しだけアルトの声の置き方に近い。
「……最悪」
小さく呟くと、真白が横目で見た。
「何が」
「私が」
「自覚あるのは偉い」
「褒めてる?」
「二割」
「低」
そのやりとりに、日野が笑う。
紬希も小さく笑った。
久瀬も少しだけ肩の力を抜いたように見える。
窓際の空気は、まだ前みたいに完全ではない。
でも壊れてはいない。
それが救いでもあり、同時にすばるを余計に苦しめてもいた。
◇
その夜、すばるはまた一人でベッドに転がっていた。
今日は切り抜きを開かなかった。
そこは偉い。
少なくとも、昨日の自分よりは。
でも、だからといって頭の中の声まで止まるわけではない。
今日の「行けるなら、行きたいです」。
文化祭の日のあの短い確認音声。
もっと前の、「その言い方だと皆さんが少しだけ誤解してしまいますから」。
全部が勝手に脳内で並び始める。
「……やめろ、ほんとに」
枕へ顔を埋める。
でも埋めても、耳の記憶は逃げてくれない。
すばるは思う。
たぶん、自分はいちばん苦しい立場にいる。
真白は声を知らない。
だから“何か外の顔がある”違和感として見ていられる。
紬希はもっと静かに深く揺れているけれど、まだ自分ほど積極的に照合しようとしていない。
でも自分は違う。
推しの声も、返し方も、ちょっとした息の癖も知ってしまっている。
だから、聞こえた瞬間に勝手に比較してしまう。
そして本当に嫌なのは、その比較の結果が、今のところ一度も自分を安心させてくれていないことだった。
違う、とも言い切れない。
同じ、とも言えない。
その中間で、耳だけが勝手に働き続ける。
「オタクってもっと楽しいもんじゃないの……」
小さく呟いて、すばるは目を閉じた。
推しを疑いたくない。
だって好きだから。
ちゃんと好きだから、勝手な思い込みで“正体”みたいなものを被せたくない。
でも、だからこそ、聞こえてしまった違和感を無理に潰すこともできない。
好きなものを大事にしたい人間ほど、雑に都合のいい結論へ飛べない。
そのせいで、いちばん苦しむ。
それが今の鳴海すばるだった。




