第32話 正体はまだ知られない。でも、もう何も知らないままではいられない
非常階段の踊り場に落ちた沈黙は、妙に薄くて、でも逃げ場がなかった。
風が吹いている。
校庭のざわめきも、遠くから聞こえる笑い声も、文化祭らしい賑やかさも、全部ちゃんとそこにあるのに、この狭い踊り場だけが別の時間へ切り離されたみたいだった。
久瀬湊人は、三人の顔を順に見た。
鳴海すばる。
顔色が少し悪い。いつもの“推しに似てる!”と騒ぐ時の熱ではなく、もっと静かで、本気で信じたくないものに触れてしまった人の顔をしている。
倉科紬希。
声も出せないみたいに固まっている。彼女はもともと大きく感情を表へ出す方ではない。だからこそ、その沈黙が今どれだけ大きいかがわかる。
柊坂真白。
二人の反応を見てから、ようやくこちらへ鋭く視線を向けた顔。まだ断定はしていない。でも、“今のは何だったのか”をきちんと聞こうとする目だった。
何か言わなくてはならない。
それだけは分かる。
「……今の」
先に口を開いたのは真白だった。
「何」
短い。
けれど、その一語に必要なものが全部入っている。
今の声は何だったのか。
どうしてここで一人で通話していたのか。
なぜ、学校で聞く久瀬湊人の声とは少し違うものが、あんなふうに出たのか。
湊人は一度だけ喉を湿らせるように唾を飲んだ。
正面から答えることはできない。
でも、完全に黙るのももう無理だ。
「……少し、外の連絡です」
ようやく出た言葉は、それだった。
自分でも、弱いと思う。
曖昧で、いつもの逃がし方に近い。
けれど今の自分に出せるのは、その程度だった。
「外の連絡って」
すばるが言う。
声がかすかに掠れている。
「何、その……」
続きが出ない。
きっと今、一番言いたい単語は別にあるのだろう。
でも、それを口に出してしまった瞬間に、もう戻れなくなると分かっているから、言えない。
紬希が小さく息を吸った。
「……ごめん」
その言葉は、誰に向けたものか曖昧だった。
「聞くつもりじゃ、なかった」
やっと出た声は、かなり小さい。
「別に」
真白が言う。
でもその視線はまだ湊人から外れない。
「聞くつもりじゃなくても、聞こえる時は聞こえるでしょ」
その言い方は、紬希を責めていない。
むしろ逆に、今ここでいちばん“聞こえてしまった側”を守る方向の声だった。
すばるはまだ混乱しているようだった。
「いや、でも……」
また同じ言葉。
「でも今の、ほんとに……」
そこで止まる。
湊人は、その言葉の続きを自分で想像してしまう。
アルトっぽかった。
あるいは、もっと直接的な何か。
それを言わせるわけにはいかない。
少なくとも、ここでは。
「鳴海さん」
湊人は、できるだけ静かに言った。
その瞬間、自分でも分かる。今の自分の声は、学校の久瀬湊人としてかなり慎重に整えたものだ。
「今は、文化祭の最中です」
すばるがびくっと肩を揺らす。
「……うん」
「皆さんがここへ来た理由も、たぶん僕を追い詰めるためではないと思っています」
「そんなつもりじゃない!」
すばるがすぐに言う。
「ごめん、違う、ほんとに違くて」
「わかっています」
湊人は短く頷く。
「なので」
そこで少しだけ言葉を切る。
「今は、戻りませんか」
その一言で、空気がまた少しだけ揺れた。
今は戻る。
つまり、今はここで答えを出さないということだ。
それを全員が理解した。
真白は数秒黙ってから、先に視線を外した。
「……そうね」
文化祭の最中だ。
この踊り場で四人だけ別の空気になっている方が、よほど不自然だった。
紬希も小さく頷く。
「うん」
でも、その“うん”はかなり苦しそうだ。
たぶん彼女の中では、もう“ただの偶然”へ戻れない。
すばるだけが、まだ動けない顔をしていた。
でもやがて、唇を噛んでから小さく頷いた。
「……わかった」
その言い方もまた、全部がわかったわけではない人の声だった。
◇
教室へ戻る道は、行きよりもずっと長く感じた。
誰も何も言わない。
非常階段を下り、廊下を曲がり、文化祭の喧騒の中へ戻っていく。そのあいだ、すばるも紬希も真白も、それぞれ別の種類の沈黙を抱えているのが分かる。
湊人もまた、何をどう考えるべきか整理できていなかった。
今のは、決定的な証拠ではない。
でも、十分すぎる断片ではあった。
鳴海すばるには、声と温度の近さが刺さったはずだ。
倉科紬希には、もっと深いところ――言葉の置き方や、相手へ届かせるための呼吸そのものが、届いてしまったかもしれない。
真白は、今の時点では二人ほど直接には結びついていないだろう。けれど、“何か外の顔がある”という違和感だけは、一気に濃くなったはずだ。
教室の扉の前で、真白が一度だけ立ち止まる。
振り向かないまま言った。
「……今は普通に戻る」
それは確認でもあり、命令でもあった。
「できる?」
その問いに、湊人はほんの少しだけ息を止めた。
「やります」
「できる、じゃなくて」
真白が小さく息を吐く。
「まあいい」
結局それだけ言って、先に教室へ入っていった。
その背中が、妙に頼もしく見える。
彼女はたぶん、今この瞬間だけは“何があったか”より“ここをどう繋ぐか”を優先してくれている。
紬希は扉の手前で少しだけ止まってから、声を絞るように言った。
「……私」
そこまで出して、言葉が切れる。
何を言いたいのか、湊人にはわかった。
たぶん「聞かなかったことにした方がいいのかな」とか、「何も言わない方がいい?」とか、そういう類だ。
でも、今それを言わせるのも酷だった。
「倉科さん」
湊人が先に言う。
「はい」
「今日は、文化祭を」
それだけで十分だった。
紬希は一瞬だけ目を見開いて、それから小さく頷く。
「……うん」
それ以上は何も言わず、真白のあとを追うように教室へ入った。
最後にすばるだけが残る。
彼女はしばらくこちらを見ていた。
オタクらしい勢いや軽さは、今はどこにもない。
「……ねえ」
「はい」
「私」
すばるは目を逸らさなかった。
「決めつけたくないんだよ」
その一言が、思った以上に重かった。
「でも、耳がさ……」
そこから先は、言えなかった。
言わなくても伝わるからだろう。
湊人は何も答えられなかった。
違うと断言するには、今の数秒は近すぎた。
認めるわけにもいかない。
だから沈黙しか残らない。
すばるはそれを見て、少しだけ困ったように笑った。
「だよね」
笑っているのに、目は笑っていなかった。
「……今は戻る」
真白と同じ言い方。
でも、彼女の場合はそれが“整理できてないけど今は置く”に近い。
「お願いします」
それだけ返すと、すばるは「そこだけはほんと真面目」と小さく言って、教室へ戻った。
◇
文化祭の午後は、ほとんど記憶が薄い。
表面上はうまくやれたと思う。
少なくともクラスの誰かに「何かあった?」と聞かれることはなかった。
日野は相変わらず気楽だったし、真白は必要なところだけ言葉を飛ばしてくる。すばるも妙に静かになるのではなく、むしろ少しだけオーバーに普段通りへ寄せていた。紬希も、必要な作業はちゃんとこなしている。
だからこそ、余計に苦しかった。
誰も“さっきのこと”を口に出さない。
でも、知らなかった頃と同じでもない。
すばると目が合うたび、そこにあった“推しに似てて面白い”だけの熱は、もう少し重いものへ変わっている気がした。
紬希の視線は前よりさらに静かで、でも明らかに揺れていた。
真白は直接的には何も言わない。ただ、こちらの小さな不自然さへ向く感度が、前よりさらに高くなったのが分かる。
日野だけがまだ一番平常だ。
だがそれも、今後ずっとそうとは限らない。
文化祭が終わりに近づいた頃、AstraLink側の大きな企画そのものは何とか無事にこなした。
時間の隙間を縫うように、短く、最小限で。
表の空気を崩さず、夜側の責任も果たす。
それは成功したと言っていいのかもしれない。
けれど、成功した代償はたぶんもう払ってしまっていた。
◇
翌日、月曜の朝。
教室の空気は、文化祭の翌日らしい疲れと妙な一体感をまだ残していた。
達成感とも、眠気ともつかない空気。
でもその中で、窓際の一角だけは少し質が違った。
日野が「文化祭の片づけ筋肉痛なんだけど」と言って笑い、すばるが「私は喉が死んでる」と返し、真白が「アンタは喋りすぎ」と冷たく言う。
表面だけ見ればいつも通りだ。
でも、すばるが久瀬を見る目には、前より少しだけ慎重さが混じっていた。
紬希はもっと静かだ。むしろ静かすぎて、土曜の頃のやわらかさが少し引いている。
真白は、そんな二人を横目で見ながら、わざと普段通りのテンポを崩していないように見えた。
湊人はその空気の中で、自分だけが異物みたいに感じる瞬間があった。
秘密は、まだ暴かれていない。
でも、“何も知らないまま”では、もうここにいられない。
「……文化祭、おつかれ」
不意に、紬希がそう言った。
それはごく普通の言葉だ。
でもそのあとに、ほんの少しだけ間がある。
「うん」
湊人はそれに短く返す。
「お疲れさまでした」
その返しでさえ、今の紬希には前より違って聞こえるのかもしれないと思うと、胸が少し重くなる。
すばるがその空気を軽くしようとしたのか、少し強めの声を出した。
「そういえば文化祭の写真、あとで送るね」
「お、ありがと」
日野が反応する。
「変な顔してるやつ送ったら許さない」
真白が言う。
「真白はだいたい全部顔いいから大丈夫」
「鳴海、雑な褒め方やめなさい」
「でも本当だし」
笑いが起きる。
その笑いがありがたい。
だが同時に、薄い膜の上に乗っているようでもある。
◇
その日の放課後、御門朱莉は校舎裏の渡り廊下で、一台の黒い車を見た。
学校の敷地すぐ外。
来客用駐車スペースのさらに先、目立ちにくい位置に停まっている。
運転席にはスーツ姿の男。後部座席には、誰かがいるのかいないのか分からないくらい静かな気配。
学校帰りの生徒なら気にも留めないだろう。
だが朱莉は、そういう“学校に似合わない静けさ”を見落とさない。
「……何あれ」
小さく呟いた時、ちょうどその方向から歩いてくる人影があった。
久瀬湊人だ。
朱莉は思わず立ち止まり、彼の顔を見る。
久瀬も一瞬だけ車の方を見た。
そのほんのわずかな視線の止まり方が、朱莉の中で何かを確信未満の形で弾いた。
あの車を、知っている。
あるいは、知らないでは済まない反応をした。
「……へえ」
朱莉は小さく笑った。
声にはしない。
でも、目だけがわずかに細くなる。
配信者かもしれない。
家柄があるのかもしれない。
もっと別の何かかもしれない。
まだ全部は分からない。
でも一つだけはっきりしたことがある。
久瀬湊人の“秘密”は、学校の外にちゃんと実体がある。
しかも、それはもう、この学校の近くまで来始めている。
◇
夜、自室で一人になってから、湊人はベッドへ座り込んだまま長く息を吐いた。
文化祭は終わった。
企画も終わった。
どちらも表向きには回せた。
なのに、安心はどこにもなかった。
すばるは、もう“似てる気がする”だけではいられない。
紬希は、静かなまま深いところまで来てしまった。
真白は、“何か外の顔がある”違和感を濃くしている。
朱莉は、別方向から秘密の輪郭を追っている。
そして家側の気配まで、とうとう学校の近くへ来た。
「……戻れないな」
ぽつりと呟く。
正体は、まだ知られていない。
でも、もう何も知らないままの関係には戻れない。
その事実だけが、やけにはっきりしていた。
スマホの通知が点く。
クラスのグループではない。
AstraLinkでもない。
家側管理室からの短い連絡。
本日、確認済み。後日詳細を伝える。
確認済み。
何を。
いつ。
どこまで。
それを考えるだけで、背中が少し冷える。
窓の外は静かだった。
でも湊人の中では、三つの世界――学校、配信、家――が、もう完全には離れていられないところまで近づいている。
その中心に立っているのが自分なのだと思うと、笑うしかない気もした。
「……本当に、難易度高すぎるだろ」
けれど、そう呟いた声は、少し前のような絶望だけではなかった。
怖い。
かなり怖い。
でも同時に、窓際の居場所も、文化祭でできた距離も、画面の向こうで待つ人たちも、今さら全部を手放したいとは思えない。
だから進むしかない。
誰かに知られないようにではなく、
何も知らないままでいてもらうこともできないまま、
それでもギリギリの線を探し続けながら。
そういう段階へ、物語そのものが入ってしまったのだろう。




