第31話 たった一つの音が、秘密を暴く鍵になるかもしれない
文化祭当日というものは、朝から空気の密度がおかしい。
普段と同じ校門。
普段と同じ校舎。
同じはずなのに、色と音だけが少し浮いている。
まだ一般来場者が本格的に入る前だというのに、廊下には段ボールを運ぶ音がして、教室の扉は半分開いたままになっていて、どのクラスも「今だけは特別です」という顔をしている。
装飾の紙が揺れ、テープの切れ端が床へ落ち、誰かの「それこっち!」が別の誰かの「もう時間!」に重なる。
久瀬湊人は、その騒がしさの中に立ちながら、すでに朝の時点で少しだけ疲れていた。
いや、身体が疲れているわけではない。
問題は神経の方だ。
今日のスケジュールは、かなり綱渡りだった。
学校側では、文化祭の準備と当日運営。
クラス展示の備品管理、導線確認、来場者の流れの調整。表立って仕切るわけではない。だが、放っておけばどこかが少しずつ崩れる場所に、自然と自分が入っていく構造になってしまっている。
一方で、夜ではなく、今日は昼にもAstraLink側の大事なオンライン企画がある。
完全な配信本番ではないが、事前の接続確認と短い顔合わせ、それから本編直前の最終打ち合わせ。しかも今日は大型企画ゆえに、自分が欠けるとややこしい。
どちらも欠けられない。
その事実だけで、朝から胃の奥が少しだけ重い。
「久瀬、これ教室の後ろに回すやつ?」
日野の声で我に返る。
「はい、それで大丈夫です」
「りょーかい」
日野は段ボールを抱えたまま笑った。
「朝から先生みたいだな」
「やめてください」
「でもわかる」
すばるが装飾の紐を結びながら言う。
「今日の久瀬くん、完全に“静かな進行役”の顔してる」
「顔でそこまで分かるものですか」
「分かるよ」
真白が即答した。
「今朝からずっと“何かあったら全部拾います”って顔してる」
「褒めてる?」
日野が聞く。
「三割」
「少な」
「残り七割は面倒そうって意味」
真白は平然と言い切る。
すばるが吹き出し、日野も笑う。
その笑いの横で、紬希は掲示の位置を少しだけ直していた。
文化祭仕様の私服ではなく、学校指定の腕章だけをつけたいつもの制服姿。それでも、こういう行事の日の紬希は少しだけ雰囲気が違う。静かなまま、いつもより前へ出ている感じがあった。
「倉科さん、それ少し左の方が見やすいと思います」
湊人が言うと、紬希はすぐに頷く。
「このくらい?」
「はい、その位置ならたぶん」
「了解」
そのやりとりを真白が横で聞いていた。
何も言わない。
けれど、ここ数日で真白は、紬希と自分の間に交わされるささやかな会話までよく見ている気がする。
いや、真白に限らない。
すばるも、紬希も、朱莉も、それぞれ違う角度からこちらを見始めている。
それが今日みたいな“ずっと人の中にいる日”には、ひどく厄介だった。
◇
開始から一時間ほどは、まだよかった。
来場者の流れも予想の範囲内で、備品の不足もない。
装飾は少しテープが剥がれかけたが、日野が脚立を持ってきてすぐに直した。すばるは案内口の前で妙に張り切って説明役をやり、真白はその横で「喋りすぎ」と冷たく刺しつつ、実際にはかなり助けていた。紬希は来場者目線で気づいた小さな見にくさを、静かに一つずつ修正していく。
クラスの展示自体も、想像していたよりちゃんと回っている。
だから一瞬だけ、湊人は思ってしまった。
もしかすると、今日はうまくいくかもしれない、と。
学校側をちゃんとやって、
必要な時間になったら静かに抜け、
AstraLink側の確認にも間に合って、
誰にも余計な違和感を残さず戻ってこられるかもしれない、と。
そういう希望を持った瞬間に限って、綻びは早い。
スマホが震えたのは、十一時四十分過ぎだった。
ポケットの中で、短く、しかし嫌なくらい明確に。
今は教室の端で備品表を確認している最中だ。
来場者の波が一旦引いた隙で、真白は級長と話している。すばるは入口側、日野は廊下に出て別クラスの友人に呼ばれていた。紬希は掲示の端を押さえながら、少し離れた位置にいる。
今なら見られない。
そう思って画面を確認した瞬間、血の気が少し引いた。
AstraLink全体確認、回線テスト前倒し。十二時十分集合。
マネージャーからだ。
しかもその下にもう一件。
一部接続不安定のため、可能なら早めに個別確認を。
「……まずいな」
思わず口をついて出る。
十二時十分。
今から抜けても、かなりぎりぎりだ。
しかもただ帰宅するだけではだめで、できれば一度静かな場所で個別確認をしてから入りたい。
学校の教室や廊下で回線テストをするわけにはいかない。
だが、学校を出て家へ戻るには時間がかかる。
つまり。
校内のどこかで、ほんの短時間だけでも“天瀬アルトの声”を出す必要がある。
その結論に至った瞬間、胃の奥が冷たくなる。
だめだ。
最悪だ。
でも他に選択肢がない。
学校側をこれ以上乱したくはないし、企画側を飛ばすのはもっとだめだ。
「久瀬?」
真白の声だった。
いつの間にかすぐ近くまで来ている。
「何」
「いえ」
反射的にスマホを伏せる。
「その“いえ”やめて」
真白の眉が寄る。
「今日それ何回目」
「……少しだけ、確認の連絡です」
「少しだけって顔じゃない」
そこへすばるも寄ってきた。
「どうした?」
「また何かあったらしい」
真白が淡々と言う。
「いや、別にまだ」
「“まだ”ってつく時は大体だめなやつだよね」
すばるの言い方は冗談めいていたが、目はちゃんとこちらを見ている。
紬希も少しだけ離れた場所から、静かにこちらを見ていた。
まずい。
もうかなり顔に出ている。
「……少し、抜けます」
結局それだけ言う。
「十五分ほどで戻れるかと」
「え」
日野がちょうど戻ってきたところで足を止める。
「今?」
「はい」
「もう?」
すばるの声が少しだけ上ずる。
「まだ午前の山場じゃん」
「わかっています」
「いや、わかってる人の顔してない」
真白が低く言う。
その一言が、少し痛い。
紬希が小さく聞く。
「大丈夫?」
その問いはやわらかい。
でも、今の湊人にはひどく苦しい。
「……大丈夫です」
本当は、大丈夫ではない。
でもそう言うしかない。
「何か持つ?」
日野が言う。
「級長に言っとくとか」
「あ」
そこで湊人は少しだけ助かった。
「お願いします」
「りょーかい」
日野はこういう時、本当にありがたい。
すばるはまだ何か言いたそうだったが、真白が先に口を開いた。
「十五分」
「はい」
「戻るの?」
「……戻ります」
その返事に、真白は数秒だけ黙った。
「わかった」
短い。
でも、その“わかった”の奥には、“信じるけど、本当に戻れ”という圧が少しだけあった。
紬希は何も言わなかった。
ただ、見送る時の目がいつもより静かだった。
◇
湊人は校舎の裏手に近い非常階段を上がっていた。
人の気配が少ない。
文化祭の日であっても、ここまで来る生徒はほとんどいない。上の踊り場に出れば、校庭のざわめきが少し遠くなり、風の音の方が勝つ。
本当は屋外で接続確認などしたくない。
でも教室でやるよりはましだ。
踊り場の端へ立ち、スマホを確認する。
メッセージが追加されている。
音だけでも先にお願いします。
もう時間がない。
ヘッドセットは持ち歩いていない。
だからスマホのマイクで短く確認するしかない。
周囲を見回す。
人影なし。
深く息を吸う。
ここで使う声は、学校の久瀬湊人ではない。
ほんの一分、いや三十秒でも、“天瀬アルト”としての声に切り替える必要がある。
それだけでもう、かなり危ない。
でもやるしかない。
通話接続。
ワンコールで、スタッフが出た。
『もしもし、アルトさん聞こえますか?』
湊人は一瞬だけ目を閉じる。
そして、スイッチを入れた。
「はい、大丈夫です。少し屋外で失礼しますが、音の確認だけ先にお願いできますか」
自分でも分かる。
今の声は、完全にそちら側だ。
『ありがとうございます。こちら問題ありません。少しだけBGM側と重ねますね』
「お願いします」
短い。
本当に短い。
それだけなのに、言葉の置き方も、声の温度も、学校で使うものとは別の形になっている。
『アルトさん、今の返しで一度だけ読んでもらっていいですか?』
「はい。では、“本番では皆さんに落ち着いて楽しんでいただけるよう、今日は少しだけ丁寧に進めていきましょう”で大丈夫でしょうか」
その確認文を読み上げた、ちょうどその時だった。
足音。
階段の下から、二つ。
いや、三つ。
心臓が止まりそうになる。
すぐに通話を切りたい。
でも今、スタッフが何か返している最中だ。
『はい、大丈夫です。とても聞きやすいです――』
足音が、一段ずつ上がってくる。
「……失礼します、後ほど合流します」
急いでそう言って通話を切る。
スマホ画面を閉じる。
息を殺す。
だが、もう遅かった。
「……え」
階段の下から聞こえたのは、すばるの声だった。
その一音だけで分かる。
完全に、何かを聞いた後の声だ。
続いて、紬希の息を呑むような気配。
そして少し遅れて、真白の「……何してるの」という低い声。
湊人はゆっくり振り返った。
三人が、そこにいた。
少し離れた踊り場の手前。
すばるは目を見開いていて、紬希は信じられないものを見たみたいに固まっていて、真白だけがまだ状況を整理しきれていない顔をしている。
だが、すばると紬希には、たぶん十分だった。
さっきのほんの短い音。
“アルトの声”として人へ届くための、あの呼吸と温度。
「……まさか」
誰が言ったのか、分からなかった。
でも、三人の空気がその言葉を共有しているのは分かった。
湊人の背筋を、冷たいものが走る。
証拠ではない。
たった数秒の音。
しかも会話の全文ではなく、聞いたのは断片だ。
それでも、断片としては十分すぎたかもしれない。
すばるの顔は、いつものオタクの騒がしさではなかった。
もっと静かで、もっと青ざめている。
紬希は声も出せないみたいに、ただこちらを見ている。
真白だけが、二人の反応を見てから、遅れてこちらへ鋭い目を向けた。
「……今の」
真白が言いかける。
その続きは出なかった。
でも、すばるが代わりみたいに小さく呟いた。
「いや、でも……」
それは否定したい人の声だった。
信じたくない人の声。
「でも、今の……」
紬希の唇が、ほんの少し震える。
何かを言いかけて、飲み込む。
その動きだけで、湊人は悟る。
静かに見ていた子まで、かなり近いところへ来てしまったのだと。
風が吹く。
非常階段の鉄が少し鳴る。
校庭のざわめきが遠くから聞こえる。
文化祭の真ん中で、時間だけが不自然に止まっていた。
何か言わなければならない。
だが、何を言えばいいのか分からない。
違う、と言うには、今の数秒はあまりにも近すぎた。
認めるわけにはいかない。
沈黙すれば、余計に肯定になる。
その最悪の狭間で、湊人はほんの一瞬だけ言葉を失った。
たった一つの音が、秘密の輪郭を一気に濃くする。
そんなこと、本当は分かっていたのに。
今日、その“たった一つ”が、とうとう起きてしまった。




