第30話 学校の声と、配信の声が、同じ日に必要になる
文化祭準備が本格的に動き始めると、学校という場所は思っていた以上に“声”を要求してくる。
それを、久瀬湊人は火曜日の朝から嫌というほど実感していた。
「久瀬くん、これ先生に見せる前に一回確認してくれる?」
「久瀬、備品表って昨日のやつで確定?」
「久瀬くん、掲示位置このままで見やすいかな」
「久瀬ー、脚立どこ置くか決めた?」
朝のホームルーム前だというのに、机の周りへ声が集まってくる。
別にクラスの中心人物になったわけではない。
むしろ本人としては、今でも端の方で静かにしていたい。
けれど文化祭準備というのは、不思議なくらい“適任そうな人”を逃がさない。
目立ちたがりではない。
でも、放っておくと場が散る時に手を出す。
困っている人にすぐ気づく。
人に頼まれると断りきれない。
そして、やるとなったら無駄に丁寧。
そういう人間は、文化祭ではかなり使われる。
それはもう、昨日一日でよく分かった。
しかも今日は、それが学校だけで終わらない。
スマホのカレンダーに入っている夜の予定を、湊人は朝から何度も頭の中で確認していた。
十九時、AstraLink大型企画の全体音声チェック。
二十一時、自枠短時間配信。
そして、その前に文化祭準備の居残りが入る可能性が高い。
学校の声と、配信の声。
どちらも今日、自分を必要としている。
その事実が、ひどく落ち着かない。
◇
「アンタ、朝から顔が硬い」
真白がそう言ったのは、一限目が始まる少し前だった。
「そうでしょうか」
「そう」
即答だった。
「最近の中ではかなり“何かあります”顔」
「言い方が雑ですね」
「雑でいいの。こっちは学校だから」
真白は備品リストを机の上へ置きながら、少しだけ視線を寄越す。
「今日も何かあるの?」
その問いに、湊人は一瞬だけ答えに詰まった。
ある。
かなりある。
でも、それをどう言えばいいのかは相変わらず分からない。
「……放課後が少し」
慎重にそう言うと、真白はすぐにため息をついた。
「またその言い方」
「でも、事実なので」
「そこを否定してるんじゃない」
真白は少しだけ声を落とす。
「曖昧なまま抱えてる顔が分かりやすいって言ってるの」
痛いところを突かれる。
すばるがそこへやってきて、二人の空気を見てすぐ反応した。
「なに、また久瀬くん今日どっかで消える感じ?」
「鳴海」
真白が低い声を出す。
「まだそうと決まったわけじゃ」
「決まってないの?」
すばるが聞く。
その問いは責めではなく、純粋な確認に近い。
だから余計に答えづらい。
「……決まってはいませんが」
「はい、出た」
すばるが言う。
「“決まってはいませんが”はかなり危ないやつ」
「鳴海さんは、そういう言葉の危険度判定に長けていますね」
「長けてるよ。オタクだから」
「便利ね、その言葉」
真白が呆れる。
でも、そのやりとりの裏で、湊人の胸は少しずつ重くなっていた。
まだ、確定ではない。
でも、たぶん文化祭準備が長引けば、夜はかなり厳しい。
逆に夜を優先すれば、学校側で“また途中からいなくなる人”になる。
どちらも捨てたくない。
その欲張りさが、最近の自分をいちばん苦しくしている気がした。
◇
午前の授業は、比較的穏やかに流れた。
比較的、というだけで、完全に落ち着いていたわけではない。
文化祭のことを考えれば、どうしてもクラス全体の空気が少し浮つく。先生たちも完全には抑えきれないらしく、授業中でも「文化祭準備で使うなら」とか「必要なら後で相談して」といった言葉が混ざる。
そうなると、湊人の机の上にも自然と紙が増える。
備品一覧の修正版。
掲示位置の仮案。
放課後に確認してほしい装飾担当からのメモ。
級長からの“先生に見せる前に一度見てほしい”という付箋付きプリント。
「……増えてるな」
独り言が漏れる。
「何が?」
斜め後ろから、紬希の声がした。
「え」
「紙」
紬希は少しだけ困ったように笑う。
「机の上」
「ああ……」
言われてみれば、かなり散らかっている。
最初は“裏方で静かに”のつもりだったのに、いつの間にか人から紙を渡される役になっていた。
「これは、その……」
「文化祭だから?」
紬希がやわらかく聞く。
「たぶん」
「たぶん、じゃなくて絶対そう」
今度はすばるが横から入る。
「だってみんな久瀬くんに渡しすぎ」
「そこは否定しないんだ」
日野が笑う。
「否定できる?」
「できない」
自分で答えて、湊人は少しだけ苦笑した。
紬希はそのやりとりを見ながら、小さく言う。
「でも、ちゃんと頼られてるってことだよね」
その一言が、妙に胸へ残る。
頼られている。
たしかに、そういうことなのだろう。
前までの自分なら、それは面倒の入口にしか見えなかった。
でも今は、その言葉が少しうれしいと思ってしまう。
その時点で、もうだいぶ深いところまで来ているのかもしれない。
◇
昼休み、窓際。
今日は文化祭の話題が中心だった。
装飾に使う布の色、掲示の文字サイズ、クラス展示の導線、当日の交代シフト。
「結局さ」
すばるが焼きそばパンを持ちながら言う。
「こういうのって、最初にちゃんと整えた人が勝つんだよね」
「何と戦ってるの」
真白が聞く。
「文化祭当日の混乱」
「それには勝ちたい」
日野が真面目に頷く。
「去年、別クラスの展示ぐちゃぐちゃだったし」
「それ聞くと怖くなる」
紬希が言う。
「怖くなるよね」
すばるも頷く。
「だから私は今から導線の美しさを」
「鳴海」
真白が切る。
「話が大きい」
「でも大事だって!」
その流れの中で、湊人は自然と口を開いていた。
「入り口の案内だけは、先に視認性を優先した方がいいかもしれません」
一瞬、四人の視線がこちらへ向く。
「たとえば、色味を増やすのは中に入ってからでもできますが、最初に“どこを見ればいいか”が分からないと、人は止まります」
「うわ」
すばるが言う。
「めっちゃそれっぽい」
「何がですか」
「裏方の有能な人」
日野が笑う。
「わかる」
真白も頷く。
「そういうとこなのよ」
「何がでしょう」
「目立ちたくないくせに、言うことはちゃんと正しいとこ」
それは褒めているのか、困っているのか分からない言い方だった。
紬希は、その会話を聞きながらじっと湊人を見ていた。
文化祭の相談をしているだけ。
それなのに、その“人が止まる場所を先に整える”という発想が、少しだけアルトの配信を思い出させた。
場の入り口を整える。
迷わせない。
最初にどこを見ればいいかを示す。
それは、配信でコメント欄の空気が荒れそうな時に、アルトが最初にやることに少し似ている。
まただ、と紬希は思う。
また、同じ方向のやさしさを感じてしまう。
「倉科さん?」
湊人の声で我に返る。
「え」
「少し、考え込んでいませんでしたか」
「……うん、ちょっと」
「文化祭のこと?」
真白が聞く。
紬希はそこで、一瞬だけ迷ってから頷いた。
「それも」
その“それも”の先に何があるかは、自分でもまだうまく言えなかった。
◇
放課後、問題はやはり起きた。
ホームルームが終わったあと、文化祭担当の級長がクラス全体へ声をかける。
「今日、装飾班と備品班だけ、少し残れる人は残ってもらえる?」
教室のあちこちで「どのくらい?」「三十分なら」「部活ある」といった声が上がる。
備品班。
つまり、湊人と真白が中心だ。
そこへ補助で日野も少し手伝うらしい。
紬希は掲示位置の確認で一部残る予定になっている。
すばるは装飾班で当然のように残る。
つまり窓際のメンバーの大半が残る。
これは、湊人にとってかなりまずい流れだった。
スマホにはすでに、AstraLink側から全体音声チェックのリマインドが入っている。
十九時開始。
さらにその前に個別の確認事項が飛んでくる可能性も高い。
六時を過ぎても学校にいたら、かなり厳しい。
でも、今ここで「今日は無理です」と抜けるのも違う。
備品班の中心として名前が出ている以上、最初から逃げるのはあまりに印象が悪い。
学校の声と、配信の声。
どちらも今日必要になる。
そして今、その両方の時間がゆっくりと重なり始めていた。
「久瀬?」
真白が小さく呼ぶ。
「はい」
「顔」
それだけで意味は十分だった。
また“何かある顔”をしているのだろう。
「少し、だけ」
慎重に言う。
「夜が厳しい?」
真白の問いが、まっすぐすぎて少し驚く。
最近の彼女は、こちらの曖昧さを曖昧なまま受け取らず、かなり核心寄りまで触れてくる。
「……はい」
今日に限っては、ごまかすのも苦しい。
「少し」
「またその“少し”」
真白が小さく息を吐く。
「でも今日は、たしかにそういう顔」
日野も横から覗き込む。
「やばそう?」
「まだ、調整次第です」
「それ今いちばん危ないやつじゃん」
すばるが言う。
その通りだった。
まだ完全に無理ではない。
でも、残るなら残るで夜が危うい。
早く抜ければ学校側が気まずい。
どちらも中途半端なまま時間だけが過ぎるのが、いちばんまずい。
「……とりあえず」
級長が声を張る。
「残れる人だけで一回やろう」
その一言で、流れはほぼ決まった。
湊人は小さく息を吐く。
残るしかない。
少なくとも、今すぐは。
◇
文化祭準備の残り時間は、想像以上に“声”が必要だった。
画鋲はどこに置くか。
布は誰が取りに行くか。
脚立を使うなら誰が支えるか。
掲示位置をどこまで下げるか。
当日の来客導線は右回りか左回りか。
こういう細かい相談が、五分ごとに生まれる。
そのたびに誰かが呼ぶ。
「久瀬くん、これでいい?」
「柊坂さん、その表まとめて」
「鳴海、飾りは後で」
「日野、先にガムテ持ってきて」
クラス全体がばらばらに動いているようで、でも少しずつ一つの形へ向かっていく。文化祭準備とは、たぶんそういう時間だ。
そして湊人は、その流れの中で否応なく声を使っていた。
短く返す。
必要な指示を出す。
人を傷つけないように、でも迷わせないように言う。
気づけば、自分が思っていた以上に“まとめる側”へ寄っている。
そのことに、ふとぞっとする瞬間があった。
こういうのは、危ない。
うっかりすると“学校の久瀬湊人”ではなく、“場を回すのに慣れている誰か”の声が出る。
しかも今日は、夜にも同じことを別の場所でやらなくてはならないのだ。
「久瀬」
真白が、脚立の横から小さく呼ぶ。
「はい」
「今何時」
スマホを見る。
十八時十三分。
胸の奥が冷える。
もう危ない。
「……少し、急ぎます」
そう返すと、真白は一瞬だけ黙ってから、脚立の上を見上げたまま言った。
「わかった」
その一言が、今日はいちばんありがたかった。
責めない。
でも分かっている。
その距離感でいてくれるのが、今の自分には救いだった。
紬希も少し離れた場所から、そのやりとりを見ていた。
文化祭準備の中での久瀬は、やっぱりかなり目立つ。
前に出たいわけじゃないのに、結局人が声をかけてしまう。
そして、その返し方がきれいすぎる。
学校の声と、配信の声。
今日の彼の中で、その二つがかなり近づいているのを、紬希は静かに感じていた。
◇
十九時少し前、ようやく抜けられる流れができた時には、湊人の中ではかなり焦りが強くなっていた。
「ごめん、先帰る!」
日野が先に鞄を引っつかむ。
「俺ここまでな」
「おつかれー」
すばるが手を振る。
その流れに乗るように、湊人も口を開いた。
「……僕も、今日はここで」
教室の空気が少しだけ揺れる。
でも今はもう、止まっている余裕がない。
「うん」
真白が短く頷く。
「今日は仕方ない」
その言い方が、やっぱり少しだけやさしい。
紬希も小さく頷いた。
「お疲れさま」
「ありがとうございます」
すばるは少しだけ不満そうな顔をしながらも、笑って言う。
「今度は夜の予定がない日にして」
「それはぜひ」
湊人も苦笑した。
鞄を持って教室を出る。
廊下を急ぎ足で進みながら、胸の中では二つの感覚が同時に鳴っていた。
学校側にちゃんといたい。
でも、夜にも間に合わなければならない。
文化祭準備は、秘密を隠したい人間に向いていない。
しかも今日は、その“向いていなさ”がかなりはっきり出た。
誰かに必要とされるたび、声を出さなければならない。
その声が学校での自分を少しずつ前へ押し出す。
そして、その数十分後には、今度は配信者として別の声を求められる。
家へ向かう道を急ぎながら、湊人は思った。
「……これ、本当にいつまで持つんだ」
答えはまだない。
でも少なくとも今日、自分は初めてはっきり実感した。
学校の声と、配信の声が、同じ日に必要になること。
そしてその二つが、もう簡単には切り離せないところまで来ていることを。




