第33話 知られてしまったあとでは、やさしささえ少し痛い
月曜日の朝、久瀬湊人は目覚ましが鳴る前に目を開けた。
眠れなかったわけではない。
けれど、深く眠れた感じもなかった。
文化祭の日の非常階段。
たった数秒の通話。
振り返った先にいた、三人の顔。
鳴海すばるの、信じたくないものを聞いてしまった顔。
倉科紬希の、声も出せないほど揺れた顔。
柊坂真白の、“今のは何”を飲み込んで立ち止まった顔。
どれも、目を閉じるとまだ鮮明だった。
正体はまだ知られていない。
でも、もう何も知らないままではいられない。
その感覚だけが、朝の胸のあたりへ重く残っている。
「……行くか」
小さく呟いて、布団を出る。
制服に袖を通し、鏡を見る。
顔色は悪くない。
少なくとも、教室へ入る前に「何かありました」と言っているような顔ではない――たぶん。
そう思いたいだけかもしれないが、今日の自分には、その“たぶん”に縋るしかなかった。
◇
教室の扉を開けると、思っていたよりいつも通りの朝の音があった。
椅子を引く音。
誰かが笑う声。
廊下から聞こえる別クラスのざわめき。
世界は、文化祭の翌日に秘密が少し揺れたからといって、都合よく止まってはくれないらしい。
日野は前の席でスマホを見ながら「あー、今日だる」といつも通りのことを言っている。
真白は席についていて、窓の外を見るふりをしながら、実際には周囲の空気をかなり拾っているのが分かる。
すばるはまだ来ていない。
紬希もまだだ。
そのことに、少しだけ安堵してしまう自分がいる。
同時に、その安堵が情けないとも思う。
「おはよう」
真白が先に言った。
「おはようございます」
湊人は少し驚きながら返す。
昨日までなら、その一言だけでかなり救われたと思う。
でも今日は、その“普通に始めてくれた”こと自体が逆に少し痛かった。
真白は数秒だけこちらを見て、それから小さく言う。
「……寝不足っぽい」
「そうでしょうか」
「うん」
「また観察ですか」
「アンタがわかりやすすぎるの」
その返し方は、かなりいつも通りだった。
少なくとも表面上は。
でも真白はそこで言葉を切らず、少しだけ声を落とす。
「今日」
「はい」
「無理に普通の顔しなくていい」
一瞬、呼吸が止まりそうになる。
「……え」
「文化祭の疲れってことにしとけば、まあ通るし」
真白は視線を逸らしたまま言う。
「だから、変に整えようとしすぎると逆に変」
そこまで言ってから、少しだけ自分でも言いすぎたと思ったのか、小さく息を吐いた。
「……以上」
それで会話を切る。
やさしい。
かなりやさしい。
でも、そのやさしさは今の湊人にとって少し痛かった。
昨日のことを、はっきり言葉にはしていない。
でも確実に、その“あと”の自分へ向けられた気遣いだからだ。
知られてはいない。
でも、何かがあったことはもう隠しきれていない。
「……ありがとうございます」
静かに言うと、真白はすぐに返した。
「そこは礼じゃなくて、普通にして」
「難しいですね」
「知ってる」
その短いやりとりの中で、やっぱりこの人は鋭いなと思う。
そして、その鋭さを今日は自分のために使ってくれているのだと分かるから、なおさら少し苦しかった。
◇
すばるが教室へ入ってきたのは、その少しあとだった。
「おはよー……」
いつもより、明らかに声が低い。
いや、低いというより、勢いが足りない。
鳴海すばるは、わかりやすい。
元気な時も、オタクのスイッチが入っている時も、へこんでいる時も、たいてい顔に出る。
今日の彼女は、かなり“考え込んでいる側”だった。
「おはよう」
真白が言う。
「何その顔」
「それ昨日真白も言ってた」
すばるが椅子へ座りながら返す。
「うん、でも今日の鳴海はほんとに顔が変」
「ひど」
そこまでの会話は、ぎりぎり普段通りを装えている。
だが、すばるの視線が一度こちらへ来て、すぐ逸れた。
その一往復だけで、湊人には十分だった。
聞いてしまった側の気まずさ。
決めつけたくないのに、耳が拾ってしまった違和感。
そこに何を足して、何を引けばいいのか分からない戸惑い。
全部、あの一瞬の視線に入っている。
「……おはようございます」
湊人が言うと、すばるは少しだけ遅れて返した。
「おはよ」
それだけ。
いつもなら、そこから何かしら軽口が続くのに、今日は続かない。
その沈黙を埋めたのは、日野だった。
「何、今日みんな寝不足?」
「日野は平和でいいね」
真白が言う。
「いやだって、文化祭終わった翌日なんてそんなもんじゃね?」
たしかに、それはかなり助かる解釈だった。
文化祭明けの疲れ。
その一言で、今日のぎこちなさの半分くらいは説明できる。
「それはそう」
すばるが小さく頷く。
「私もなんか、昨日変な時間まで起きてたし」
「オタクだから?」
真白が聞く。
「……まあ、少し」
その答え方に、真白がほんの少しだけ目を細める。
たぶん察しているのだろう。
昨夜、すばるがいろいろ考え込んでいたことも。
でも、ここではそれ以上触れない。
それがたぶん、今のこの場所を保つための最低限の優しさだった。
◇
紬希が来た時、空気はさらに少しだけ薄く張った。
「おはよう」
いつも通りの小さな声。
でも、その一言のあとにわずかな間がある。
「おはようございます」
湊人が返す。
紬希は一瞬だけこちらを見て、それから席に鞄を置いた。
彼女はすばるよりもっと分かりにくい。
でも分かりにくいぶん、揺れた時の静けさが深い。
文化祭の日のあの踊り場で、たぶん彼女は一番深いところを聞いてしまった。
声そのものよりも、温度や届かせ方の癖を見ている人だから。
それでも、何も聞かないでいてくれる。
今朝の挨拶も、壊さない方を選んでいる。
やさしい。
だから余計に痛い。
昼休みまでの授業は、全体的に少しぎこちなかった。
大きく崩れたわけではない。
ただ、窓際のいつもの会話のテンポが、ところどころで半拍ずつ遅れる。
すばるは何か言いかけてからやめることが多かったし、紬希は必要以上に静かだった。
真白だけは、ある意味いちばん強かった。
あえて平常運転のテンポを崩さず、会話の隙間が変に深くならないようにしている感じがある。
日野がいなかったら、たぶんもっと重くなっていた。
あの男は何も知らないぶんだけ、こういう時にすごく強い。
気づかないようでいて、空気の濁りだけはなんとなく散らしてくれる。
◇
昼休み、窓際。
パンとお弁当が並び、席もいつも通り。
でも、五人のあいだにはごく薄い膜が一枚ある。
「でさ、文化祭の写真、やっぱり日野の顔が一番やばかった」
すばるがスマホを見ながら言う。
「やばいって何」
日野が笑う。
「全部同じ顔」
「それはそれで才能」
真白が言う。
「ひどくない?」
「でもわかる」
紬希が小さく言った。
そこで少しだけ、空気が普段に近づく。
すばるはそのまま写真を次へ送る。
「真白はほら、どれも顔いいし」
「雑」
「褒めてる」
「褒め方が雑」
「倉科さんはなんか全部ちょっとやわらかい」
「それも雑じゃない?」
紬希が少しだけ笑う。
そこまで流れてから、不意にすばるの指が止まった。
画面を見たまま、ほんの少しだけ黙る。
そこに映っていたのが何だったのかは分からない。
でも、たぶん文化祭の日のどこかの写真なのだろう。
彼女は数秒だけ迷って、それからスマホを伏せた。
「……ねえ」
その声で、全員が少しだけそちらを見る。
「なに」
真白が聞く。
すばるは一瞬だけ湊人を見て、それから視線をテーブルに落とした。
「私さ」
「うん」
「決めつけたくないんだよ」
教室の音が、急に遠くなった気がした。
その言葉が、誰に向けられているかは明白すぎた。
でも、彼女は“何を”とは言わない。
「でも」
すばるは小さく息を吐く。
「でも、聞こえちゃったものって、なかったことにはできないじゃん」
紬希の指先が止まる。
真白は何も言わない。
日野だけが、状況を完全には掴みきれず、でも口を挟まない方がいいと本能的に感じたのか黙っている。
湊人は、喉の奥が少しだけ乾くのを感じた。
ここで何を返すかで、今後が変わる。
でも、認めることも、強く否定することもできない。
「……そうですね」
ようやく出たのは、それだけだった。
弱い。
弱すぎる。
自分でもそう思う。
けれど今の自分には、それが限界だった。
すばるは少しだけ困ったように笑う。
「そこ、否定しないんだ」
刺さる。
かなり刺さる。
「鳴海」
真白が低く言った。
「それ以上は」
「わかってる」
すばるはすぐに言う。
「だから決めつけないって言ってる」
その声が、少しだけ揺れる。
「ただ、前みたいに“似てて面白い”だけでは、もういられないなって思って」
そこまで言ってから、自分で少しだけ顔をしかめる。
「……ごめん、重いね」
「謝らなくていい」
真白が言った。
そして、そのまま静かに続ける。
「重いのは、たぶんみんな同じだから」
その一言に、紬希がほんの少しだけ顔を上げた。
たぶん、自分だけじゃなかったのだと、その瞬間に思ったのだろう。
「私も」
紬希の声は小さい。
でも、ちゃんと届いた。
「何も知らないまま、みたいには……たぶん、戻れない」
それは、ほとんど告白みたいな言葉だった。
恋ではなく、認識の方の。
文化祭の日のたった数秒が、彼女の中の“偶然”を壊してしまったのだ。
真白はそこで初めて、はっきりと湊人を見た。
「私は、二人ほど直接わかってない」
その言い方が、真白らしい。
「でも」
「……はい」
「アンタに、学校の外の顔があるのはもうほぼ確信してる」
その言葉は、静かだった。
でも、一番逃げ場がない言い方でもあった。
すばるは“似ているかもしれない”。
紬希は“偶然では済ませられない”。
真白は“外の顔があると確信している”。
三人とも違う。
違うのに、全部こちらへ近づいている。
湊人は、しばらく何も言えなかった。
「……ごめん」
ようやく出たのは、その一言だった。
真白がすぐに眉を寄せる。
「そこ謝るの、ずるい」
「ずるい?」
「だって、そう言われるとこっちもそれ以上責めにくいでしょ」
かなり正しい。
でも、それがずるさだと分かっていても、他の言葉が出てこない。
「……悪意はないんです」
せめてそれだけは言いたかった。
「隠したいというより」
「言えない?」
紬希が静かに聞く。
その問いはやわらかいのに、核心だった。
湊人は、ほんの少しだけ目を閉じる。
「はい」
短く答える。
「今は」
その“今は”が、また少しだけ空気を揺らす。
今は、ということは。
いつかは違うのか。
あるいは、今は言えないだけで、確かに“何か”はあるのか。
そこまでは誰も踏み込まなかった。
たぶん、踏み込めば本当に戻れなくなると分かっているからだ。
「……じゃあ」
すばるが小さく言う。
「今は、聞かない」
その決断には、かなりの葛藤があったはずだ。
推しに似ているかもしれないものを見つけたオタクが、そこを掘らないと決めるのは簡単じゃない。
でも彼女は、ぎりぎりのところでそちらを選んだ。
紬希も頷く。
「私も」
そして真白が、少し遅れて口を開いた。
「その代わり」
その一言に、また全員の空気が張る。
「今後も“何もない顔”はやめて」
真白はかなり真っ直ぐだった。
「言えないなら言えないでいい。でも、こっちが何も感じないと思ってるみたいな顔されるのが一番腹立つ」
その言葉は、鋭くて、でもかなり誠実だった。
湊人は小さく息を吐く。
「……わかりました」
「ほんとに?」
「努力します」
「それ禁止」
真白が即座に切る。
そのやりとりに、ほんの少しだけ笑いが戻った。
薄い。
かなり薄い笑いだ。
でも、その薄さでも、今はありがたかった。
◇
放課後、教室を出たあとも、湊人の胸の中には昼の会話が重く残っていた。
正体はまだ知られていない。
でも、“何か外の顔がある”ことも、“偶然では済ませられない近さがある”ことも、もう三人の中で完全に消すことはできない。
それは最悪だ。
でも同時に、不思議と少しだけ楽でもあった。
全部を知られたわけではない。
でも、何も知らないふりをされる段階ではなくなった。
その中間みたいな場所へ、ようやく立てたのかもしれない。
もちろん安心などできない。
むしろこれからの方が危ない。
少しでも綻べば、一気に線が繋がる可能性がある。
それでも、昼の窓際で交わされた言葉は、ただ疑われただけではなかった。
聞かない。
でも感じていることはなかったことにしない。
言えないなら、せめて嘘みたいな顔はしないで。
それはある意味、かなりやさしい条件だった。
「……難しいけど」
独り言が漏れる。
でも、そう言いながらも前へ進むしかないことは、もう分かっていた。
◇
同じ頃、御門朱莉は校門近くで再びあの黒い車を見ていた。
今度はよく見える位置だ。
運転席の男は昨日と同じ。
そして今日は、後部座席から一瞬だけ、年配の男が降りるのが見えた。
学校関係者ではない。
保護者にしては、立ち方が違う。
ただの送迎でもない。
そして何より、その男が校門の方を見た時の視線が、“誰か一人”を確認しに来た人間のそれだった。
朱莉は思わず足を止めた。
その瞬間、少し離れた位置に久瀬湊人の姿が見えた。
彼は車へ近づきはしない。
でも、ほんの一瞬だけそちらを見て、すぐ目を逸らした。
その反応だけで十分だった。
「……なるほど」
朱莉は小さく笑う。
かなり面白い段階へ入ってきた。
配信者かどうかはまだ決めない。
でも、家柄か、あるいはそれに類する何かは、もうかなり怪しい。
しかもそれが、学校の近くまで来ている。
つまり、秘密の方からこちらへ触れ始めているということだ。
朱莉はスマホを取り出し、何も打たずに画面を閉じた。
今はまだ、誰にも言わない。
でも、この静かな車が、近いうちにもっと大きな波を連れてくる気がしてならなかった。
◇
夜、自室でヘッドセットを前にした湊人は、しばらく配信開始ボタンを押せずにいた。
AstraLink側では今日も普通に動かなければならない。
コメント欄の向こう側には、何も知らずに待っている人たちがいる。
箱の中の後輩たちも、自分がいつもの温度でいることを前提にしている。
学校側では、もう“何も知らないまま”ではない。
でも、完全に知られたわけでもない。
そのあいだで、自分は今夜も笑わなければならない。
「……いけるか」
小さく息を吐いてから、湊人はようやく配信を始めた。
夜の王子としての声は、ちゃんと出た。
でもその奥で、昼の窓際の空気がまだ消えていない。
正体はまだ知られない。
でも、もう何も知らないままではいられない。
その段階へ物語が入ったことを、湊人だけでなく、たぶんヒロインたちもそれぞれの形で感じ始めていた。




