第28話 静かに見ていた子は、もう偶然では済ませられない
倉科紬希は、自分が一線を越えないように気をつけているつもりだった。
何の一線かと言われると、うまく説明できない。
でも少なくとも、誰かのことを勝手に深読みしすぎないこと。
推しと同級生を、都合よく同じ棚へ置かないこと。
そして、自分の中で生まれた違和感を、そのまま真実扱いしないこと。
そこは守ろうと思っていた。
鳴海すばるみたいに、思いついたことをすぐ口に出せるタイプではない。
柊坂真白みたいに、違和感を違和感のまま鋭く突きつけられるタイプでもない。
だから紬希は、静かに見て、静かに考えて、結論が出ないうちは飲み込む。
そのやり方で、今まではやってきた。
けれど、その静かさのまま、もう偶然では済ませられないところまで来てしまったのかもしれない――そう思わされたのは、水曜の放課後だった。
◇
その日は文化祭準備の簡単な打ち合わせがあり、放課後の教室はいつもより少しだけ人が残っていた。
机を寄せる音。
役割表の紙が回される音。
先生が「細かいことはまた明日」と言って出ていく足音。
そんな雑多な空気の中で、紬希は自分の係のメモをノートへ写していた。
窓際の方では、すばるが「いや絶対、装飾は可愛く寄せた方がいいって」と熱弁し、真白が「アンタの“可愛い”は信用ならない」と冷静に切っている。日野はその間を笑いながら取り持ち、久瀬は必要なところだけ拾って、話が変に拡散しないよう整えていた。
いつもの四人の流れ。
でも今は、そこへ“クラス全体の相談”という空気が乗っている。
だからこそ、久瀬湊人の動き方が少し目立って見えた。
前へ出すぎない。
でも放っておかない。
誰かの意見が強くなりすぎればやわらかくならす。
意見が弱ければ拾う。
先生がいない瞬間に雑然としそうな場を、自然なまま保っている。
そういうところが、やっぱり“知っている人”に見える。
御門朱莉が前に言っていた、
場のさばき方を知っている
という表現を、紬希はふと思い出していた。
「倉科さん」
不意に名前を呼ばれて、顔を上げる。
久瀬だった。
いつの間にかすぐ近くまで来ていて、手には役割表のコピーが一枚ある。
「これ、まだ受け取っていませんでしたよね」
「あ……うん」
受け取ろうと手を伸ばす。
その瞬間だった。
久瀬のスマホが、制服のポケットの中で短く震えた。
本当に短い通知音。
でも、近い距離にいた紬希には十分に分かった。
同時に、久瀬の表情がほんの一瞬だけ変わるのも見えた。
いつもの“少し困る”ではない。
もっと、反射に近い種類の切り替わり。
「……どうしたの?」
紬希が小さく聞くと、久瀬はすぐに視線を戻した。
「いえ」
いつもの答えだ。
でも今日は、その“いえ”のあとに入る一拍が少しだけ不自然だった。
紬希は受け取った紙を見つめるふりをしながら、胸の奥がざわつくのを感じる。
また、何かある。
また、学校のここではない場所の予定が、今この人を呼んでいる。
それ自体はもう珍しくない。
問題は、そのあとの数分だった。
◇
打ち合わせが終わり、教室の空気が帰り支度のそれへ変わる。
人が少しずつ減る中で、久瀬はスマホを確認していた。
その横顔は落ち着いているようで、でもやはりどこか急いでいる。
日野が先に友達へ呼ばれて出て行き、すばるも先生へ確認事項があるとかで教室を離れた。
残ったのは、真白と紬希と、久瀬。
その静かな三人の空気の中で、真白が先に口を開いた。
「行くの?」
短い問い。
「……はい」
久瀬が答える。
「少し」
「少し、ね」
真白が繰り返す。
そのあいだ、紬希は何も言わなかった。
言わなかったけれど、耳はその会話を全部拾っている。
真白の声は、最近こういう時だけ少し静かになる。
怒っているわけでもない。
でも、引っかかっているのが分かる声。
「またそうやって急にいなくなるんだ」
その言葉は、前にも聞いた気がした。
いや、似た空気を感じたことがある。
久瀬は少しだけ黙ってから、静かに言った。
「……本当は、行きたいんです」
紬希の指先が止まる。
教室の空気が、そこで少しだけ変わった。
その一言は、誰かをなだめるための飾った言葉ではなく、かなり素直な本音に聞こえた。
「土曜も」
久瀬は続ける。
「こういう放課後も、できれば」
そこまで言って、言葉が切れた。
真白は何も言わない。
でも、あの一瞬で救われたみたいな顔をしたのを、紬希は見てしまった。
ああ、と思う。
やっぱり真白も、同じように久瀬の“来る・いない”へ気持ちが動くところまで来ている。
そしてそのあとだった。
「――でも、今日は本当に外せないので」
久瀬がそう言った瞬間。
紬希の心臓が、妙な跳ね方をした。
言葉そのものではない。
意味だけなら、学校でもよくある断り方だ。
でも、今の“本当に外せないので”の音の置き方が、あまりにも見覚えのあるものだった。
見覚え、ではない。
聞き覚えだ。
アルトが、コラボ相手やコメントに対して、やわらかく、でもこれ以上踏み込ませない時の音。
少し低くなって、相手の顔を立てながら線を引く時の、あの呼吸。
頭の中で、夜のアーカイブの一節が勝手に再生される。
「その言い方ですと、皆さんが少しだけ誤解してしまいますから」
「それはうれしいですが、今日は穏便にいきましょうか」
「本当にありがたいんですけど、今は少し外せない予定がありまして」
似ている。
いや、近い。
でも今日のこれは、その“近い”を一歩越えて、かなり危険な場所まで寄ってきた気がした。
息が浅くなる。
そんなはずない。
そんなことあるわけない。
でも、耳が勝手に“同じ方向の技術”を聞き取ってしまう。
すばるがあの手の違和感にざわつく理由が、今なら少し分かる気がした。
それは、単に声が似ているからではない。
人との距離を、言葉で傷つけずに動かす時の癖が近いのだ。
その場では何も言えなかった。
真白も、たぶん別方向の違和感に触れていた。
教室に小さな沈黙が落ち、そのまま久瀬は「では、また明日」とだけ言って出ていった。
扉が閉まる。
静けさが残る。
紬希は、自分の呼吸が少し乱れていることに気づいた。
◇
「……倉科さん」
真白の声で我に返る。
「え」
「大丈夫?」
真白は少しだけ不思議そうな顔をしていた。
「なんか、顔色」
「だ、大丈夫」
すぐそう返したが、声が少しだけ掠れてしまう。
真白は数秒黙ってから、ふっと息を吐いた。
「ならいいけど」
そこで会話は終わった。
真白はあまり深入りしない。
でも、今の自分の動揺を少しは見られたかもしれない。
教室を出て、廊下を歩く。
足元が少しだけふわふわする。
頭の中では、さっきの一言が何度も繰り返されていた。
今日は本当に外せないので。
同じ意味の言葉なら、世の中にいくらでもある。
でも、今のあれはあまりにも“届かせ方”が近かった。
まるで、夜の配信で聞いている人が、昼の教室で目の前にいたみたいに。
「……まさか」
口に出してから、すぐに打ち消す。
そんなわけがない。
同級生が、二百万人登録の大手所属VTuberなわけがない。
それはさすがに現実味がなさすぎる。
話としてはきれいすぎるし、都合がよすぎる。
でも、その“都合がよすぎる”と理性で否定している横で、耳と心は別の方向へ揺れていた。
もし、ほんの少しでも近いなら。
もし、何かしら繋がるものがあるなら。
そう考えてしまう自分が、怖い。
◇
その夜。
紬希は部屋の机に座ったまま、スマホを何度も持っては置いていた。
アルトのアーカイブを開く。
少し聞く。
止める。
今日の教室での久瀬の声を思い出す。
またアーカイブを開く。
完全にだめな流れだと分かっていた。
こんなの、比較だ。
しかも、かなり危うい方向の。
でも一度気づいてしまった耳は、なかなかそこから離れてくれない。
何度目かの再生で、アルトがコメントへやわらかく返す場面が流れる。
『それはとてもうれしいんですけど、今日は少しだけ、ここまでにしておきましょうか』
そこで、紬希はスマホを止めた。
ベッドへ倒れ込むように座り込む。
近い。
やっぱり近い。
でも、それが“同じ人”の証拠になるわけではない。
人の言い方は、似ることがある。
好きな配信者の話し方を、無意識に自分の中で心地いいと感じることもある。
だから、久瀬がたまたまその方向の声や言葉を持っているだけ、という説明も一応は成り立つ。
成り立つ。
けれどもう、“ただの偶然で片づけよう”とするには苦しいところまで来てしまっている。
「……録音、したら」
自分でも信じられない考えが浮かぶ。
もし、学校で久瀬の声を録音して、後で比べたら。
そんなの、最低だ。
しかも、比べたところで何になる。
証拠でも何でもないし、もし近かったら近かったで、余計に戻れなくなる。
でも、一度浮かんだ考えは簡単には消えない。
スマホを持ったまま、紬希はしばらく固まっていた。
学校で録音するなんて絶対にだめだ。
そんなことをしたら、自分が自分でなくなる気がする。
それに、もし違った時、何をしているんだろうと思う。
もし近かった時はもっと困る。
「……だめ」
小さく言う。
それでも、指はスマホのボイスメモのアイコンを一度だけ開いてしまった。
開いて、すぐ閉じる。
胸がどくどくとうるさい。
自分がどこまで行こうとしていたのかを、自分で自覚してしまって怖くなった。
ここまで来たら、もう偶然では済ませられない。
少なくとも、自分の中では。
でも、だからといって真実を知りたいかと言われたら、それもまだ分からない。
知った瞬間に、今の“学校で静かに気になっている人”と“遠くて憧れの推し”が、一つに重なってしまうかもしれない。
それは甘い夢みたいでもあり、同時にかなり残酷でもある。
どちらか片方だけでいいのに。
そう思う。
でも心は、すでに両方を見てしまっている。
紬希はスマホを伏せて、枕へ顔を埋めた。
静かに見ていた子は、もう偶然では済ませられないところまで来てしまった。
けれど、その先へ本当に踏み込む勇気は、まだどこにもなかった。




