第27話 ツンデレは、相手の不在にいちばん先に慣れたくない
柊坂真白は、自分が我慢強い方だと思っていた。
我慢強いというより、慣れるのが早い、の方が近いかもしれない。
教室替えも、席替えも、クラスの空気が変わることも、最初に少し面倒だと思っても、そのうち勝手に馴染む。人間関係だってそうだ。誰かが近づいてきても、少しずつ距離を測って、そのうち“こういう人”だと整理してしまえば、そこまで振り回されない。
だから久瀬湊人という転校生についても、最初はそうなるはずだった。
変なやつ。
妙に丁寧。
育ちがよさそうで、でも目立ちたくなさそうで、くせにところどころで目立つ。
たまにムカつく。
でも、いちいち引っかかっていたら面倒だから、そのうち慣れるだろうと思っていた。
実際、慣れた部分もある。
朝の「おはようございます」も、
昼休みに自然と同じ場所へ集まる感じも、
何かあると少し困った顔で曖昧に言葉を濁す癖も。
見慣れた。
聞き慣れた。
だから、もう少し平気になると思っていた。
なのに、どうしてだろう。
最近の真白は、久瀬が“いない”方に全然慣れない。
◇
その週の火曜日、五限目の終わり頃だった。
授業の内容は頭に入っていたし、ノートも普通に取っていた。
けれど教室の空気の中で、真白はなんとなく隣の席の気配が薄いことに先に気づいていた。
久瀬が今日は少し上の空だ。
授業中の反応が半拍遅い。
スマホを見る回数が多い。
そして、何かを言うたびに“今ここにいる自分”へ戻ってくるのが少し遅い。
こういう日は大体、途中でどこかへ消える。
「……またか」
小さく心の中で呟く。
大きな予定を聞かされているわけではない。
でも今の真白には、分かる。
久瀬湊人が、今日どこかで“学校じゃない方の自分”へ切り替わる日だと。
それが嫌だとか、そういうわかりやすい感情ではない。
ただ、落ち着かない。
最初からいないならまだいいのに、ちゃんと隣にいて、普通に話して、少しだけ笑って、それから急に別の場所へ行くのが、妙に落ち着かない。
六限目の前の短い休み時間。
案の定、久瀬のスマホが震えた。
本人はすぐにポケットへ手を入れたが、その一瞬の表情の変化を、真白は見逃さなかった。
嫌な予感が、当たる時の顔。
それを見た瞬間、胸の奥がわずかに冷える。
「何」
真白が小さく聞く。
「え?」
「今の顔」
久瀬は少しだけ目を逸らした。
「……少し、連絡が」
「また」
その一言が、思った以上に冷たく出た。
自分でも分かった。
今のは、ちょっと棘がある。
でも久瀬は怒らなかった。
怒る代わりに、少しだけ困った顔になる。
その顔がまた、真白には腹立たしい。
「すみません」
「だから、そういう時の謝る顔やめて」
すぐにそう返していた。
久瀬の目が少しだけ丸くなる。
周囲にはまだ何人かいたが、この会話自体は小さい。だから、他の誰にも聞こえてはいないはずだ。
「……やっぱり、今日も」
真白は少し視線を落としてから言う。
「途中でいなくなるの」
久瀬は数秒黙った。
それが一番ずるい。
黙る時点で、たぶん図星なのだ。
「……可能性は」
「ある」
真白が先に言ってしまう。
「でしょ」
「はい」
その“はい”が、やけに素直で、余計に腹が立つ。
別に、今日必ず最後までいろなんて思っているわけじゃない。
そんな権利はない。
ただ、最近の自分はどうも、それを“仕方ない”だけで処理できなくなっている。
前なら、“またか”で終わった。
むしろ“何か事情あるんでしょ、知らないけど”で切れたはずだ。
なのに今は、どこかで“今日は残れるかも”を勝手に期待してしまっている。
その期待が、鬱陶しい。
そして、その期待を持っている自分がもっと鬱陶しい。
「……何時」
結局、そんなことを聞いてしまう。
「まだ確定では」
「じゃあ聞かない」
真白はぴしゃりと切った。
聞いて、曖昧に濁されるのが一番面倒だ。
久瀬は何か言いかけたが、そこでベルが鳴った。
六限目開始。
会話はそのまま切れる。
救われたような、余計にむかつくような、微妙な気分だった。
◇
六限目のあいだ、真白はわりと本気で自分に苛立っていた。
何をやっているんだろうと思う。
途中でいなくなるかもしれないことに、いちいち反応して。
何時なのかを聞こうとして。
しかも、聞いたあとで曖昧な答えが返ってきそうだからやめる、みたいな面倒なことをして。
そんなの、完全に気にしている人の行動じゃないか。
「……最悪」
ノートの端へ小さく書いて、すぐ消す。
最悪なのは久瀬ではない。
自分だ。
最近、隣の席にいることが少し当たり前になってしまった。
朝に来る。
昼休みに窓際へ行く。
わりと自然に、そこにいる。
その“いる”を前提にしているから、いなくなる気配があると気持ちがざわつく。
でも、そのざわつきを恋だと認めるのは、まだ少し違う気がする。
違う、と思いたいだけかもしれない。
ただ一つはっきりしているのは、真白が“いなくなることに慣れたくない”と思い始めていることだった。
◇
放課後、ホームルームが終わる。
教室にざわめきが戻り、椅子を引く音と鞄を持つ音が交じる。
真白はすぐには立たなかった。
隣の気配を意識しないようにしながら、それでも耳はそちらを拾ってしまう。
久瀬が、スマホを見ている。
やっぱり、と思う。
その時点で大体分かる。
少し遅れて、久瀬が立ち上がった。
「……すみません、今日は少し」
誰にともなくではなく、ここ数日でできあがった“窓際のメンバー”に向ける言い方だ。
すばるがすぐに反応する。
「また?」
日野も「あー」と声を出す。
紬希は何も言わないが、視線だけが少しだけ落ちる。
真白は、その空気の中心にいたくなくて、でも逃げるのも変で、結局席に座ったまま口を開いた。
「行くの」
「……はい」
短い返事。
腹が立つ。
たぶん、久瀬本人にではなく、こうやって返事を聞いてしまう自分に。
「そっか」
それだけ言うつもりだった。
でも、言い終えたあとで、言葉が胸の中に引っかかった。
違う。
それだけじゃ全然足りない。
「……またそうやって」
気づけば続けていた。
「急にいなくなるんだ」
教室の空気が、少しだけ静かになる。
言ってしまった、と思った。
でも、もう遅い。
久瀬は何も返さなかった。
いや、返せなかったのかもしれない。
その沈黙が、余計に真白をいらつかせる。
何か言えばいいのに。
違うとか、悪かったとか、来たかったとか。
いや、“来たかった”なんて言われたらもっと困るのだけれど。
「……本当は」
その時、久瀬が静かに言った。
「行きたいんです」
真白は目を上げる。
教室の中で、その一言だけが妙にまっすぐ響いた。
日野も、すばるも、紬希も、みんな少しだけ動きを止めている。
冗談でも、言い逃れでもない声だった。
「土曜も」
久瀬は続ける。
「こういう放課後も、できれば」
そこまでで言葉が切れる。
ああ、と思う。
真白はその瞬間、少しだけ救われてしまった。
来たくないわけじゃない。
いなくなりたいわけでもない。
ここにいる気がないわけでもない。
その一言があるだけで、たぶんかなり違う。
でも同時に、それを聞いたせいで、余計に苦しくもなる。
来たいのに来られないなら、次からもまた期待してしまうから。
「……そう」
それしか言えなかった。
そのあと久瀬は、いつもの少しだけ整いすぎた言い方で「でも、今日は本当に外せないので」と続けた。
あの時、教室の空気が少しだけ変わったのを真白も感じていた。
すばるも紬希も、何かしら引っかかった顔をした。
でも真白にとって、あの時いちばん強く残ったのは、言い方の不自然さよりも、その前に出た本音の方だった。
行きたいんです。
それを言った時の、少しだけ不器用な声。
あれが、変に残る。
◇
翌日。
朝から真白は、妙な苛立ちと妙な落ち着きの両方を抱えていた。
昨日は少し言いすぎたかもしれない。
でも、聞いてよかったこともある。
久瀬が“来たくないわけじゃない”と知れたことだ。
だから、教室で顔を合わせた時、真白はできるだけ普通にした。
「……おはよう」
「おはようございます」
それだけのやり取り。
でもそのあと、つい先に言葉を足してしまう。
「ちゃんと帰れたの」
自分でも少しだけ驚く。
真っ先に出るのがそれなのか、と。
久瀬は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに「はい。なんとか」と答えた。
真白は「ならいい」と返す。
それで本当に十分だった。
怒ってはいない。
責めたいわけでもない。
ただ、ちゃんと帰れたかだけは、少し気になっていた。
その事実が、真白を少しだけ困らせる。
昨日の夜、自分の部屋で一人になってから何度も考えた。
どうしてあそこまで気になるんだろう、と。
久瀬が変なやつだから。
隣の席だから。
途中でいなくなるのが、毎回少し不自然だから。
そういう理由はいくつも並ぶ。
でもたぶん、本当はもっと単純だ。
自分はもう、“いること”を前提にしてしまっている。
だから不在が引っかかる。
ただそれだけ。
それはかなり危ない。
危ないから、なるべく軽く処理したい。
「……怒ってない」
思わず、そんなことまで口にしてしまったのも、たぶんその一環だった。
「ただ、何かあるなら毎回あんなふうに変な顔しながら誤魔化すの、下手だなとは思ってる」
そう言うと、久瀬は少しだけ苦笑した。
その苦笑が、また自然で、少しだけ腹が立つ。
◇
昼休み、窓際。
今日もいつもの流れで人が集まる。
日野が購買の話をして、すばるが乗っかって、紬希がお弁当を開く。
久瀬も、今日のところは“ちゃんといる”。
それだけで、真白の気分は昨日よりましだった。
「今日の焼きそばパン、過去一うまい」
日野が言う。
「語彙」
真白が返す。
「いやでもほんとに」
「日野ってたまに食レポ壊滅的よね」
すばるが笑う。
「それで伝わる時もあるからいいんだって」
久瀬が言った。
「そのフォロー、ちょっと優しい」
すばるがにやにやする。
「真白、今のも好きそう」
「何でそうなるの」
真白がすぐに切る。
「いや、だって」
「鳴海」
少し低めの声になる。
「今日の私は機嫌がいいからって、調子に乗らないで」
「機嫌いい自覚あるんだ」
日野が笑う。
真白はそのまま牛乳パックにストローを刺しながら、少しだけ視線を逸らした。
機嫌がいい自覚はある。
あるのがもう嫌だ。
昨日みたいに途中でいなくなる気配がないだけで、こんなに楽なのかと思う。
そんなのは、どう考えてもよろしくない。
「真白?」
紬希が不思議そうに見る。
「何でもない」
「その“何でもない”は絶対なんかある」
すばるが言う。
「鳴海は黙って」
「はいはい」
そこでまた笑いが起きる。
真白もつられて少しだけ笑う。
たぶん、自分はまだ恋だとは認めない。
認めたくないという方が近いかもしれない。
でも少なくとも、久瀬湊人の不在を“どうでもいい”では済ませられなくなっていることだけは、もう否定できなかった。
そして、いちばん先に慣れたくないと思っているのも、その不在なのだろう。
◇
放課後、真白は一人で帰り道を歩きながら、ふと昨日の自分の言葉を思い出していた。
またそうやって急にいなくなるんだ。
あれは、かなり本音だった。
責めたかったわけではない。
でも、あの時の自分はたぶん、ただ寂しかったのだ。
寂しい。
その言葉を、自分の感情に使うのは少し嫌だった。
でも、他にちょうどいい言葉も思いつかない。
いなくなることに慣れたくない。
来るなら来る、いないなら最初からそう言ってほしい。
そしてできれば、来る方を選んでほしい。
そんなふうに思ってしまうのは、やっぱりもう、かなり進んでいるのではないか。
「……面倒くさ」
小さく呟く。
でも、面倒くさいと思いながら、また明日も教室で隣の席を見るのだろう。
そこに久瀬がいたら、少しだけ安心するのだろう。
そして、いなかったら少しだけ機嫌が悪くなるのだろう。
最悪だ。
でも、その最悪を、今はまだ嫌いになれなかった。




