第26話 好きかもしれない相手が、推しに似ているのは反則だと思う
倉科紬希は、自分が恋に鈍い方だと思っていた。
いや、鈍いというより、そこへ名前をつけるのが遅いのかもしれない。
誰かと話して少しうれしい。
会えるとほっとする。
その人の声を思い出す。
そういう小さな感情は、たぶん誰にでもある。
だから、それがすぐに“恋”へ繋がるとは限らないはずだと、ずっと思っていた。
その考え方は、今も完全には変わっていない。
変わっていない、はずなのに。
月曜の朝、教室へ向かう廊下を歩きながら、紬希は自分の胸の内にある落ち着かなさを、もう“ただの気のせい”では片づけきれなくなっていた。
土曜のカラオケ。
そのあとに聞いたアルトの雑談。
日曜の夜、ベッドの中で何度も思い出してしまった二つの声。
久瀬湊人。
天瀬アルト。
別人だ。
そんなこと、理屈では分かっている。
でも分かっていることと、心が勝手に近い棚へ置いてしまうことは、少し違う。
しかも厄介なのは、どちらか一方だけならまだ楽だったということだ。
遠い推しとして、アルトを好きでいる。
それなら安全だ。
同じ箱に所属していても、直接会ったことはない。遠くて、すごくて、たまにやさしい言葉をくれる憧れの人。
その距離感のままで、自分は十分に救われてきた。
一方で、同級生の久瀬湊人が少し気になる。
それも、まだあり得る。
教室の窓際で一緒に昼を食べて、やわらかく話してくれて、困っている人を騒がずに助ける。そういう男の子を好きになるのは、たぶん普通のことだ。
でも、その二つが少しだけ似た方向を向いているから、余計に困る。
「……反則だよ、こんなの」
誰にも聞こえないくらい小さく呟いてから、紬希は教室の扉を開けた。
◇
朝の教室はいつものように少しずつ形を作っていた。
日野が前の席で誰かと話している。
すばるはスマホを片手に、すでに何かしらテンションの高い顔をしている。
真白は席についていて、窓の外を見ているふりをしながら、実際にはたぶん周囲の音をかなり拾っている。
そして、久瀬湊人ももう来ていた。
席についた横顔は、土曜の私服姿とも、夜の画面越しのアルトとも違う。
違うのに、見つけた瞬間に呼吸が少しだけ変わる。
紬希は、自分の席へ向かいながら小さく会釈した。
「おはよう」
「おはようございます」
返ってきた声に、胸の奥が微かに揺れる。
やっぱり好きだ、と思うほどではまだない。
でも、“この声を聞けてよかった”と思ってしまうことは、もう認めるしかなかった。
「倉科さん」
すばるがすぐに反応する。
「おはよ!」
「おはよう」
「なんか今日ちょっと眠そうじゃない?」
「え」
いきなり言われて、紬希は目を瞬かせる。
「そうかな」
「うん。少しだけ」
そこへ真白が横から入る。
「鳴海、その観察眼ほんとに時々気持ち悪い」
「えー、褒めてる?」
「全然」
日野が笑う。
「でもまあ、倉科さんちょっとぼんやりしてる感じはある」
「……昨日、少し夜更かししたかも」
正確には、夜更かしというほど遅くまで起きていたわけではない。
ただ、アルトのアーカイブを流しながら、途中で何度も止めてしまっただけだ。
「何見てたの?」
すばるが当然のように聞いてくる。
紬希は少し迷ったあと、正直に言った。
「……配信」
「おっ」
すばるの目が輝く。
「誰?」
「聞く?」
真白が呆れる。
「聞くでしょ」
「聞かない方がいい時もある」
「今は聞いていい時だよ」
日野が面白がる。
紬希はほんの少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、でも隠しきれないと思った。
どうせ、鳴海すばるにはそのうち嗅ぎつけられる。
「……アルトさん」
言った瞬間、すばるが机を叩く。
「やっぱり!」
「そんなに驚く?」
「いやだって、倉科さん絶対あの系統だと思ってたもん」
「どの系統」
「静かに深く刺さってる系」
「分類が細かい」
真白が言う。
久瀬はそのやりとりを、いつものように少しだけ困ったような、でも逃げない顔で聞いていた。
その横顔がまた落ち着いていて、紬希は自分の心がややこしくなるのを感じる。
「土曜のあと、ちょっと見返してたの?」
すばるが聞く。
「うん」
「そりゃ寝不足にもなるわ」
「ならないでしょ普通」
真白が切る。
「そこまででは……」
紬希が言いかけると、久瀬が小さく口を開いた。
「でも、好きなものを見返していたら時間が経つのはよくあります」
その一言が、あまりにも自然に優しくて、紬希は一瞬だけ言葉を失った。
好きなものを見返していたら時間が経つ。
たしかにそうだ。
でも、それをこういう温度で言われると、自分の中の気持ちまで少し肯定されてしまう気がする。
「……うん」
ようやくそれだけ返す。
すばるはそのやりとりを見ながら、なぜか少しだけ目を細めていた。
◇
午前中の授業は、紬希にとってあまり集中できるものではなかった。
ノートは取っている。
先生の声も聞いている。
でも、頭の片隅ではずっと別のことを考えてしまう。
久瀬くんに、好きなものを見返していたら時間が経つ、と言われた時の声。
あの人は、本当にいつも少しだけちょうどいい。
踏み込みすぎず、でも引きすぎない。
だから、その一言一言が妙に残る。
そしてその“残り方”が、アルトの雑談を聞いた夜と少し似ているのが、どうしても厄介だった。
もし久瀬くんが、ただ優しいだけならまだよかった。
もしアルトが、ただ憧れの推しなだけならまだよかった。
なのに、どちらも“言葉で人を落ち着かせる”側にいる。
そのせいで、自分の中の安心と好意が、時々きれいに分けられない。
恋をしているのかもしれない。
そう思うには、まだ少し怖い。
でも、ただの尊敬や親しみだけとも言い切れない。
黒板の文字を写しながら、紬希は小さく息をつく。
アルトへ向ける感情は、遠くてきれいな憧れだと思っていた。
なのに最近では、画面越しの声に対して、尊敬だけでは済まない熱が混ざってきている。
それを認めるのも少し怖い。
そして学校の中でも、久瀬くんへ向ける気持ちが、日ごとに少しずつ増えている。
それが同時に進むのは、やっぱり反則だと思う。
◇
昼休み、窓際。
今日は購買も比較的平和だったらしく、日野が珍しく余裕の顔で戻ってきた。
「今日は勝った」
「何に」
真白が聞く。
「パン争奪戦」
「毎回言ってると、そのうち本当に戦績表できそう」
すばるが笑う。
「私は今日ちゃんと焼きそばパン取ったし」
「それそんなに誇る?」
「誇るよ。土曜カラオケで歌い切った後の焼きそばパンだよ?」
「意味わかんない」
真白が呆れる。
紬希はお弁当箱を開きながら、そのやりとりを少しだけ上の空で聞いていた。
すると、真白が不意にこちらを見る。
「倉科さん」
「え」
「今日ちょっと静か」
「そうかな」
「うん」
真白はわりとまっすぐ言う。
「土曜のあとだから?」
その問いに、紬希は少しだけ息を止めた。
鋭い。
でも真白は、たぶん本気でそこまで深く読んでいるわけではない。
ただ見たまま、感じたままを口にしているだけだ。
「……少し」
曖昧に頷く。
「なんか、楽しかったなって思って」
「それはわかる」
日野がすぐ言う。
「普通によかったよな」
「うん」
すばるも頷く。
「途中離脱込みでも、だいぶ青春感あった」
「青春感って何」
真白が言う。
「でもまあ、わかる」
そう言ったあと、真白はちらりと久瀬を見る。
「ちゃんと来たし」
その一言に、また少しだけ胸があたたかくなる。
そして、その“ちゃんと来た”に真白が少しだけ特別な重みを乗せていることも、紬希にはなんとなく分かってしまった。
やっぱり、真白も久瀬くんを気にしている。
しかも最近は、それを隠しきれていない時がある。
そのことを意識した瞬間、胸の奥が微かにきゅっとした。
ああ、と紬希は思う。
これはたぶん、もうただの“気になる”ではない。
少なくとも、他の女の子がその人を気にしていることに少しだけざわつく程度には、自分の感情は進んでいる。
「倉科さん?」
すばるが不思議そうに覗き込む。
「また考えごと?」
「え、あ」
「今日ほんとぼんやりしてる」
「……そうかも」
「アルト?」
すばるが聞く。
紬希は少しだけ迷ってから、頷いた。
「半分」
「半分?」
日野が聞く。
「じゃあもう半分は?」
質問が軽い。
でも、今の紬希には少し危なかった。
視線が、無意識に久瀬の方へ流れそうになる。
慌ててお弁当箱へ目を落とした。
「……なんでもない」
「出た」
すばるが笑う。
「その“なんでもない”は絶対なんかあるやつ」
「鳴海、そこ突かない」
真白が止める。
「いやでも、気になるじゃん」
「気になっても全部聞いていいわけじゃない」
「その言い方、最近お姉さんみたい」
「うるさい」
そこで会話がひとまず流れたことに、紬希は少しだけ助かった。
でも一つだけ、はっきり分かったことがある。
自分は今、アルトだけじゃなく、久瀬湊人のことでも心を揺らしている。
しかも、その二つを別々に処理できないくらいには、少し深いところまで来てしまっている。
◇
放課後、教室に残る人が少なくなった頃。
紬希はノートをしまいながら、ふと土曜のカラオケを思い出していた。
久瀬くんが最後に歌った、少し明るめの曲。
途中で帰る人のくせに、ちゃんと印象を残す歌い方。
あのあとでアルトの雑談を聞いたからかもしれない。
歌のうまさよりも、“届かせ方”が似ているような気がしてしまった。
それは本当に嫌な符合だった。
同じ人なはずがない。
そこはもう、理性で何度も否定している。
でももし――と、一瞬でも考えてしまうと、もう元の場所には戻れない。
同じ人だったら楽なのに。
そう思ってしまうのは、たぶん、自分がどちらにも少しずつ惹かれ始めているからだ。
推しへの尊敬と憧れ。
同級生への親しみと、たぶん恋の入口。
それが同じ方向を向いてしまうなんて、反則だ。
「……やだな」
小さく呟く。
「何が?」
すぐ近くから声がして、紬希は肩を揺らした。
「うわ」
振り向くと、久瀬がいた。
どうやら忘れ物を取りに戻ってきたらしい。
「すみません、驚かせました」
「う、ううん」
心臓がうるさい。
今、このタイミングで来ないでほしいと思う一方で、来てくれて少しうれしい自分もいる。
「何か、困りごとですか」
久瀬がやわらかく聞く。
その言い方が、まただ。
アルトみたい、と思う前に、自分が好きな方向の声だと思ってしまう。
それがもう、かなり危険だった。
「……困りごと、というか」
「はい」
「自分でもよくわからないこと、かな」
口にしてから、何を言っているんだろうと思う。
でも、久瀬は笑わなかった。
ただ少しだけ目を細めて、静かに言う。
「それは、すぐに分からなくてもいい類のことかもしれませんね」
その言葉が、あまりにもやさしくて、紬希は一瞬だけ目を閉じたくなった。
だめだ。
こういうところだ。
こういうところが、好きになってしまいそうで困る。
「……うん」
それしか返せない。
久瀬はそれ以上踏み込まず、「では、また月曜に」とだけ言って教室を出ていった。
一人残された教室で、紬希はしばらく動けなかった。
好きかもしれない相手が、推しに似ている。
それは、たぶん思っているよりずっとよくない。
だって、どっちへ心が動いたのか、自分でもちゃんと分からなくなるから。
でもその“分からなさ”の中で、ただ一つはっきりしていることもあった。
明日もたぶん、久瀬くんの声を聞いたら少しうれしくなる。
そして夜にアルトの声を聞いたら、また少し救われる。
それを反則だと思いながら、もうやめたいとは思えないところまで来てしまっていた。




