第23話 夜の王子は、昼の不在を埋めるみたいに笑う
駅から家までの道を、久瀬湊人はほとんど駆け足で進んでいた。
休日の昼下がり。商店街には買い物帰りの人がいて、子ども連れがいて、どこかの店先から揚げ物の匂いが流れてくる。少し前まで、自分もその“休日の側”にいたはずなのに、今はもう別の時間へ移動している感覚がある。
カラオケの余韻はまだ身体に残っていた。
部屋の少し乾いた空気。
すばるの騒がしさ。
日野の軽口。
真白の、呆れたようでいて機嫌の悪くない声。
紬希の「また、一緒に歌えたらいいな」という、あの静かな一言。
どれも、妙に鮮明だ。
それだけ鮮明なのに、時計は待ってくれない。
十五時から打ち合わせ。
帰宅、着替え、機材チェック、資料確認。
途中までしかいられなかった後ろめたさに浸っている暇はない。
マンションの階段を上がりながら、湊人は小さく息を吐く。
「……切り替えろ」
誰に言うでもない独り言だった。
玄関を開け、靴を脱ぎ、部屋へ入る。
パーカーを脱ぎ、配信用に見えても違和感のないラフな服へ着替える。洗面台で前髪を整え、喉を軽く潤し、デスク前に座る。
ノートPCを起動。
オーディオインターフェースのランプ確認。
マイク位置微調整。
資料ファイルを開く。
事前通話用のヘッドセット確認。
いつもの流れ。
何度も繰り返した手順。
それなのに、今日は指先の奥に昼の感触が少し残っていた。
湊人は自分の頬を軽く叩く。
今から必要なのは、久瀬湊人のままの顔ではない。
天瀬アルトとしての、少し落ち着いていて、少し人を安心させる方の声と表情だ。
通話接続前、最後にスマホが震える。
クラスのグループだった。
すばるが『今日の久瀬くん、想像以上に歌えて悔しい』と書き、日野が笑っているスタンプを送り、真白が『悔しがる方向おかしい』と返している。
その少し下に、紬希が短く、『また行けたらいいね』と書いていた。
その一文に、また胸が少しだけやわらかくなる。
「……だめだな」
今はそっちではない。
でも、今日の昼の時間が、自分の中で予想以上に大きくなっているのを否定できない。
通知が切り替わる。
AstraLink事前通話開始。
湊人は目を閉じて、ひとつ深く息を吸った。
そして、夜の自分の声を起動する。
◇
『お疲れさまです、入れますか?』
ヘッドセット越しに、天瀬アルトとしての声が滑らかに出る。
『入れます入れますー。アルトくん来た!』
緋月セレナの明るい声。
『おつかれっす』
音無ハルも続く。
『資料、もう見た?』
『一通り確認しています』
『はや』
ハルが笑う。
『そういうとこ真面目なんだよなあ』
『いつものことですよ』
セレナが楽しそうに言う。
『でも助かるのよねえ。締まるし』
画面の向こうでは、仕事としての空気が回っている。
案件先との事前確認項目、進行のすり合わせ、当日の流れ、注意点。
その会話へ入ると、昼の空気は少しずつ遠ざかっていく。
この感覚は、もう身体に染みついていた。
学校側の自分では、言葉を選びすぎて少し遅れることがある。
だが天瀬アルトとしての自分は、むしろ“必要な言葉を必要な温度で出すこと”に慣れすぎている。
途中で相手が迷えば拾う。
先輩が強めに寄ってくれば、角を立てずに受け流す。
スタッフの説明が固ければ、場をほぐす程度に一言足す。
それは得意だ。
少なくとも、昼の窓際よりずっと。
打ち合わせは三十分ほどで終わった。
細かな確認と、案件先からの短い挨拶。表向きは問題なく進行し、最後にセレナが「じゃあ本番よろしくね」と締め、ハルが「アルトくん今日も綺麗にまとめ役してたな」と軽く言って笑う。
『そんなつもりはないんですが』
『出た、その返し』
セレナが言う。
『そこよねえ、好きなの』
『先輩、その言い方を今ここでされると、また皆さんが喜んでしまいますから』
『あら、もう喜んでるんじゃない?』
実際、内部コメント欄にはスタッフのスタンプが流れていた。
湊人は少しだけ笑って、それ以上は広げない。
こういう時の線引きは、もう呼吸みたいなものだった。
通話が終わり、少しだけ休憩を挟んでから、夜の雑談配信の準備へ入る。
今日は長時間ではない。
案件後の軽め雑談。空気を柔らかく締めるような枠だ。
待機画面にはすでに多くのコメントが流れていた。
『待機』
『今日も来た』
『案件おつです』
『雑談うれしい』
『王子〜』
王子。
その呼び名が流れるたび、学校での鳴海すばるの顔が少しだけちらつく。
いや、違う。
今はもう天瀬アルトの時間だ。
開始ボタンを押す。
「こんばんは、天瀬アルトです。来てくださってありがとうございます。今日は少しだけ、ゆっくりお話ししていければと思います」
声が部屋に広がる。
コメント欄の流れが一段速くなる。
『きたー!』
『おつかれさま!』
『今日の声もしっとり』
『助かる』
『待ってました』
「皆さんも一日お疲れさまでした。今日は土曜日ですし、少しだけ肩の力を抜いて聞いていってくださいね」
やわらかく返す。
その言葉を出しながら、湊人は自分でも不思議に思っていた。
昼に途中で抜けた罪悪感が、まだ完全には消えていない。
なのに今、自分は画面の向こう側へ、まるでそこにずっといた人みたいに自然な顔で言葉を届けている。
これができるから、余計に厄介なのだ。
昼の不在を、夜の存在感で埋めるみたいに笑えてしまうから。
◇
その夜の配信は、いつもより少しだけ“寄り添う”温度が強かった。
理由は自分でも分かっている。
昼に途中離脱した。
でも、その時間が楽しかった。
楽しい時間から抜けてきたあとで誰かへ言葉を届ける時、人は少しだけやさしくなるのかもしれない。
『今日ちょっと疲れた』
『外出してて今やっと落ち着いた』
『人多い場所しんどい〜』
そんなコメントに、アルトはやわらかく返す。
「お疲れさまです。人が多いと、楽しいことでも疲れますよね。今日はもう十分頑張ったと思って、あとは少しだけ休みましょうか」
『やさしい』
『しみる』
『今日のアルトなんか特に柔らかい?』
『わかる』
そのコメントに、湊人は少しだけ目を細めた。
柔らかい。
今日の自分はたしかにそうかもしれない。
昼のあたたかさを、そのまま夜に持ち込んでしまっているのだろう。
『今日なんかいいことあった?』
『声が少しうれしそう』
『なにかあった?』
コメントが流れる。
こういう時、いつもなら軽くかわす。
でも今日は、少しだけ違う言葉が出た。
「そうですね……少しだけ、約束を守れたような気がしていて」
送ったあとで、自分でも少し驚く。
かなり本音だ。
しかも、学校側の感情に寄った本音。
コメント欄が一気にやわらかく盛り上がる。
『いい話』
『なにそれ気になる』
『約束守れたのえらい』
『素敵』
『そういう日あるよね』
細かくは言えない。
けれど、嘘でもない。
「大きなことではないんですけど。ちゃんと行きたいと思っていた場所へ、少しだけでも行けたのがうれしかった、という感じでしょうか」
『うわー』
『それだけで十分いい話』
『今日はしみる回だ』
『アルトにもそういう日あるんだ』
『なんか人間味あって好き』
人間味。
その言葉に、湊人は少しだけ苦笑した。
昼の自分には人間味がありすぎるくらいあるのに、夜の自分に“人間味”を感じてもらえることが、なぜか新鮮に思える。
「ええ、ありますよ」
小さく笑って返す。
「皆さんが思っているより、案外、日々細かいことで一喜一憂しています」
この一言も、本当だった。
学校の約束が守れそうかどうかで、あれだけ浮き沈みしている人間なのだから。
◇
その配信を、鳴海すばるは自室のベッドに寝転がりながら見ていた。
今日はカラオケのあと、帰宅してからずっと妙に気分が高かった。
久瀬湊人が思っていた以上に歌えたことも、ちゃんと来たことも、そして途中で抜けたあとに残った少しだけ静かな寂しさも、全部がごちゃまぜになっている。
だから夜のアルト雑談枠は、ちょうどよかった。
カラオケの余韻のまま、少し落ち着くには。
最初の声を聞いた瞬間、やっぱり思う。
落ち着く。
そして今日は、少しだけやわらかい。
『少しだけ、約束を守れたような気がしていて』
その一言に、すばるの指が止まる。
「……え」
思わず声が漏れた。
約束。
少しだけでも行けた場所。
ただの偶然かもしれない。
いや、きっと偶然だ。
でも今日の自分には、その言葉が昼のカラオケとぴたりと重なって聞こえてしまう。
「うそでしょ……」
画面を見つめながら、すばるは小さく眉を寄せた。
同一人物だなんて、そんな都合のいい話を本気で信じる気はない。
そこはまだ、ちゃんと線を引いているつもりだ。
でも、こうして“重なる”瞬間があると、耳と記憶が勝手にざわつく。
昼の久瀬くんは、途中までしかいられなかったけれど、ちゃんと来た。
夜のアルトは、約束を守れたことが少しうれしいと言った。
そこまでなら、偶然で済ませられる。
でも、その後の声音まで少し近く感じてしまうのが困る。
『皆さんが思っているより、案外、日々細かいことで一喜一憂しています』
その言い方。
すばるは枕に顔を埋めそうになる。
「やめてくれ〜……」
同一人物であってほしいわけではない。
でも、まったく重ならないでほしいとも思えない。
この“少しだけ似ている”が、一番オタクに優しくない。
◇
同じ頃、紬希もまた、自室でその配信を見ていた。
今日はこはくとしての配信はない。
だからこそ、アルトの雑談を少し長めに流していた。
カラオケの余韻がまだある。
みんなで笑ったこと。
真白の私服が思っていたよりやわらかかったこと。
すばるの選曲が予想以上に偏っていたこと。
日野が本当にどこでも日野だったこと。
そして、久瀬くんが“途中で消えないこと”を目標みたいに言ったこと。
その全部を抱えたまま聞くアルトの声は、今日はいつもより少し近く感じた。
『少しだけ、約束を守れたような気がしていて』
その言葉に、紬希は静かに息を止めた。
また、重なる。
また、だ。
たぶん今日の自分が、昼を引きずりすぎているだけ。
そう考えないと、いろいろ危うい。
でも、そうやって理性で打ち消すほど、声の温度は心に残る。
「……もう」
困ったように笑ってしまう。
別人だ。
分かっている。
けれど、昼に会った人の不在感を、夜のアルトの声が少しだけ埋めてしまうのも本当だった。
だからこそ、自分が何に惹かれているのか、余計に曖昧になる。
推しへの尊敬なのか。
同級生への恋の入口なのか。
それとも、その二つが少しだけ同じ方向を向いてしまっているのか。
どれも、まだ答えが出ない。
◇
配信の終盤、アルトはコメントに向かって、いつものようにやわらかく笑った。
「今日は皆さんも、それぞれ大事な時間があったかもしれませんね。全部を完璧に守れなくても、ちゃんと行こうと思ったこと自体が、たぶん無駄ではないと思います」
その言葉は、画面の向こう側へ向けたものだ。
でも同時に、昼に途中で帰ってしまった自分自身への言葉でもあった。
完璧には守れなかった。
最後まではいられなかった。
それでも、ちゃんと行こうと思ったことは無駄ではない。
その確認をしながら、湊人はコメント欄の流れを見守る。
『今日の言葉、刺さる』
『なんか泣きそう』
『約束って大事だよね』
『アルト優しい』
『また頑張ろうって思える』
画面の向こうで、誰かが少しだけ楽になる。
それが配信者の自分にできることだ。
でも学校では、その言葉を同じようには使えない。
使えば浮くし、余計な意味を持ってしまう。
だから、昼の自分は途中で抜ける苦しさを黙って抱え、夜の自分がそれをやわらかく言い換えて誰かへ返す。
その構造が、今日はやけに鮮明だった。
配信を終え、マイクを切る。
部屋に静けさが戻る。
「……昼の不在を埋めるみたいに、か」
思ったことが、そのまま独り言になる。
昼に足りなかったぶんを、夜の言葉で埋めようとしている。
それは配信者としては正しいのかもしれない。
でも、高校生としては少しずるい気もした。
学校の人たちは、夜の自分のこういう言葉を知らない。
――いや、すばるや紬希は知っているのかもしれない。
知っていて、そこに少しずつ何かを重ね始めているのかもしれない。
その予感が、胸の奥に小さく残る。
スマホが震える。
クラスのグループだ。
すばるが、かなり遅い時間にもかかわらず一言だけ書いていた。
『今日のアルト、やばかった』
その下に、紬希が少し遅れて『わかる』とだけ返している。
短い二つの文字列。
なのに、妙に重い。
湊人はしばらく画面を見つめてから、返信せずにそっと閉じた。
夜の王子は、昼の不在を埋めるみたいに笑う。
でもその笑いが、学校の誰かの心へ届いてしまっているのなら、いつかその昼と夜はもっと近い場所でぶつかるのかもしれなかった。




