第22話 楽しい時間ほど、途中で抜ける理由が苦しくなる
カラオケという場所は、不思議なくらい時間の流れを狂わせる。
一曲が三分とか四分とか、数字にすれば大した長さではないはずなのに、マイクを回して、誰かが笑って、次のイントロが流れて、気づけばさっきまでの緊張がもうずっと前のことみたいに薄れている。
久瀬湊人はソファの端に座りながら、その感覚を少しだけぼんやり味わっていた。
テーブルの上には飲み物のグラスが並び、デンモクはすばると日野の間を行ったり来たりしている。真白はさっき歌い終えたばかりで、マイクを置いたあとも少しだけ頬が熱そうだった。紬希はその横で控えめに笑いながら、次の曲が始まるのを見ている。
部屋の照明は少し落ちていて、モニターの光がみんなの横顔を薄く照らしていた。
この空気が、思っていたよりずっと心地いい。
誰かが無理に盛り上げているわけではない。
でも、自然に笑いが起きる。
うまく歌えたら素直に拍手があって、外したら外したで笑いになる。
そして湊人は、その輪の中で“とりあえず来ただけの人”ではなくなっていた。
「次、誰?」
日野がデンモクを見ながら言う。
「順番的には真白?」
「え、私さっき歌ったじゃん」
「じゃあ倉科さん?」
日野がそう向けると、紬希は少しだけ困ったように目を瞬かせた。
「えっと、じゃあ……」
「おっ」
すばるが身を乗り出す。
「二曲目来る?」
「そんなに大したものじゃ」
「その前置き、ここではもう信用ないから」
真白がさらっと言う。
紬希が小さく笑う。
その笑い方が、少し前よりずっとこの場に馴染んでいる。
「じゃあ、これ」
彼女が入れたのは、落ち着いたテンポの有名な曲だった。
イントロが流れ始めると、部屋の空気が少しだけ静かになる。
紬希はマイクを両手で持つ癖があるらしい。
一曲目の時にも思ったが、その持ち方が妙に丁寧で、声の出し方ともよく合っていた。
やわらかい。
でも弱くはない。
静かなのに、聞いている人の耳へちゃんと届く。
湊人は無意識に、その声の置き方へ意識を向けていた。
それは配信を聞く時の癖に近い。
声の響き方や、言葉の終わり方や、間の呼吸を自然と見てしまう。
紬希の歌は、一曲目よりさらに落ち着いていた。
少し慣れてきたのか、それとも部屋の空気があたたまったからか。
「……やっぱりうまい」
歌い終えたあと、日野が素直に言う。
「うん、わかる」
すばるが深く頷く。
「派手じゃないのに聞きやすいの強い」
「そこ褒めてる?」
紬希が少しだけ笑う。
「めちゃくちゃ褒めてる」
すばるは真面目な顔で言う。
「しかもなんか、夜のラジオとかに合いそう」
その表現に、湊人の胸が少しだけ引っかかった。
夜のラジオ。
声を静かに届ける場所。
紬希の声にはたしかに、そういう方向のやわらかさがある。
「久瀬くん、何その顔」
すばるがこちらを見る。
「え?」
「今、なんか“分かる”って顔してた」
「……分かるとは思いました」
「ほら!」
すばるが嬉しそうに机を指差す。
「やっぱそうだよね!?」
「ええ、かなり」
「何その会話」
真白が呆れる。
「音楽評論家?」
「いや、でもほんとに合いそうじゃん」
日野が言う。
「倉科さんの声、落ち着く系だし」
「そうだね」
真白も小さく頷く。
「夜向きではあるかも」
紬希は少しだけ頬を赤くしながら、視線を下げた。
「……なんか恥ずかしい」
その反応が、また部屋の空気をやわらかくする。
湊人はその光景を見ながら、心のどこかで思っていた。
あと少し、いられたらいいのに。
この時間が、想像よりずっと楽しいから。
もっと気楽にいられる側の人間だったら、何も考えずに最後までここにいたかった。
けれど、スマホの画面に表示された時刻が、その願いを容赦なく現実へ戻す。
十三時三十七分。
あと二十三分もすれば、一度は言わなければならない。
帰ることを。
しかも、“帰りたくないけど帰る”という、一番面倒な空気を残す形で。
「……っ」
小さく息を吐く。
「どうしたの?」
紬希が、すぐに気づいた。
隣ではない。
真正面でもない。
なのに、少し離れた位置からでも、その小さな呼吸を拾ってしまうらしい。
「いえ」
反射でそう返しかけて、やめた。
もうそれを繰り返すのはよくないと、この数日でさすがに分かっている。
「……少し、時間を見ていました」
正直に言い直すと、部屋の空気がほんの少しだけ変わる。
真白がデンモクを置いた。
すばるの表情からも、楽しげな勢いが一瞬だけ引く。
日野は「あー」と小さく声を漏らした。
もう、みんな分かっているのだ。
この時間が来たことを。
「何時?」
真白が聞く。
「……十四時前には出ないと」
その言葉を出すのが、想像以上に苦しい。
「そっか」
日野がまず頷いた。
「まあ、そうだよな」
彼はこういう時、一番最初に現実へ着地してくれる。
その軽さがありがたい。
すばるはソファにもたれながら唇を尖らせた。
「わかってたけど、早いなあ」
「すみません」
「それ禁止」
真白がすぐに言う。
「わかってるなら謝らなくていい」
「でも」
「でも、じゃない」
真白は少しだけ目を細める。
「今日ちゃんと来たんだから、それでいいでしょ」
その言い方は、いつもより少しだけやさしかった。
紬希はマイクを置きながら、小さく言った。
「途中まででも、一緒にいられてよかった」
やわらかい声だった。
けれど、それが今の湊人にはかなり効いた。
途中まででも、よかった。
そう言われると、逆に途中で抜けることが申し訳なくなる。
楽しい時間ほど、途中で抜ける理由が苦しい。
きっと、こういうことなのだろう。
◇
残りの時間は、さっきまでよりほんの少しだけ早く過ぎていった。
誰も露骨にしんみりしようとはしない。
それはたぶん、このメンバーなりのやさしさだった。
「じゃあ最後に一曲だけ、久瀬くん」
すばるが言う。
「え」
「送り出し用」
「何その概念」
真白が呆れる。
「でも分かる」
日野が笑う。
「最後に一曲くらい歌ってけよ」
湊人は少しだけ迷った。
だが断る理由もない。
「……では」
「バラードとか来る?」
すばるがにやにやする。
「いや、逆に明るめがいいんじゃない?」
日野が言う。
「終わり際にしんみりするのもあれだし」
「それもそう」
真白が頷く。
結局、湊人は少し軽めで前向きな曲を入れた。
歌っている間、部屋の空気は穏やかだった。
すばるは途中でリズムを取っていたし、日野は自然に合いの手を入れるし、真白は呆れたような顔をしながらも楽しそうだったし、紬希は真っ直ぐ聞いていた。
その視線が少しだけ熱を持っているように感じてしまって、後半は少しだけ歌いづらかった。
歌い終えると、拍手が起きる。
「うん、やっぱりうまい」
日野が言う。
「最後にそれはズルい」
すばるが続く。
「ズルいって何ですか」
「“途中で帰る人”のくせにちゃんと最後に印象残す感じ」
「それ褒めてる?」
真白が聞く。
「半分くらい」
「みんなそれ好きね」
湊人が苦笑すると、真白がふっと小さく笑った。
「今日は五割」
「上がりましたね」
「今日ちゃんと来たから」
その一言が、思った以上にうれしい。
紬希は少しだけ迷うような間を置いてから、静かに言った。
「……また、一緒に歌えたらいいな」
空気が、一瞬だけやわらかく止まる。
すばるがすぐに「うんうん」と頷き、日野が「次は最後までな」と軽く乗せ、真白は何も言わないまま、でも否定もしなかった。
「……はい」
湊人は短く頷く。
「来られたら」
「そこは“行く”じゃないんだ」
すばるがすぐに言う。
「今日それ何回目」
真白が呆れる。
「でもまあ」
彼女はそこで少しだけ視線を逸らしてから続けた。
「また来る気があるなら、それでいい」
その言葉は、前に言われたものと似ていた。
でも今の方が、少しだけ近くて、少しだけ重い。
◇
会計を済ませて店を出ると、昼の光はもう少しだけ傾き始めていた。
駅前の人通りは相変わらず多い。
だが、ここへ来た時とは違って、今の湊人の中には妙な静けさがあった。
帰らなければならない。
時間はぎりぎりだ。
でも、来てよかった。
それはもう、かなりはっきりしている。
「じゃあここで?」
日野が聞く。
「はい。僕はここで」
「おつかれー」
すばるが手を振る。
「今度は最初から最後までね」
「努力します」
「それ禁止」
真白が即座に切る。
「最近、そこだけ反射で出るわよね」
「気をつけてはいるんですが」
「それも禁止」
真白の容赦ない追撃に、日野が笑い、すばるも「今日は真白が完全に先生役」とからかう。
湊人も少しだけ笑った。
けれど、その笑いの奥には、離れがたさが混じっている。
「……今日は、ありがとうございました」
自然に頭が下がる。
「普通に楽しかったです」
言ってから、少しだけ自分でも驚いた。
“楽しかった”を、こうして口に出すのは思っていたより照れくさい。
すばるはすぐににやっとする。
「うわ、出た。本音」
「今日はわりと出す日ですね」
日野が笑う。
真白は少しだけ目を細めた。
「それなら、まあいい」
紬希は何も言わずに、ただ少しだけうれしそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
帰りたくないわけではない。
でも、ここにもう少しいたかったと思ってしまう。
それが、今の自分には少し厄介だった。
「じゃあ、また月曜」
日野が言う。
「はい」
「遅刻しないでよ」
真白が言う。
「学校にですか」
「そっちじゃない」
「そっちもだけど」
すばるが笑う。
「わかっています」
そう返すと、真白は小さく息をついた。
「ほんとに?」
「……たぶん」
「ほら」
部屋の中ではなく、駅前でまた笑いが起きる。
その輪から一歩離れる瞬間、湊人は少しだけ振り返った。
四人とも、ちゃんとそこにいる。
日野は気楽に笑っていて、すばるはまだ何か喋っていて、真白は呆れた顔でそれを見ていて、紬希はその全部を少し離れたところからやわらかく見ている。
来てよかった。
本当にそう思った。
◇
家へ向かう電車の中で、湊人はスマホを握ったまま窓の外を見ていた。
これから、学校の自分を脱いで、配信側の準備に入る。
打ち合わせがあって、夜の予定もある。
今日の昼とは別の顔が、また必要になる。
でも、さっきまでの余韻がまだ消えない。
真白の「今日ちゃんと来たから」。
すばるの「また最初から最後までね」。
日野の軽い笑い。
紬希の「また、一緒に歌えたらいいな」。
楽しい時間ほど、途中で抜ける理由が苦しくなる。
その意味が、今はよく分かる。
抜けることそのものより、“もっといたかった”と思ってしまうことの方が、たぶん苦しいのだ。
電車がトンネルに入る。
窓に、自分の顔が映る。
学校の自分。
配信の自分。
どちらも嘘ではない。
でも、その二つのあいだで揺れるたび、心は少しずつ欲張りになる。
途中まででもよかった。
けれど次は、最初から最後までいたいと思ってしまった。
その欲張りさは、きっと青春ラブコメの主人公としては正しいのだろう。
でも秘密を抱えた人間としては、たぶんかなり危うい。




