第21話 土曜のカラオケは、青春と遅刻の匂いがする
土曜日の朝は、平日の朝より静かなはずだった。
少なくとも、世間一般ではそうらしい。
学校へ行く必要のない日。制服に袖を通す義務もなく、教科書の重さもなく、教室の空気もない。だから本来なら、もう少し穏やかな顔で目を覚ましていい。
なのに久瀬湊人は、平日より早く、しかもかなりはっきりと目を覚ましていた。
枕元のスマホを見る。
時刻は八時前。
集合は十二時、駅前。
時間だけ見れば余裕はある。
だが、その余裕の中には、いつものように別の時間が重なっていた。
十五時から事務所の打ち合わせ。
その前に帰宅。
機材確認。
資料の再チェック。
音声環境の確認。
そして、できれば服装も“学校の自分”から“配信側の自分”へ切り替えたい。
やることを順に頭の中へ並べていくと、それだけで胸の奥が少しだけ詰まる。
でも今日は、それ以上に妙な感情があった。
楽しみだ、と思ってしまっている。
ただ同級生たちとカラオケへ行くだけ。
それだけなのに、起きた瞬間から少し落ち着かない。
何を着ていけば“頑張ってない感じ”になるのかとか、歌う順番が回ってきた時に無難な選曲は何かとか、そんなことまで考えてしまう。
「……完全に、普通の高校生みたいだな」
自分で言って、少しだけ苦笑する。
普通になりたかったはずなのに、本当にそういう場面が来ると、どう振る舞えば“普通”なのか分からなくなる。
結局、いつものように考えすぎる。
ベッドから出て、顔を洗う。
服は、あまり気張って見えないものがいい。だから、シンプルな黒のパーカーに、色の落ち着いたパンツ。靴も、いかにも“選びました”という顔をしないもの。
鏡の前で自分を見る。
大丈夫。
たぶん、そこまで変ではない。
少なくとも、学校の久瀬湊人が休日にいてもおかしくないくらいには見える。
そこまで整えてから、机の上のノートPCへ視線が行く。
打ち合わせ資料を一度開き、必要事項だけもう一度確認する。
今日の自分は“途中で帰る人”になる可能性が高い。
だからこそ、学校側にいる時間は、できるだけちゃんといたい。
「……よし」
小さく息を吐き、スマホを手に取る。
クラスのグループはすでに少し動いていた。
日野が『たぶん五分前くらいには着く』。
すばるが『今から選曲最終確認する』。
真白が『選曲の最終確認って何』。
紬希が『少し早めに出ます』。
湊人はその流れを見て、少しだけ口元を緩めた。
どの文面も、その人らしい。
考えてみれば、グループの文字だけで表情を思い浮かべられるくらいには、この短い時間で相手を知ってしまっているのだ。
自分も短く打つ。
『予定通り向かいます。よろしくお願いします』
送信してから、一秒後にはすばるが反応する。
『そこは相変わらず真面目』
その下に、日野の笑っているスタンプ。
真白の『遅れないで』。
紬希の『よろしくお願いします』。
胸のあたりが、少しだけあたたかくなる。
遅れないで。
その一言が、どうしてこんなにうれしいのだろう。
◇
駅前は、土曜の昼らしい人の多さだった。
平日の通学ラッシュとは違う。
買い物へ向かう家族連れ、友達同士で集まる学生、休日らしい格好で歩く大人たち。どこかみんな、行き先の輪郭がやわらかい。
湊人が集合場所に着いたのは、約束の十分前だった。
かなり余裕を持って出たつもりだったが、それでも内心は少しだけそわそわしている。
先に誰か来ているだろうか。
逆に一番乗りだったら、どういう顔で待てばいいだろうか。
そんなことを考えながら駅前の時計の近くへ歩いていくと、すぐに見つかった。
「あ」
真白がいた。
壁際に立って、スマホを見ている。
私服は、制服の時より少しだけやわらかい色合いだった。白に近い薄いグレーのトップスに、落ち着いた色のスカート。肩の力が抜けているのに、雑には見えない。
湊人に気づくと、真白はスマホを下ろしてこちらを見る。
視線が一瞬だけ上下に流れた。
「……来たんだ」
最初の一言がそれだった。
「はい」
湊人は少しだけ笑う。
「来ました」
「いや、見れば分かるけど」
「確認かと」
「そういうとこ」
真白は呆れたように言いながらも、どこか機嫌が悪くない。
むしろ、少しだけほっとした顔に近かった。
「柊坂さんも、早いですね」
「別に」
「その“別に”で十分伝わります」
「何が」
「ちゃんと待っていてくださったんだなと」
言った瞬間、真白の耳がほんの少しだけ赤くなる。
「……アンタ、休日でも変わらないのね」
「何がでしょう」
「その、ちゃんと人を照れさせる感じ」
「そんなつもりでは」
「ないのが面倒なの」
言いながら、真白は少しだけ視線を逸らした。
その反応が、平日とは違って少し近い。
制服という“学校の顔”がないだけで、人はこんなに印象が変わるものなのかと湊人は思う。
真白は教室で見るより、少しだけ年相応の女の子に見えた。
「でも」
真白が再びこちらを見る。
「ちゃんと来るとは思ってた」
「信じていただけて光栄です」
「その返し、なんか休日までかしこまってる」
「褒められてます?」
「今日は二割」
「低いですね」
「十分でしょ」
そこで背後から、騒がしい声が飛んできた。
「うわっ、もう二人いる!」
すばるだった。
私服のすばるは、学校で見るより少しだけ“オタク”が前に出ていた。大きめのパーカーに、推し色っぽい小物、そしてやたら元気な表情。隣には日野もいて、こちらは逆にあまり変わらない。ラフな格好なのに、学校の延長みたいに自然だ。
「おはよー……じゃないか、もう昼か」
日野が言う。
「でも集合前に全員揃うの、えらくない?」
「全員ではないです」
湊人が言う。
「倉科さんがまだ」
「そうだった」
すばるがスマホを見て、すぐに顔を上げる。
「でも今“着きます”って」
その数秒後、本当に紬希が人混みの向こうから現れた。
少しだけ急いで歩いてきたのだろう、髪がふわりと揺れている。
私服姿の紬希を見るのは初めてだった。
シンプルなワンピースに薄いカーディガン。派手ではない。けれど、やわらかい色合いがよく似合っていて、学校で見るよりずっと大人びて見えた。
気づいた瞬間、なぜか胸の中が少しだけざわつく。
「ごめん、待った?」
紬希が言う。
「全然」
日野がすぐ返す。
「今全員揃ったとこ」
「ならよかった」
紬希はそこで、少しだけこちらを見る。
「……来られたんだね」
その言葉が、平日の教室で言われるよりずっとやわらかく胸へ入る。
「はい」
湊人は短く頷いた。
「なんとか」
紬希は小さく笑った。
「よかった」
それだけで、来てよかったと思ってしまう自分がいた。
◇
カラオケ店へ向かう道は、思ったより騒がしかった。
主に原因は鳴海すばるである。
「先に言っとくけど、私は今日かなり空気読むからね」
「それ、自分で言う人は大体読まない」
真白が即座に返す。
「ひど」
「むしろ優しさでしょ」
日野が笑う。
「先に心構えできるし」
「えっ、全員ひどくない?」
「鳴海はそういう役」
真白が言い切る。
湊人はそのやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力が抜けていくのを感じていた。
集合前までは緊張していた。
遅れないか、場にちゃんと馴染めるか、途中で帰ることになる自分はどこか浮かないか。
けれど実際に歩き始めてみると、四人の空気は想像よりずっと普通だった。
普通の高校生の休日みたいに、どうでもいいことで笑って、少しからかい合って、でも誰もそれを深刻にはしない。
自分だけが妙に大げさに構えていたのかもしれない。
「久瀬くん」
すばるが突然こちらを向く。
「はい」
「今日の目標ある?」
「目標?」
「うん。初カラオケメンバー戦」
「なんですか、それ」
「いや、戦ではないでしょ」
紬希が小さく笑う。
「でも少しわかる」
日野が言う。
「休日の選曲って、学校の評価変わるやつだし」
「それ言うと急に怖いんだけど」
真白が呆れる。
「変なプレッシャーかけるのやめなさい」
「じゃあ気楽にいこう」
すばるが言って、すぐ続ける。
「で、久瀬くんの目標は?」
湊人は少し考えた。
無難に乗り切る、が本音だ。
でもそれをそのまま言うのも違う気がした。
「……途中で消えないこと、でしょうか」
ぽろりと出た本音に、四人分の足が一瞬だけ止まりそうになる。
「え」
すばるが目を丸くする。
「いや、それだいぶ本音じゃん」
「そうですね」
真白が言う。
「珍しく、ちゃんとした本音」
「ちゃんとしてない本音ってある?」
日野が笑う。
紬希は少しだけ目をやわらげた。
「でも、うれしいかも」
その一言で、湊人の心臓が少しだけ変な跳ね方をする。
「……何がでしょう」
「途中で消えないようにしたいって、思ってくれてること」
紬希はあくまでやわらかい。
でも、その言い方は真っ直ぐだった。
すばるがすぐに乗る。
「それな! なんか今日の久瀬くん、わりと本気度高い」
「高くない?」
真白が言う。
「いや、わりと、じゃなくてかなりじゃない?」
そこで彼女はちらりとこちらを見た。
「……来るだけじゃなくて、“ちゃんといる”方まで考えてる顔してるし」
そんなところまで出ているのか、と湊人は思う。
そして少しだけ恥ずかしくなった。
「顔に出てますか」
「出てる」
真白の即答。
「気をつけます」
「今日はそれやめて」
すばるが笑う。
「そこ隠さなくていい日でしょ」
その言葉に、湊人は少しだけ救われる。
隠さなくていい日。
たしかに、今日はそういう日にしたかった。
◇
カラオケ店に入ると、冷房の少し乾いた空気と、受付の人工的な明るさが迎えてきた。
すばるが慣れた様子で端末を操作し、日野が人数を伝え、真白が横から「時間確認しなさい」と口を挟み、紬希がその様子を少しだけ笑いながら見ている。
その流れの中で、湊人は自分が“何をすればいいのか分からない転校生”ではなく、自然にそこへ立っていることに気づく。
部屋へ通される。
少し狭めの、でも五人なら十分な部屋だった。
テーブル。
ソファ。
壁際のデンモク。
モニターの青白い光。
「よし!」
すばるが入った瞬間に両手を上げる。
「ここからが本番です」
「まだ始まってもいないでしょ」
真白が冷静に言う。
「始まりの儀式」
「儀式いらない」
「いる」
「いらない」
日野が笑いながらデンモクを取る。
「とりあえず最初、誰歌う?」
その瞬間、全員が少しだけ互いを見る。
学校ではあんなに軽口ばかり叩いているのに、いざ最初の一曲となると、みんな少しずつ相手の出方を伺うらしい。
その小さな間がおかしくて、湊人は思わず笑った。
「……何笑ってるの」
真白が言う。
「いえ、皆さんこういう時は同じなんだなと」
「何その上から目線みたいな感想」
「そういうつもりではありません」
「じゃあアンタが最初に歌う?」
真白のその一言に、空気が軽く揺れる。
「え」
「いや、いいじゃん」
日野が言う。
「転校生代表」
「代表って何」
すばるが笑う。
「でもたしかに気になる」
紬希も、少しだけこちらを見る。
その視線はやわらかいのに、妙に逃げ道がない。
ここで断るのは違う。
来た意味が少し薄くなる気がする。
しかも、今日の自分は“ちゃんといる”つもりで来ている。
「……では、一曲だけ」
そう答えると、すばるがすぐに目を輝かせた。
「来た」
「何歌うの?」
日野が聞く。
「普通のやつです」
「その“普通”が怪しい」
真白が言う。
湊人は少し迷ってから、無難な男性ボーカルの定番曲を入れた。
知名度は高い。
変にオタク寄りすぎず、かといって通ぶりすぎない。
声も張りすぎなくていい。
イントロが流れる。
マイクを持った瞬間、湊人は少しだけ変な感覚を覚えた。
配信と違って、目の前に視聴者がいる。
しかも、コメントではなく表情で反応が返ってくる。
それでも、歌い始めてしまえば不思議と緊張は薄れた。
身体が“聞かせること”自体にはもう慣れてしまっているのかもしれない。
問題は、歌い終わったあとの空気だった。
「……え」
最初に声を出したのは、すばるだった。
「うま」
日野が即座に続く。
「いや、普通にうまくない?」
紬希は目を少しだけ見開いたまま、でもやわらかく拍手する。
真白は、ほんの一瞬だけ言葉を失っていた。
「……何それ」
ようやく出たのが、その一言だった。
「何それ、って」
湊人が少し困る。
「なんでそんな普通に歌えるの」
「歌えなくはないと」
「“歌えなくはない”の範囲じゃないでしょ」
真白が言う。
すばるはもう完全に乗っていた。
「声がいい人って歌もそこそこうまい法則ある!?」
「それ法則なの?」
日野が笑う。
「いやでも、今のはびっくりした」
「久瀬くん、なんかズルいなあ」
紬希が小さく言った。
「ズルい」
その一言が、なぜか妙に胸へ刺さる。
「褒めてます?」
湊人が聞くと、紬希は少しだけ笑う。
「たぶん」
「今日は“たぶん”多いね」
すばるが言う。
「いやでも分かる。これ“歌えなくはない”じゃなくて、“ちゃんと歌える”側だよ」
「そういうの最初に言いなさいよ」
真白が呆れる。
「ハードル下げすぎるの、ずるい」
「今日はその評価多いですね」
「今日は三回目」
真白が即答する。
「数えてるんだ」
「今日はなんとなく」
部屋の空気が一気にやわらかくなる。
最初の一曲を歌ったことで、みんなの緊張がほぐれたのだろう。
その後は、すばるが勢いよくアップテンポな曲を入れ、日野が無難に盛り上がる曲を選び、真白が意外にもかっこいい曲をしっかり歌い上げ、紬希がやさしい声でバラードを歌った。
紬希の歌は、予想していたよりずっと良かった。
派手に上手いというより、声の運び方が丁寧だ。
余計な力が入っていなくて、でもちゃんと届く。
聞いていて落ち着くのに、印象は残る。
「……きれい」
思わず、歌い終わったあとにそう言っていた。
紬希がマイクを置く手を止める。
「え?」
「すみません」
「いや、なんで謝るの」
すばるが笑う。
「今のは褒め言葉でしょ」
「はい、褒めています」
湊人が真面目に言うと、紬希は少しだけ頬を赤くした。
「……ありがとう」
小さな声。
でもその声が、歌っていた時より少しだけ近く聞こえた。
真白はそのやりとりを見て、ほんの少しだけ目を細める。
だが何も言わず、次の曲を入れたすばるの肩を軽く叩いた。
「アンタ、途中から完全に趣味出てる」
「だって自由時間入ったし!」
「早い」
「最初からそう言ってたでしょ」
「そうだった」
日野が笑う。
カラオケルームの空気は、思っていたよりずっと自然だった。
誰も無理に盛り上げようとしていないのに、ちゃんと楽しい。
自分だけが浮いている感じもしない。
途中で帰ることになるかもしれない重さはまだ胸のどこかにあるのに、それでも今は、その重さよりこの時間の方が少し勝っていた。
青春って、こういうものなのかもしれない。
どうでもいいことで笑って、ちょっと褒め合って、少しだけ照れて、それでもまた次の曲が流れていく。
その流れの中に、自分もちゃんといる。
それが、思っていた以上にうれしかった。




