第20話 静かな子は、好きな人の声をよく覚えている
倉科紬希は、自分が人の声を覚える方だという自覚があった。
顔よりも先に、声で覚えることがある。
喋り方、息の混じり方、笑う直前の小さな間。そういうものが残る。
もちろん、誰に対してもそうではない。
ただ、自分の中で“もう少し聞いていたい”と思った相手の声だけが、妙に鮮明に残るのだ。
だからたぶん、これは最初から少し危なかったのかもしれない。
遠い場所の推しの声を、何度も何度も聞いていたこと。
そして学校で、少しだけ方向の似たやさしさを持つ男の子と出会ってしまったこと。
◇
その日の昼休みも、窓際の一角には自然と人が集まっていた。
もう“偶然そこにいる”という感じではない。
日野が前の席から振り向き、すばるが勢いよく話題を持ち込み、真白がそれに半分呆れながら混ざる。湊人はその中心より一歩引いた場所で受け止めるように会話へ入る。
そこへ、紬希も静かに加わる。
最初は少し緊張していた。
でも今は、無理に自分から話さなくても、あの場所にいればちゃんと息がしやすいことを知っている。
「で、土曜のカラオケさ」
すばるが言う。
「私は一応、前半と後半でテーマ分けしようと思ってる」
「なにその厄介な構成」
真白が即座に言う。
「厄介じゃない。前半は普通に歌いやすいやつ、後半は少し自由」
「“少し自由”の時点で不安しかない」
「でも大事でしょ」
「何が」
「その人の人となりが出るから」
すばるは胸を張る。
「選曲に全部出る」
「またオタクっぽいこと言ってる」
日野が笑った。
紬希はお弁当箱を開きながら、そのやりとりを聞いていた。
こういう会話の温度にはまだ完全には慣れない。
でも、嫌いではない。
むしろ最近は、次にどんな言葉が出てくるのかを少し楽しみにしている自分がいる。
「倉科さんは?」
日野が気軽に聞く。
「歌うの得意?」
「え、あ……」
急に振られると、やっぱり少し慌てる。
「得意、っていうほどじゃ」
「そういう人に限ってうまいんだよな」
すばるが言う。
「ね、真白」
「なんで私に振るの」
「なんとなく」
「雑」
真白が言いながらも、少しだけ紬希を見る。
「でも、倉科さんって声きれいだから、歌も多分向いてる」
その一言に、紬希は思わず目を瞬かせた。
「え」
「何その“え”」
すばるがすぐ反応する。
「褒められ慣れてない人の反応じゃん」
「いや、だって」
「真白ってたまに唐突にそういうこと言うよね」
日野が言う。
「自覚ないでしょ」
「別に」
真白はそっけなく言いながら、紙パックにストローを刺す。
「思ったから言っただけ」
その思ったから言う感じが、今の紬希には少しだけうらやましかった。
自分は、思ってもすぐには言えない。
言う前に、一度考える。
考えているうちに、言わなくていいかもしれないと思う。
そうやって流してしまうことが多い。
「久瀬くんは?」
すばるが今度は矛先を変える。
「歌うの?」
「どうでしょう」
「またそれ」
「歌えなくはないと思います」
「その返し、ずるいなあ」
すばるが笑う。
「できる人の濁し方じゃん」
「そんなことは」
「あるでしょ」
真白が言う。
「アンタ、何でも“全然できません”とは言わないけど、“得意です”とも言わないし」
「それは事実の範囲を」
「はいはい、真面目」
日野が言って笑う。
紬希はその会話の流れを聞きながら、ふと気づく。
久瀬くんの声は、人とやりとりしている時だけ少し低くなることがある。
特に、誰かを否定せずにかわす時とか、ちょっと困った質問をやわらかく受ける時とか。
その音の落ち方が、少しだけアルトに似ている。
似ている、という言い方は違うかもしれない。
もっと近い感じ。
方向が近いというか、相手に届くように少しだけ丸める、あの音の置き方が近い。
気づいた瞬間、紬希はお弁当箱の中身を見つめた。
だめだ、と思う。
また考えてる。
また重ねてる。
別人だ。
そうに決まっている。
なのに、頭の中では、夜の雑談配信の声と、昼休みの穏やかな相槌が、時々同じ場所へ触れてくる。
◇
午後の授業中、紬希はほとんど上の空だった。
黒板に書かれる内容は追っている。
ノートも取っている。
でも、ふとした瞬間に耳が思い出すのは別の音だった。
“来られたら、たぶん楽しいと思う”
この前、自分がそう言った時、久瀬くんは少しだけ笑って「そうしたいと思っています」と返した。
その“そうしたいと思っています”の温度が、どうしても忘れられない。
ただの社交辞令ではない感じ。
でも、踏み込みすぎない感じ。
配信でアルトが、誰かのコメントに対して「そう思っていただけるのはうれしいです」と返す時の、あの少しだけ声をやわらかくする感じと、方向が近い。
いや、だから。
別人だ。
紬希は心の中で何度も言い聞かせる。
同じ人なわけがない。
でも、声をよく覚えてしまう人間にとって、“別人だけど方向が近い”というのは、かなり厄介だった。
完全に違えば、重ならない。
似すぎていれば、逆に現実離れして見える。
でも、微妙に近い。
そのくらいが一番困る。
◇
放課後、紬希は教室に少し遅れて戻った。
移動教室の帰りに先生へ質問をしていたせいで、教室に残っている人はもうかなり少ない。
窓際の列には、真白と久瀬くんが残っていた。
日野は部活の友達に呼ばれて行ったらしいし、すばるは提出物か何かで一度教室を離れているようだった。
紬希は何となく、自分の席へ向かいながら二人の空気を意識してしまう。
気まずいわけではない。
けれど、二人きりに近い時の真白は、昼休みとは少し違う温度で久瀬くんと話している気がする。
「……で、結局土曜は来るの?」
真白の声。
「そのつもりです」
久瀬くん。
「“そのつもり”じゃなくて」
「努力は」
「それ禁止」
真白がすぐに切る。
「……善処もですか」
「それも」
少し間が空いて、それから真白が小さく息をついた。
「でも、来る気あるならいい」
その言い方は、少しだけやわらかかった。
紬希は自席でノートを鞄へしまうふりをしながら、その会話を聞いていた。
ああ、と思う。
真白はきっと、前よりも久瀬くんの“来るかどうか”を気にしている。
それはきっと、ただのクラスメイト以上の温度に近づき始めているのだろう。
そしてそのことに、自分の胸がほんの少しだけざわつくのを感じる。
何に対してのざわつきなのか、まだはっきりはしない。
ただ、少しだけ落ち着かない。
「倉科さん?」
気づけば、久瀬くんがこちらを見ていた。
「え」
「すみません、少しぼんやりしていたようでしたので」
「……あ、ごめん」
「謝ることではありません」
その返し。
やっぱり少しだけ似ている。
紬希は小さく首を振った。
「ううん、大丈夫」
「顔、赤いけど?」
真白が言う。
「えっ」
「いや、熱とかじゃなくてね」
真白は少しだけ口元を緩めた。
「なんか考えごとしてた顔」
「……そう、かも」
紬希は自分でもうまく誤魔化せなかった。
真白はそれ以上追及しなかった。
でも、その目は少しだけ何かを察しているようにも見えた。
◇
その夜、小毬こはくの配信はなかった。
オフの日。
あるいは、少し短めの準備日。
だから紬希は、代わりに天瀬アルトの過去アーカイブを流していた。
雑談枠。少し前のもの。切り抜きではなく、長めに聞いていられる配信。
『それが全部悪いわけではないと思うんです。ただ、自分の中で無理をしていると感じるなら、一度立ち止まるのも必要かもしれませんね』
その声が、夜の部屋へ静かに広がる。
紬希はベッドの上で膝を抱えながら、スマホを見つめていた。
画面の中のアバターは、いつも通り落ち着いていて、きれいで、少し遠い。
遠いままでいい。
そう思っていたはずなのに。
今日、学校で久瀬くんが「謝ることではありません」と言った時、その音のやわらかさに少しだけ息が詰まった。
それはアルトの声と同じではない。
同じではないけれど、自分の中の“安心する方向”が近い。
「……やだな」
小さく呟く。
こんなの、面倒だ。
学校で気になる人ができかけている。
その人の声や言葉の置き方が、推しに少しだけ似て感じる。
でも、当然、同一人物ではない。
分かっている。
分かっているのに、その“少しだけ似ている”が、余計に心を動かす。
たとえば、全然違うタイプなら、きっとここまで引っ張られない。
けれど、方向が近い。
やさしさの向く先とか、相手の会話を受ける時の温度とか、そういうものが。
スマホの中のアルトが、コメントへ小さく笑って返す。
『そうですね。完璧にしようとしなくて大丈夫ですよ。ちゃんと悩んでいる時点で、もう十分まじめなんですから』
その言葉で、不意に昨日の昼休みの自分の言葉を思い出す。
“久瀬くんって、人が困ってる時に、すぐ気づくよね”
“そういう人、すごいなって思う”
あれはほとんど本音だった。
そして今こうして、アルトの言葉にまた救われている。
遠い人は遠いままでいい。
そう思っていた。
でも今は、学校の中の近い場所にも、同じ方向のやさしさを見つけ始めてしまっている。
どちらかだけなら、もう少し楽だったかもしれない。
推しは推し。
同級生は同級生。
そうきれいに分けられればいいのに、声をよく覚える自分の耳が、それを時々邪魔する。
紬希はスマホを胸の上に置いて、目を閉じた。
アルトの声が、遠くから自分を落ち着かせる。
そして昼の教室では、久瀬くんの声が少しだけ呼吸を楽にしてくれる。
どちらも別の人。
別のはず。
なのに、心のどこかでは、二つのやさしさを同じ棚に置き始めている自分がいる。
「……同じ人だったら、楽なのに」
口に出した瞬間、自分で息を呑んだ。
何を言っているんだろう。
そんなことあるわけがない。
でも、その“あるわけない”妄想が一瞬だけ魅力的に思えてしまったことが、紬希を少しだけ怖くさせた。
すぐに首を振る。
違う。
別人だ。
そうに決まっている。
でも、静かな子は、好きな人の声をよく覚えている。
だからこそ、自分の耳が拾ってしまう小さな近さから、完全に逃げ切ることもできなかった。




