第19話 お嬢様は、地味な転校生の指先を見る
御門朱莉が久瀬湊人という名前を最初に意識したのは、顔を見たからではなかった。
声でもない。
噂でもない。
ましてや、鳴海すばるが昼休みに騒いでいる「推しに似てる」だの「返しが綺麗」だの、そういう曖昧な話でもない。
最初に引っかかったのは、手だった。
「はい、これで全員分です」
放課後の生徒会室で、湊人はクラス提出用の書類を机へそろえて置いた。
重ねた紙の角がぴたりと揃っている。向きも、受け取る相手の手の方向も自然に計算されているみたいに整っていた。
その様子を、御門朱莉は机の向こう側からじっと見ていた。
「……何か、問題でもありましたか」
湊人が気づいて顔を上げる。
朱莉はあえて数秒待ってから答えた。
「別に」
その返事は柊坂真白あたりがよく使いそうな投げ方だったが、そこに込める温度は少し違う。
朱莉の場合、それは“どうでもいい”ではなく、“今はまだ言わない”に近い。
生徒会室には夕方の光が入っていた。
校舎の西側にあるその部屋は、日が傾く時間帯になると、白い壁も古い棚も少しだけ金色に見える。
書類、コピー用紙、ホワイトボード、古びたソファ。どこにでもありそうな学校の部屋なのに、朱莉がそこに座っているだけで、不思議と空気がきりっとする。
御門朱莉は同学年だった。
クラスは違う。だが顔を知らない生徒はいない。
整った顔立ち、強気な目元、無駄のない姿勢。制服はきちんと着ているのに、本人の雰囲気だけで「お嬢様」と分かるような人間だった。
そして彼女は、湊人のことを最初からあまり好意的には見ていない。
……いや、正確には、“雑に分類できないから面倒”という見方に近いのかもしれない。
「二年三組の提出物、これで合ってますよね」
湊人が改めて確認すると、朱莉は書類を一枚だけ持ち上げた。
「うん、数は合ってる」
「それはよかったです」
「でも」
朱莉はそこで視線を止めた。
「アンタ、こういうの慣れてる?」
唐突な問いだった。
「こういうの、とは」
「紙の扱いとか、人に渡す時の手の向きとか」
心臓が小さく鳴る。
湊人は一瞬だけ考えてから、曖昧に答えた。
「慣れている、というほどでは」
「ふうん」
朱莉はそう言いながら、紙を机へ戻した。
「でも慣れてない人の動きじゃないのよね」
嫌な入り方だな、と湊人は思う。
言葉そのものは軽い。
だが、見ている場所がよくない。
声や雰囲気ではなく、所作の端を見てくる人間は厄介だ。
そういう人は“なんとなく変”を、かなり具体的な違和感として積み上げてくる。
「……よく見ておられるんですね」
少しだけ距離を取るように返すと、朱莉はふっと唇の端だけを上げた。
「アンタもそういう言い方するのね」
「どういう意味でしょう」
「褒めてるのか牽制してるのか、境目が曖昧な返し」
その指摘は、妙に正しかった。
湊人は軽く会釈だけして、それ以上は言葉を継がない。
本来なら書類を渡して終わりのはずの用事だ。早く切り上げるに限る。
だが今日は運が悪かった。
「久瀬くん、ちょっと待って」
生徒会担当の教師が別の棚から顔を出す。
「この資料も二年三組に回しておいてくれる?」
「はい」
返事をしてしまった瞬間、朱莉が小さく息を吐いた。
「雑用引き受けるのも自然」
「そういう言い方しないでください」
「してるのはアンタの方でしょ」
朱莉は椅子の背にもたれた。
「いや、別にいいのよ。手伝うこと自体は。でもさ」
「はい」
「こういう時、“はい”が迷いなく出る人って、大体二種類なの」
湊人は嫌な予感しかしなかった。
「二種類、ですか」
「本当にお人好しな人」
朱莉は指を一本立てる。
「もう一つは、そういう役回りに慣れてる人」
指が二本になる。
やめてほしいな、と心の中で思う。
やめてくれそうにもないのが、目の前の人の面倒なところだった。
「僕は前者だといいんですが」
とりあえずそう返すと、朱莉はあっさり言った。
「どっちでもない気がする」
「では何でしょう」
「第三の何か」
「雑ですね」
「雑でいいの。まだ途中だから」
まだ途中。
その一言が、やけに引っかかった。
つまり彼女の中では、これはまだ観察の途中なのだ。
結論は出していない。でも確実に引っかかっている。
その感触を残したまま、湊人は資料を受け取って生徒会室を出た。
◇
廊下へ出ると、夕方の学校特有の静けさがあった。
完全に静かではない。運動部の掛け声、吹奏楽の音、どこかの教室で机を引く音。
でも授業中とも昼休みとも違う、“みんながそれぞれ別の場所へ向かっている時間”の音だ。
その廊下を歩きながら、湊人はさっきの会話を反芻していた。
紙の扱い。
手の向き。
雑用を引き受ける迷いのなさ。
褒めているのか牽制しているのか曖昧な返し。
見られているところが、どれもよくない。
鳴海すばるは声や間に引っかかる。
倉科紬希は言葉の温度に反応する。
柊坂真白は“隠そうとする時だけ変になる”のを見ている。
そして御門朱莉は、もっと手前の癖――身体に染みついた類のものを拾ってくる。
方向が全部違う。
違うのに、どれも当たっているのが困る。
「……増えてるな」
独り言が漏れる。
見てくる人が。
近づいてくる距離が。
そして、隠さなくてはならない角度が。
階段を下りかけたところで、上の踊り場から声がした。
「あれ、久瀬くん?」
紬希だった。
手にはノートが二冊。どうやら職員室帰りらしい。
夕方の光の中で見ると、昼休みの時より少しだけ表情がやわらかい。
「倉科さん」
「今帰り?」
「その途中です。少し用事がありまして」
「そうなんだ」
紬希は階段を数段下りてきて、こちらと同じ高さで立ち止まる。
「生徒会室?」
「ええ、まあ」
「珍しいね」
「珍しい、ですか」
「うん。なんとなく」
紬希は少しだけ笑った。
「久瀬くんって、人に頼まれると断れなさそう」
「そう見えますか」
「……見える」
その言い方は真白よりずっとやわらかい。
でも、やっぱり似た場所を見ている。
「気をつけないとですね」
湊人が言うと、紬希は小さく首を振った。
「でも、そういうところ、私はいいと思う」
「ありがとうございます」
「うん」
そこで会話が一度切れる。
階段の吹き抜けを風が抜けた。
紬希は少しだけ迷ってから、続ける。
「あのね」
「はい」
「この前のこと、まだちゃんとお礼言えてなかったかも」
「この前?」
「昼休み」
ああ、と湊人は思う。
アルトとしてのコメントが、こはくの配信を少しだけ立て直した夜。その翌日に、学校で紬希が「救われたと思う」と言っていた。
たぶん、そのことだ。
「……あれは、僕じゃないですよ」
反射的に、半分本音のようなことを言ってしまう。
紬希はきょとんとした。
「え?」
「いえ、その……」
湊人は少しだけ苦笑した。
「直接何かしたわけではないので、お礼を言われるほどでは」
ぎりぎり誤魔化す。
紬希は一瞬だけ不思議そうな顔をしたあと、小さく頷いた。
「そっか」
でもその“そっか”は、完全に納得した音ではなかった。
「それでも、言いたかっただけ」
紬希はそう言ってから、少し照れたように視線を落とす。
「元気ない時に、ちゃんとした言葉をくれる人って、ありがたいから」
その一言が、妙に静かに胸へ残る。
ちゃんとした言葉。
学校の久瀬湊人も、そう見られているのだろうか。
天瀬アルトだけではなく。
「……倉科さん」
「なに」
「最近、少し話しやすくなりましたね」
ふいに口から出た。
紬希は目を丸くする。
「私が?」
「ええ」
「そうかな」
「そう思います」
「……それ、うれしい」
紬希は小さく笑った。
「ここ、話しやすいからかも」
またその言葉だ。
ここ。
窓際の場所。
教室のあの一角。
やはり自分だけではなかったのだと気づく。
あそこを“少し呼吸しやすい場所”だと思っているのは。
「よかった」
湊人が言うと、紬希はほんの少しだけ頬を赤くした。
その反応がまた、妙に胸へ残る。
「……じゃあ、また月曜」
「はい、また」
紬希はそのまま階段を下りていった。
夕方の光の中を静かに去っていく背中を見送りながら、湊人は少しだけ息を吐く。
近い。
前より、たしかに少し近い。
でも、その近さに比例して、言えないことも増えている。
◇
その夜、配信準備の前に、湊人はAstraLink共有サーバーを開いていた。
こはく――小毬こはくから、新しい報告が一件。
明日の配信予定と、少し短めにするかもしれないという連絡だ。
その下には、先輩たちの軽い反応が並ぶ。
『無理しないでねー』
『短めでも全然いいっすよ』
『コンディション優先で』
セレナ、ハル、エルザ。
湊人はその流れを見ながら、小さく考える。
昼の学校では紬希が少しずつ近づいてくる。
夜の箱の中では、こはくが少しずつ前へ進んでいる。
それは別々の出来事のはずなのに、時々妙に地続きに感じてしまう。
遠い場所で頑張っている後輩。
昼の教室で静かに笑う同級生。
その両方に、同じやわらかい熱があるように思えてしまうのは、自分が知りすぎているからだろうか。
「……よくないな」
独り言が漏れる。
知りすぎている。
でも、言えない。
言えないからこそ、余計に意識してしまう。
そこへ、もう一件通知が入る。
AstraLinkではない。
見慣れた、でも最近は少しだけ遠ざかっていた種類のもの。
家側管理室:来週火曜の面談資料を送付しました。事前確認をお願いします。
画面を開く。
PDFのタイトルだけで胃が少し重くなる。
配信でも学校でもない、第三の世界。
そこには“普通の高校生”も“人気VTuber”も関係なく、別の名前と別の立場で呼ばれる自分がいる。
最近、学校と配信の間だけで手いっぱいだった。
でも向こうは待ってくれないらしい。
御門朱莉の言葉が不意に蘇る。
アンタ、地味なくせに育ちが悪く見えないのよね。
まだ途中だから。
あの女は、たぶん嫌なところを突いてくる。
しかも、配信よりも家柄側に近い何かを。
湊人は静かにPDFを閉じた。
今日はまだ開く気になれない。
机に肘をつき、指先で額を押さえる。
学校では少しずつ居場所が増えている。
配信では後輩も増え、箱の中の立場もある。
そのうえ、家側がまた近づいてくる。
やることが多い。
でも本当に多いのは、守らなくてはならない顔の方だ。
PC画面の待機欄には、今夜の配信コメントが流れ始めていた。
夜の自分が必要とされる時間が、もうすぐ来る。
その前に、湊人は小さく息を吐く。
「……まだ途中、か」
御門朱莉の言葉を、自分で繰り返すように。
たしかにそうだ。
学校の関係も、配信の関係も、家の問題も、まだどれも途中だ。
何一つ結論は出ていない。
だからこそ、今の小さな違和感や近さや沈黙が、あとから大きな意味を持つのかもしれない。
そう思いながら、湊人はマイクの前に座った。
地味な転校生として過ごした一日の終わりに、今度は天瀬アルトとして笑わなくてはならない。
その切り替えのたび、自分の輪郭は少しずつ増えていく気がした。




