第123話 おかえりのあと、誰もすぐには答えを聞かなかった
「おかえり」
その一言のあと、誰もすぐには続けなかった。
久瀬湊人は、真白の前で少しだけ立ち止まっていた。
息は乱れていない。
服装も整っている。
表情も、いつもの静かな久瀬湊人に戻そうとしている。
けれど、戻しきれていない。
真白にはそれが分かった。
たぶん、すばるにも。
紬希にも。
日野にも。
少し離れた朱莉にも。
今の久瀬は、学校の久瀬湊人としてここへ戻ってきた。
でも、完全には戻りきれていない。
さっきまで別の場所にいた空気が、まだ薄く肩に残っている。
「……ただいま、でいいんでしょうか」
久瀬が小さく言った。
すばるが、少しだけ笑う。
「そこ、迷うんだ」
「迷います」
「まあ、今日は迷うよね」
その返しは、妙にやわらかかった。
いつものすばるなら、もう少し騒いでいたかもしれない。
でも今日は違う。
言葉を選んでいる。
茶化し方の温度まで、慎重になっている。
日野がぽりぽりと頬をかいた。
「とりあえず無事ならいいんじゃね」
「雑」
真白が言う。
「でも、今はそれくらいでいい気もする」
日野の言葉に、紬希が小さく頷いた。
「うん。まず、戻ってきたから」
久瀬は、その一言を聞いて目を伏せた。
「……はい」
その返事は、いつもの丁寧なものだった。
けれど、少しだけ深いところから出ている気がした。
◇
駅前の人の流れは、もう少しずつ落ち着き始めていた。
学校行事の余韻も薄れ、制服姿の生徒たちはそれぞれの帰り道へ散っていく。
大型ビジョンでは、まだAstraLinkの告知が流れている。
すばるは、そちらを見ないようにしていた。
見れば、たぶんまた何かを拾ってしまう。
今日だけで、もう十分すぎるほど拾ってしまった。
「久瀬くん」
すばるは、スマホを鞄へしまいながら言った。
「はい」
「今日、話すことあるって送ったけど」
「ええ」
「今すぐ全部聞く、って意味じゃないから」
言ってから、すばるは少しだけ視線を逸らした。
「……たぶん、私が今聞いたら、変な聞き方になる」
真白が横目で見る。
紬希も、静かにすばるを見ている。
久瀬は少し驚いた顔をしたあと、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
「分かりました、じゃなくて」
すばるは少しだけ困ったように笑った。
「久瀬くんも、今すぐ全部説明しようとしないで」
その言葉に、久瀬の表情がわずかに止まる。
「……それは」
「しそうだから」
すばるが言うと、日野が「あー」と声を漏らした。
「するな。久瀬はする」
「しますね」
紬希まで静かに言った。
「そこは否定してほしかったです」
久瀬が苦笑すると、少しだけ空気が緩んだ。
でも、その緩みは逃避ではなかった。
みんな分かっている。
今日はもう、何もなかった日のようには帰れない。
それでも、今すぐ全部を壊す必要はない。
◇
真白は、久瀬の顔を見たまま言った。
「私は、見た」
短い一言だった。
場の空気が、また静かになる。
久瀬は逃げなかった。
「……はい」
「顔じゃない」
「はい」
「声でもない」
「はい」
「でも、見た」
真白の言葉は、詰問ではなかった。
責めているわけでもない。
ただ、事実として置いている。
久瀬は、少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
「そう」
真白は続けた。
「だから、私はもう前と同じ見方はできない」
すばるが息を止める。
紬希も、手をそっと握った。
けれど真白は、そのまま言った。
「でも、本人の口から聞くまでは、決めない」
久瀬の表情が、ほんの少し揺れた。
「……ありがとうございます」
「感謝されることじゃない」
「それでも」
「じゃあ、今は受け取っとく」
真白は視線を逸らした。
「ただし、次は逃がさない」
日野が小さく笑う。
「怖いな」
「必要だから」
真白の返事はいつも通りだった。
その“いつも通り”が、今日はひどく大事に思えた。
◇
紬希は、久瀬へ近づきすぎない距離で言った。
「戻ってきてくれて、よかった」
それだけだった。
久瀬は少しだけ黙ったあと、静かに答えた。
「戻ると言いましたから」
「うん」
「でも」
久瀬は言葉を探した。
「待ってる、と言われたのは……思っていたより、効きました」
紬希の頬が、ほんの少し赤くなる。
「そう」
「はい」
「じゃあ、次も」
そこまで言って、紬希は一度言葉を切った。
「次も、戻ってくるって先に言って」
久瀬は、今度はすぐに頷いた。
「言います」
そのやりとりを見て、すばるが小さく息を吐く。
「倉科さん、今日ずっと強い」
「そんなことない」
「いや、強いよ」
日野も頷く。
「今日の一言、たぶん一番効いてた」
紬希は困ったように笑った。
「……戻ってきてほしかっただけ」
その言葉に、誰も茶化さなかった。
◇
朱莉が、一歩近づいた。
「今日の話をまとめるわよ」
「会議?」
日野が聞く。
「そう」
「ここで?」
「ここで」
朱莉は平然としていた。
すばるが少しだけ笑う。
「御門さん、ほんとブレない」
「今ブレたら余計に面倒でしょ」
「それはそう」
朱莉は久瀬を見る。
「まず、今日の接触は完全には起きていない」
「はい」
「でも、見られた」
「……はい」
「次に、見た側は断定しない」
真白が頷く。
すばるも、紬希も頷いた。
「そして、あなたは次にもう少し話す」
久瀬は、少しだけ息を吐いた。
「……そうですね」
「全部じゃなくていい」
朱莉は言う。
「でも、今のままだと次はもっと雑に壊れる」
言い方はきつい。
けれど、今日この場では誰も反論しなかった。
久瀬も、反論しなかった。
「分かっています」
「ならいいわ」
朱莉はそこで少しだけ肩の力を抜いた。
「今日は帰りなさい。全員、頭冷えてない」
「御門さんもだろ」
日野が言うと、朱莉は即答した。
「私は冷えてる」
「いや、たぶん嘘」
「黙りなさい」
少しだけ笑いが起きた。
それは、今日いちばん普通の笑いだった。
◇
帰り道、五人は駅へ向かった。
誰も、大型ビジョンの話はしなかった。
誰も、天瀬アルトの名前を出さなかった。
誰も、久瀬湊人の正体を聞かなかった。
それでも、全員分かっていた。
もう、前と同じではない。
真白は見た。
すばるは繋げた。
紬希は待つと決めた。
日野は、たぶん一番普通の言葉で支えた。
朱莉は、次に壊れないよう線を引いた。
そして久瀬は、戻ってきた。
答えはまだ言葉になっていない。
けれど、言葉になる前のものが、もう全員の間に置かれている。
「久瀬くん」
すばるが、不意に言った。
「はい」
「次、話す時はさ」
「ええ」
「一人で完璧な説明しようとしなくていいから」
久瀬は少しだけ目を見開いた。
すばるは前を向いたまま続ける。
「たぶん、完璧にされると、こっちも完璧に受け取らなきゃってなる」
「……」
「無理だから。たぶん」
日野が横から言う。
「それな。完璧な説明とか、聞いてる方が疲れる」
「日野は最初から聞く気ないだけでしょ」
「あるって。半分くらい」
「半分」
真白が呆れたように言う。
久瀬は、少しだけ笑った。
今日初めて、ちゃんと笑った気がした。
「……分かりました」
「分かりました禁止」
すばるが言う。
「じゃあ」
久瀬は少し考えてから言った。
「うまくは話せないと思います」
真白が、短く頷く。
「それでいい」
紬希も小さく言う。
「うん。その方がいい」
その言葉に、久瀬はまた少しだけ目を伏せた。
◇
駅の改札前で、別れる時間が来た。
いつもなら、軽く挨拶して終わる。
でも今日は、誰も少しだけ動きが遅い。
それを破ったのは日野だった。
「じゃ、今日は解散。久瀬は寝ろ」
「急ですね」
「今日くらい寝ろ」
「そう」
真白もすぐに乗る。
「帰ったら、まず食べて寝る」
「はい」
「“考えます”は禁止」
「……はい」
すばるが少し笑う。
「考えそう」
「考えますね」
紬希が静かに言った。
「そこは否定してほしかったです」
久瀬の返しに、また少し笑いが起きる。
でも最後に、真白が言った。
「今日は、答えを聞かない」
久瀬が顔を上げる。
「でも、次は聞く」
それは脅しではなかった。
約束だった。
久瀬は、静かに頷いた。
「はい」
「本人の口から」
「……はい」
その返事を聞いて、真白はようやく改札の方へ向いた。
「じゃあ、また明日」
それは、いつもの別れの言葉だった。
けれど今日の“また明日”は、昨日までとは違う重さを持っていた。
◇
久瀬湊人は、帰りの電車の中で窓に映る自分の顔を見た。
地味な男子高校生の顔。
でも、その奥には今日の現場の空気がまだ残っている。
もう、完全には分けられない。
学校では地味。
外では王子。
それを守ってきた。
守ろうとしてきた。
でも今日、その境界線を何人かが見てしまった。
完全ではない。
けれど、十分すぎるくらいに。
次は、話さなければならない。
全部ではなくても。
うまくなくても。
完璧でなくても。
あの場所を壊さないために。
「……うまくは、話せないか」
小さく呟く。
それでもいい、と言われた。
なら、次はその言葉に甘えるしかない。




