第121話 学校では地味、外では王子。そのどちらも見てしまったら、もう前と同じには戻れない
久瀬湊人は、現場の休憩時間に入った瞬間、自分の手が思ったより冷えていることに気づいた。
寒いわけではない。
夕方の空気は少し冷えてきていたが、それだけで指先まで冷えるほどではない。
原因は分かっている。
さっきの裏導線。
あの一瞬、見られた。
たぶん。
いや、ほぼ。
完全に目が合ったわけではない。
名前を呼ばれたわけでもない。
顔を見られたわけでもない。
でも、気配があった。
自分へ向けられた視線の中に、“ただの通行人”を見ているだけではない鋭さがあった。
そして、それが誰のものだったのかも、ほとんど分かっていた。
柊坂真白。
彼女は、そういうものを見逃さない。
声や顔ではなくても、歩き方や避け方や、誰かへ頷く時の小さな癖を拾う。
家側の問題で疲れていた時も、配信側の予定で削られていた時も、真白はいつも“中身”より先に無理の形を見ていた。
だから、今日のあの一瞬も、たぶん拾われた。
「……まずいな」
誰にも聞こえないように呟く。
何がまずいのか。
正体が完全にバレたことではない。
そこまでは、まだ行っていないと思いたい。
まずいのは、もう“見られていないことにする”のが難しいことだ。
真白は、きっと何かを見た。
すばるは、きっと真白の変化を見た。
紬希も、日野も、空気の揺れは感じたはずだ。
朱莉に至っては、もうとっくに全体の盤面を読んでいるだろう。
秘密は、まだ言葉になっていない。
でも、周囲の心だけが先に変わり始めている。
それがいちばん苦しかった。
◇
「天瀬さん、次の確認、五分後です」
スタッフに声をかけられ、湊人は顔を上げた。
「分かりました」
返事はいつも通りに出た。
天瀬アルトとしての声。
落ち着いていて、少しだけやわらかくて、現場の空気を乱さない声。
出せてしまう。
こういう時でも。
それが、自分で少し嫌になる。
学校側では、今ごろ真白たちが何かを抱えている。
おそらく、自分が戻る場所の空気はもう完全には以前と同じではない。
それなのに、こちら側では天瀬アルトとして、後輩へ声をかけ、スタッフへ返事をし、企画のコメントを撮らなければならない。
どちらも自分だ。
それは分かっている。
でも、今日ほどその二つが同じ身体の中にあることを重く感じた日はなかった。
「天瀬さん」
今度は、少し近い声だった。
振り返ると、小鳥遊絃葉が立っていた。
手にはペットボトル。
表情は、先ほどより落ち着いているように見える。
でも、目の奥にはまだ少し揺れがあった。
「お疲れさまです」
湊人が言う。
「お疲れさまです」
絃葉は少し迷ったように視線を落とし、それから言った。
「あの」
「はい」
「さっき、少し、空気が変わりましたよね」
「……ええ」
やはり、この子も見ていた。
現場側の緊張。
裏導線の揺れ。
学校側らしき流れが近づいた瞬間の、あの微妙な張り。
「こういう現場って」
絃葉は言葉を探しながら続ける。
「思っていたより、学校とか、街とか、そういう普通の場所と近いんですね」
その一言に、湊人はすぐ返せなかった。
学校。
普通の場所。
近い。
今の自分に刺さる言葉ばかりだった。
「……そうですね」
ようやく、そう言う。
「画面の中だけでは、ないので」
「はい」
絃葉は頷く。
その横顔には、憧れだけではない、現場を知ったばかりの緊張があった。
「ちょっと怖いです」
彼女は小さく言った。
「楽しいし、すごい場所だと思うんですけど」
「ええ」
「近すぎると、怖いんですね」
湊人は、その言葉を静かに受け取った。
近すぎると、怖い。
それは今の自分の全部だった。
配信と学校が近すぎる。
天瀬アルトと久瀬湊人が近すぎる。
そして、周囲の人たちの勘が、自分の秘密へ近づきすぎている。
「怖いと思うのは」
湊人は少しだけ息を整えてから言った。
「悪いことではないと思います」
「……はい」
「怖さがあるから、気をつけられることもあります」
言いながら、自分にも言い聞かせているようだった。
絃葉は、しばらくこちらを見ていた。
その目が少しだけ不思議そうに揺れる。
「天瀬さんって」
「はい」
「やっぱり、そういう言い方をするんですね」
前にも似たことを言われた気がする。
湊人は、ほんの少しだけ表情を止めた。
「そういう、とは」
「なんていうか……怖いって気持ちを、変なものにしない言い方」
絃葉は恥ずかしそうに笑った。
「すみません。うまく言えないんですけど」
湊人はすぐには返せなかった。
それは、学校での久瀬湊人としても、何度か言われたことのある種類の言葉だった。
人を落ち着かせる。
話しやすい。
安心する。
その言葉が、天瀬アルト側でも、学校側でも、同じように向けられ始めている。
まずい。
そう思う一方で、どこかで少しだけうれしくもあった。
自分の言葉が、相手の緊張を少しでも軽くできているのなら、それは悪いことではない。
ただ、その“悪くないこと”が、今は秘密の輪郭を濃くしてしまう。
「……ありがとうございます」
結局、湊人はそう返した。
絃葉は少しだけ笑って、それ以上は聞かなかった。
◇
現場の後半は、問題なく進んだ。
少なくとも表面上は。
短いコメント収録。
街頭ビジョンとの連動確認。
新人枠の立ち位置。
先輩ライバーの追加素材撮り。
天瀬アルトとしては、やるべきことをやった。
後輩の不安も少しは拾えた。
スタッフとの流れも大きく崩さなかった。
だが、頭の奥ではずっと別のことが動いていた。
戻る場所。
朝から意識していたその言葉が、今はもっと具体的な重さを持っている。
戻れば、真白たちがいる。
でも、そこにいる真白は、たぶんもう何かを見たあとの真白だ。
すばるも、紬希も、日野も、昨日までと同じではないかもしれない。
それでも戻るのか。
答えは、考えるまでもなかった。
戻る。
戻るしかない。
紬希に、ちゃんと戻ると言った。
何より、自分がそこへ戻りたい。
問題は、戻ったあとだ。
何もなかったようにするのか。
それとも、少しだけ話すのか。
まだ完全には答えが出ない。
けれど、今までみたいに笑ってごまかすだけでは、たぶんもう足りない。
◇
現場が終わる頃には、空はすっかり夕方の色を濃くしていた。
駅前の光が、少しずつ明るくなる。
大型ビジョンの告知映像がまた流れる。
ファンらしき人たちのざわめきが遠くに聞こえる。
スタッフに挨拶をして、少し離れた場所でスマホを取り出す。
窓際のグループチャットを開く。
指が止まった。
何と送ればいいのか分からない。
終わりました。
無事です。
戻ります。
それだけで足りるのだろうか。
少し前なら、それでよかった。
でも今は、たぶん真白たちは何かを待っている。
無事かどうかだけではなく、こちらが“見られたかもしれないこと”をどう扱うのかを。
それでも、最初に送る言葉は決まっていた。
『終わりました。今から戻ります』
送信。
少しの間。
既読がつく。
最初に返ってきたのは、紬希だった。
『うん。待ってる』
その文字を見た瞬間、胸の奥が少しだけ詰まった。
戻ってきて。
待ってる。
短い。
でも、今日の自分にとっては重すぎるくらいの言葉だった。
次に真白。
『一人で変な判断しないで。そのまま戻って』
真白らしい。
厳しい。
でも、逃げ道をふさいでくれる言葉でもあった。
すばるからは、少し遅れて来た。
『今日は、たぶん話すことある。急がなくていいから戻って』
その一文に、湊人は目を伏せた。
やっぱり。
彼女たちは、何かを見た。
少なくとも、見てしまったあとで待っている。
日野からは最後に来た。
『とりあえず無事ならよし。話は戻ってからで』
雑だ。
でも、それがありがたい。
湊人はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
戻るのが怖い。
でも、戻りたい。
その両方が、同じくらい胸にあった。
◇
駅へ向かう道で、湊人は帽子を少し深くかぶり直した。
今はまだ、天瀬アルト側の動線上にいる。
けれど、もう意識は少しずつ学校側へ戻っている。
今日、誰かが何かを見た。
完全な正体バレではない。
でも、もう“知らないふりで同じ日常へ戻る”ことは難しい。
だったら、次は話さなければならないかもしれない。
全部ではない。
まだ全部は言えない。
でも、今のままでは、戻る場所を逆に傷つけてしまう。
「……少しだけでも」
小さく呟く。
少しだけでも、話す。
守るために。
壊さないために。
戻る場所を、戻る場所のままにしておくために。
学校では地味。
外では王子。
そのどちらも見てしまったら、もう前と同じには戻れない。
湊人はそれを、今日ようやく本当の意味で理解した。
それでも、戻る。
戻って、たぶん次の言葉を選ばなければならない。




