第117話 静かな子は、好きな人が消える前の空気だけは絶対に見逃さない
倉科紬希は、人が「これから少し遠くなる」瞬間の空気をよく覚えている。
物理的に距離が離れる時だけではない。
会話の流れから少し外れる時。
頭の中が別の予定へ向き始める時。
同じ場所にいるのに、もう半分だけ違う時間へ足をかけている時。
そういう瞬間、人の空気はほんの少しだけ薄くなる。
目の前にいるのに、少しだけ遠い。
声は届くのに、次の返事が来るまでのあいだに別のことを考えている。
その感じが、紬希は昔からなんとなくわかった。
そして今、いちばん見逃したくないその空気を持つ人がいる。
久瀬湊人。
今日の学校行事の終盤、彼はまだ学校側の輪の中にいる。
でも、その内側で少しずつ切り替わり始めているのも、紬希には見えてしまっていた。
「……もうすぐだ」
胸の中でそう思う。
放課後。
切り替え。
別の顔。
危ない日。
今の紬希には、その中身までは全部わからない。
でも、消える前の空気だけは、もうはっきり見えていた。
◇
行事の流れは、表面上は順調だった。
班行動。
確認事項。
先生の指示。
軽い自由時間。
また移動。
学校行事らしいざわめきが、街のあちこちへほどけていく。
真白は、いつも通りを崩しすぎないまま必要なところだけを押さえていた。
すばるは大型ビジョンを見てしまってから少しだけ静かだったが、それでも班の流れを切らさないようにしている。
日野は日野で、妙な空気になりすぎないよう軽口の量を調整していた。
朱莉は少し離れた位置から、たぶん別の盤面を見ている。
そして紬希は、ずっと久瀬を見ていた。
正面からではない。
露骨にならないように。
でも、視界の端に入れ続けるくらいには。
今の彼はちゃんと学校側にいる。
班の会話にも入る。
必要な返事もする。
笑う時は少しだけ笑う。
でも、その全部の奥に“もうすぐいなくなる人”の気配が混ざり始めていた。
たとえば、時計を見る回数。
たとえば、ポケットのスマホへ意識が落ちる瞬間。
たとえば、会話へ戻る前のほんの一拍の遠さ。
見なければ気づかない。
でも一度見えてしまうと、もう見逃せない種類の変化だった。
◇
「倉科さん」
日野が小さく言った。
「なに?」
「今日、ほんとにずっと見てるな」
どきりとする。
でも、日野の言い方は責めるものではなかった。
「……見てる」
紬希は小さく認めた。
最近は、ここで変にごまかす方が不自然だ。
「まあ、わかる」
日野が言う。
「今日、久瀬ちょっと変だし」
その一言に、紬希は少しだけ救われる。
自分だけが神経質になっているわけではないのだと分かるからだ。
すばるも少し遅れて言った。
「うん」
声は小さい。
でもやっぱり見ている。
「今、まだ学校側にいるんだけど」
「うん」
「もう半分くらい向こうの時間に足かかってる感じする」
その表現が、紬希にはひどくしっくり来た。
そう。
それだ。
消える前の空気。
まだここにいるのに、もう全部ではいない感じ。
真白は前を見たまま言う。
「だから、今日だけは絶対一人で判断させない」
短い。
でも、今の真白のその言葉はかなり強い。
たぶん彼女も同じものを見ているのだろう。
◇
行事終盤。
解散前の最後の確認が入り、班の空気が少し緩んだあたりで、久瀬のスマホが短く震えた。
ほんの小さい振動。
でも紬希には見えた。
彼の指先が一瞬だけ固くなる。
目線が落ちる。
そして、すぐに持ち直す。
たぶん向こう側だ。
配信の現場か、
家側の確認か、
少なくとも、学校の外の時間から来た通知。
その瞬間、紬希ははっきりわかった。
もうすぐだ。
この人はここから消える。
物理的にというだけじゃない。
学校の久瀬湊人のままでいられる時間が、もう終わりに近い。
胸の奥が少しだけ苦しくなる。
ずっと見てきた。
平気なふりの回数も、
削られてる日の静けさも、
危ない日の前の落ち着かなさも。
でも、こうして実際に切り替わる直前の空気を前にすると、思っていた以上に何も言えなくなる。
「……どうしよう」
心の中で呟く。
何を、ではなく、本当にどうしよう、だ。
こういう時、何を言えばいいのかがわからない。
気をつけて。
では軽い気がする。
無理しないで。
ではもう十分言われている。
大丈夫?
は、たぶん今はいらない。
言葉を探しているあいだにも、時間は進む。
先生が解散に近い案内をし始める。
班ごとの動きも少しずつほどけていく。
今だと思った。
◇
「久瀬くん」
紬希が小さく呼ぶと、彼はすぐに振り向いた。
「はい」
その返事は、まだ学校側の温度だった。
でも、その先はもう危うい。
「今日」
そこまで言って、少しだけ喉がつまる。
真白が少し離れた位置からこちらを見ていた。
すばるも、日野も、何も言わずに空気だけ寄せている。
今しかない。
今ここで、言葉にしなければ、たぶんまた“言えなかった”だけが残る。
「……戻ってきて」
気づけば、それが出ていた。
言ってから、自分で少しだけ息を止める。
大きな言葉ではない。
でも、今の自分の本音としてはそれしかなかった。
無理しないで、でもない。
気をつけて、でもない。
ただ、戻ってきて。
今日の学校の時間から消えたあとで、また戻ってきて。
久瀬は一瞬だけ、本当に動きを止めた。
その表情が、少しだけ無防備になる。
たぶん、予想していなかったのだろう。
こういう言葉を、紬希がここでそのまま口にするとは。
「……」
数秒の沈黙。
でも、それは嫌な沈黙ではなかった。
何かがまっすぐ届いたあとの静けさだった。
「はい」
久瀬が、小さく言った。
その一言は、今日いちばん本音に近い響きを持っていた。
「ちゃんと、戻ります」
その返事に、紬希の胸の奥が少しだけ熱くなる。
真白が少しだけ目を伏せる。
すばるは小さく息を吐いた。
日野まで珍しく何も茶化さなかった。
たぶん今のやりとりは、今日の行事の中で一番静かで、一番大きい会話だった。
◇
そのあと、解散の流れが本格的に始まった。
班がほどける。
先生が点呼を取る。
学校行事の時間が終わり、街の時間と個人の時間が入り始める。
久瀬はまだそこにいる。
でも、もう次の動きへ入る人の空気になっている。
それでも、さっきの「戻ります」が紬希の中には残っていた。
ただの約束ではない。
たぶん今の自分たちの関係にとって、かなり大事な言葉だった。
好きな人がこの場から少し遠くなる。
でも、戻る気がある。
そのことを言葉にしてもらえただけで、今日の自分は少しだけ耐えられる気がした。
◇
少しあとで、真白が紬希の隣に来た。
「……今の」
低い声。
「うん」
「強い」
それだけ。
でも、珍しく真白がまっすぐそう言った。
「そんなつもりじゃ」
紬希は少しだけ困ったように笑う。
「でも、言えてよかった」
それは本音だった。
言わなかったら、たぶん今日の自分はずっと後悔した。
大きな意味を持たせるつもりはなかった。
ただ、本当にそれしか言えなかったのだ。
「うん」
真白が頷く。
「たぶん、あれでよかった」
その言葉に、紬希は少しだけ肩の力を抜いた。
◇
静かな子は、好きな人が消える前の空気だけは絶対に見逃さない。
そして、その空気を見てしまった時、ようやく出てくる言葉は、かっこいい励ましでも正しい助言でもなく、ただまっすぐな「戻ってきて」だった。




