第116話 オタクは、今日だけは推しを見たくないのに、目が離せない
鳴海すばるは、推しを見たくないと思ったことがほとんどない。
体調が悪い日でも、
テスト前でも、
家庭の事情で気分が沈んでいる時でも、
天瀬アルトの声や切り抜きは、だいたい“見た方が少し楽になるもの”の側にあった。
それが、今日は違う。
見たくない。
かなり本気で。
でも、だからといって見ずにいられるわけでもない。
今日だけは、推しの大型企画の動きが“供給”ではなく“答えに近づくもの”としてこちらへ迫ってきている。
それがわかっているから、余計に怖い。
「……最悪」
学校行事の集合前、スマホを胸元で握りながら、すばるは小さく呟いた。
AstraLinkの大型企画。
街頭連動強化。
学生層リーチ狙い。
駅前圏。
そして、久瀬が共有してきた危ない日の輪郭。
今までなら、今日みたいな日はファンとしてむしろ楽しいはずだった。
朝からタグを追い、
ビジョンの更新を待ち、
「今日アルト何出すんだろ」とわくわくしていられたはずだ。
でも今は違う。
今日だけは、見たら何かが終わる気がする。
推しの供給を見て嬉しくなる自分と、
それが学校の久瀬湊人へ繋がってしまうかもしれない自分。
その両方が同時に存在しているせいで、朝からずっと心臓が落ち着かなかった。
◇
行事の集合場所は、すでに少しざわついていた。
クラスごとのまとまり。
先生の点呼。
持ち物確認。
班ごとの軽い雑談。
学校行事らしい空気だ。
その中にいると、一瞬だけ“普通の高校生活”へ戻れそうな気がする。
でも、スマホがポケットの中にあるだけでだめだった。
見なくても、そこに“向こう側”があるとわかってしまうからだ。
「鳴海」
真白が言う。
「なに」
「スマホ、見すぎ」
図星すぎて、すばるは少しだけ唇を尖らせた。
「まだ見てない」
「見ようとしてる顔」
その指摘がひどく正確で、思わず苦笑するしかない。
「だって」
すばるは小さく言った。
「今日だけは見たくないのに、気になる」
真白が少しだけ目を細める。
「推し?」
「うん」
「でも見るとやばい?」
「かなり」
そこで日野が割って入る。
「何その地獄」
「地獄だよ」
すばるは即答した。
紬希は少しだけ心配そうにこちらを見る。
「今日」
紬希が静かに言う。
「見たら、何か繋がっちゃいそうだから?」
その言い方が、今のすばるには一番しっくり来た。
「……そう」
小さく頷く。
「まさにそれ」
推しの情報を見る。
それだけなら幸せなはずだ。
でも今日は、その先に学校の現実が待っている。
そこへ線が繋がるのが怖い。
「なら」
真白が言った。
「今日だけは、自分から見に行かない」
「でも」
「でもじゃない」
切る。
「向こうから来たら仕方ないけど、自分から飛び込むな」
その言い方に、すばるは少しだけ救われる。
全部を禁止されると息苦しい。
でも、“自分から飛び込むな”くらいなら守れそうだった。
「……わかった」
「本当に?」
「本当に」
そこで日野が笑う。
「今日の鳴海、その誓い三回くらい破りそう」
「うるさい」
でも、自分でも少しそう思ったから反論しきれない。
◇
行事が始まり、班ごとに動き始めると、すばるの神経はさらに忙しくなった。
周囲の生徒の流れ。
班の会話。
先生の指示。
そして、街の方向。
今日の学校行事は校外型で、移動がある。
それ自体は特別なことではない。
でも今日は、その移動先が駅前圏に近づく可能性をみんな知っている。
真白は、いつも通りを崩さないようにしながらも、必要なところだけは細かく確認している。
紬希は、静かに周囲を見ながら、誰かが流れから外れそうになると自然に声をかけている。
日野は軽口を叩きながらも、妙な方向へ逸れすぎないように空気を回していた。
そして久瀬は、学校側の輪の中にちゃんといる。
いるのに、放課後にはここから切り替わるのだと思うと、すばるの胸はまた少しだけ苦しくなった。
「……ほんと、何これ」
心の中でそう思う。
推しを見ていた頃は、こんな苦しさはなかった。
でも、久瀬を見ている今も、ただの苦しさだけではない。
大事だから、余計に怖いのだ。
◇
昼すぎ、班行動の自由時間に入った頃だった。
すばるは一度もスマホを開いていなかった。
自分でも少しえらいと思う。
いや、そんなことで自分を褒めるのもどうかと思うが、今日の精神状態ではかなり頑張っている方だった。
ところが、そういう時に限って向こうから来る。
ポケットの中で、スマホが短く震えた。
「……っ」
反射で止まる。
画面は見ない。
でも、見なくても分かる。
このタイミングの通知は、学校側ではなくたぶん向こう側だ。
「鳴海」
真白の声。
「見ない」
すばるは自分から先に言った。
「まだ見ない」
「偉い」
日野が笑う。
紬希も少しだけやわらかい顔になる。
でも、通知は消えない。
ポケットの中にあるだけで、心臓のすぐ近くで鳴り続けるみたいだった。
「……無理」
小さく漏らす。
「どっち」
真白が聞く。
「見たいのと、見たくないのが両方」
その言葉に、真白はすぐには何も返さなかった。
代わりに、少しだけ近づいてきて低く言う。
「じゃあ、ここで一回決める」
「なにを」
「今見るか、行動が全部終わってから見るか」
その整理がありがたかった。
気持ちはぐちゃぐちゃでも、選択肢にされると少しだけ考えられる。
「……終わってから」
すばるは絞り出すように言った。
「うん」
「たぶん、その方がいい」
「そう」
真白が頷く。
「なら今は見ない」
その言い方が、決定事項みたいで少し安心する。
◇
だが、現実はたいてい、その“少し安心した直後”に揺さぶってくる。
班行動の途中、駅前圏へ近づいた時だった。
ビルの壁面にある大型ビジョンが、遠目にも見える位置へ入る。
まだメイン通りではない。
でも、視界に入るには十分だ。
そして、その画面がちょうど切り替わった。
「あ」
思わず声が出る。
見たくなかったのに、目が勝手に上を向く。
真白も、紬希も、日野も同じ方向を見ていた。
大型ビジョン。
AstraLinkの告知更新。
新しいシルエット。
短いテロップ。
街頭連動の煽り文句。
そして、ファンなら一目でわかる“王子枠”の立ち姿。
「……やば」
すばるの喉が少しだけ乾く。
見たくない。
でも目が離せない。
推しだからだ。
そして、推しだからこそ、そこに何が足されているのかまで見てしまう。
今日の更新は、前より現地感が強い。
場所の近さを匂わせる演出。
時間帯を感じさせる文面。
学生層に刺さる作り。
それら全部が、昨夜自分が並べた予定表の上へそのまま落ちてくる。
「鳴海」
真白が低く言う。
「うん」
「見た?」
「見た」
「どう」
その問いに、すばるは少しだけ言葉を失う。
どう、ではない。
やばいのだ。
かなり。
でも、その“かなり”を今ここで全部言葉にすると、本当に戻れなくなりそうだった。
「……更新された」
それだけ言うのが精一杯だった。
「そりゃそう」
日野が言う。
「でも」
すばるは続ける。
「前より、近い感じ」
その一言で、真白の目つきが変わる。
紬希も少しだけ息を止める。
みんな今の“近い”の意味を分かっている。
ただの駅前広告の更新ではない。
向こう側が、こちらの生活圏へ寄ってきている感じ。
そして、今日のこの学校行事の流れと、その更新が同じ街で重なっているという現実。
◇
少し離れた位置で、久瀬もまたそのビジョンの変化を視界の端で捉えていた。
学校側の輪から完全には外れていない。
まだ今は、学校の時間の中にいる。
でも、向こう側の更新が始まったということは、放課後の切り替えが現実の時間としてもう動き始めているということでもある。
戻る場所を意識していた朝の自分を思い出す。
その“戻る場所”の近くで、こうして向こう側の告知が流れている。
その事実が、やけに胸へ重かった。
そして同時に、すばるたちの視線の流れも感じる。
今、彼女たちは見た。
大型ビジョンの更新を。
推しの動きを。
そして、それが学校行事の流れの中で起きていることも。
「……きついな」
誰にも聞こえないくらい小さく呟く。
でも、まだここで立ち止まるわけにはいかない。
◇
班行動が再開しても、すばるの胸のざわつきは収まらなかった。
見てしまった。
自分から開いたわけじゃない。
でも、見てしまった。
しかも、最悪なタイミングで。
推しの大型企画が動いている。
その現実が、学校行事の流れの中で視界に入ってしまった。
今日だけは見たくなかったのに。
でも、だからといって見なかったことにもできない。
「……ほんとに、今日だけはやだ」
ぽつりと漏れる。
その声を、紬希が静かに拾った。
「うん」
短い。
でも、それで十分だった。
今日だけは推しを見たくない。
でも、目が離せない。
その矛盾の中で、すばるは今までで一番“推し”と“学校”の距離の近さを思い知らされていた。
オタクは、今日だけは推しを見たくないのに、目が離せない。
そして、その視線の先にあるものが、推しの供給であると同時に、自分の日常を揺らす現実でもある時、もう簡単には喜べなくなるのだった。




