第115話 学校行事の日、地味男子は朝から“戻る場所”を意識している
学校行事の日の朝は、もっと普通であってほしかった。
久瀬湊人は、家を出る前からずっとそう思っていた。
行事の日なのだから、
教室が少し浮ついていて、
持ち物の確認があって、
班行動がどうとか、
先生がうるさいとか、
そういう普通の高校生活らしい面倒さだけで埋まっていてほしかった。
でも実際には違う。
今日の自分の頭の中には、二つの時刻表が並んでいる。
学校行事の流れ。
AstraLink大型企画の流れ。
午前は学校側。
昼すぎから行事本番。
そして放課後のどこかで、地味な転校生・久瀬湊人から、天瀬アルト側の現場へ切り替わらなければならない。
それがただ忙しいだけなら、まだいい。
でも今の自分には、もう一つ余計な感情がある。
戻る場所を意識してしまっているのだ。
行事が終わってから向かう現場ではなく、
現場を終えてから戻りたい場所としての学校の方を。
窓際の空気。
真白の短い確認。
すばるの騒がしいくせに鋭い心配。
紬希の静かな気遣い。
日野の雑で軽い一言。
そういうものが、最近の自分には明確に“戻りたい側”になってしまっている。
「……だいぶ、重症だな」
玄関で靴を履きながら、小さく呟く。
好きとかどうとか、そういう甘い言い方だけでは片づかない。
でも少なくとも、学校の時間を前みたいな“隠れるための場所”としてだけ見られなくなっているのは確かだった。
だから今日みたいな日は苦しい。
学校の行事に参加している間も、放課後にはその日常から切り替わらなければならないと分かっているからだ。
◇
教室へ入ると、空気はすでに少しだけ浮ついていた。
机の並びはいつも通り。
でも、生徒たちの声の高さが少し違う。
行事の日特有の、“まだ始まってないのに少し疲れる楽しさ”が教室全体に満ちている。
「おはようございます」
湊人が声をかけると、窓際の四人がそれぞれ返した。
「おはよ」
日野。
「おはよう」
紬希。
「おはよー」
すばる。
「おはよう」
真白。
それだけのことなのに、少しだけ胸の力が抜ける。
戻る場所。
今朝の自分が意識していた言葉が、そこでまた静かに胸の奥へ落ちた。
「今日」
真白がすぐに言う。
「はい」
「絶対一人で判断しないで」
朝一番のそれは、命令に近かった。
すばるが「出た」と小さく言い、日野が「今日はさすがにそれ言うよな」と笑う。
紬希も黙ったままこちらを見ている。
真白だけが、最初から一切ぶらさずにこちらを見ていた。
「何か変わったら」
真白は続ける。
「うん」
「先に言う」
「はい」
「“大丈夫そうだからいける”は禁止」
そこへすばるもすぐに乗る。
「ほんとそれ」
「今日は勘で押し切るの無理だから」
その言い方に、日野が「最近の鳴海、完全に実務側」と笑う。
でも今日は、その軽口すら少しありがたい。
「わかっています」
湊人は答えた。
「今日は、前より出します」
そこは昨夜から決めていたことだった。
「よし」
真白が短く言う。
紬希が小さく息を吐く。
すばるも「ならいい」と頷いた。
学校行事の日の朝なのに、会話の中身はだいぶ学校らしくない。
それでも、このやりとりがあるだけで、今日一日を一人で背負わずに済む気がする。
◇
ホームルーム前、教室のざわつきの中で、日野がわざとらしく言った。
「久瀬」
「はい」
「今日はさ」
「うん」
「ちゃんと行事も楽しめよ」
一瞬、窓際の空気が少しだけ和らぐ。
「え」
すばるが笑う。
「急にまとも」
「俺だってたまにはまとも」
「年に二回くらい」
真白が切る。
紬希も小さく笑った。
その笑いの中で、湊人は少しだけ目を伏せる。
楽しめよ。
それは今日の自分にとって、わりと難しい命令だった。
放課後には別の顔へ切り替わる。
しかも今日は、その切り替わりがかなり危ない。
だから学校行事を楽しむ余裕なんてない、と思っていた。
でも、日野にそう言われた瞬間、少しだけ考えが変わる。
今日の学校の時間まで全部“危ない日”の色へ染めたくないというのは、真白たちだけじゃなく、自分の中にもあるのかもしれない。
「……努力します」
そう返すと、日野が笑った。
「努力目標かよ」
「かなり現実的」
すばるが言って、また小さく笑いが起きる。
その笑いが、やっぱり少し救いだった。
◇
行事の説明が始まり、クラスは班ごとの動きへ移っていく。
先生の声。
配布物。
班確認。
移動。
そういう学校らしい流れの中にいると、自分はたしかに高校生なのだと少しだけ実感する。
AstraLinkの内部スケジュールや現地導線のことを一瞬だけ忘れられる時間もある。
それは短い。
でも、あるだけで違った。
班の話し合いのあいだ、すばるがやたらと細かく動線を確認していて、日野が「お前今日ほんとに変な方向で真面目だな」と笑う場面もあった。
真白は相変わらず、必要以上に騒がず、でも必要なところだけは絶対に落とさない。
紬希はその間に、みんなの持ち物や流れの確認を静かに拾っている。
誰も大げさなことは言わない。
でも、今日だけはそれぞれが別の形で“守る側”に回っているのが分かる。
「久瀬くん」
紬希が小さく呼ぶ。
「はい」
「水、持ってる?」
「ええ」
「よかった」
それだけ。
でも、その一言の温度に少しだけ救われる。
「鳴海」
真白が言う。
「なに」
「そっちのルート確認、もう一回」
「はいはい」
すばるはそう言いながらも素直に動く。
いつもの調子より、今日は少しだけ真面目だ。
そういう一つ一つを見ていると、やっぱり思う。
戻りたい場所、なのだと。
今の自分にとって学校の窓際は、もうただの偽装や避難のためだけの居場所ではなくなっている。
◇
昼過ぎ、行事が本格的に始まる直前。
少しだけ自由に動ける時間ができた時、真白が湊人の横へ来た。
「今」
「はい」
「大丈夫?」
短い。
でも、今の真白のその問いは、かなり深いところを見ている。
「……まだ」
湊人は正直に言う。
「まだ、学校側でいられます」
その答えに、真白は少しだけ目を細めた。
「ならいい」
「でも」
「なに」
「そろそろ、切り替えのことを考え始めています」
そこまで言うと、真白は一瞬だけ黙る。
それから、低く言った。
「じゃあ、なおさら」
「え」
「今のうちに、学校の時間をちゃんと使っときな」
その言い方はぶっきらぼうだ。
でも、かなりやさしい。
やさしいとわかるから、余計に胸へくる。
「……そうですね」
湊人が小さく返すと、真白はすぐに視線を逸らした。
「別に」
「はい」
「今日の朝、日野が言ったやつと同じ」
つまり、行事もちゃんとやれ、ということだろう。
言い方は違っても、向いている方向は同じだ。
◇
行事開始直前。
みんなが動き始める少し前のざわめきの中で、湊人は少しだけ深呼吸した。
これから始まるのは学校側の時間だ。
そのあとで、別の顔へ切り替わる。
その事実は変わらない。
でも、だからといって今この瞬間まで全部が“その前座”であっていいわけでもない。
今はまだ、戻る場所の中にいる。
そして、その場所は最近の自分にとってかなり大事になっている。
学校行事の日、地味男子は朝から“戻る場所”を意識している。
それは、放課後に別の顔へ切り替わるからこそ、今の学校の時間が前よりずっと大事に思えてしまうからだった。




