第108話 オタクは、答えの輪郭を渡されるほど逃げ場がなくなる
鳴海すばるは、曖昧な違和感の中にいる間だけは、まだ逃げられると思っていた。
気のせいかもしれない。
似ているだけかもしれない。
自分が推しを見すぎて、学校の誰かへまで重ねてしまっているだけかもしれない。
そうやって“かもしれない”を並べているうちは、まだ逃げ場がある。
答えそのものへ触れずに済む。
でも、輪郭だけ渡されると違う。
時間帯。
エリア。
一人になるタイミング。
そういう現実的な情報が少しずつ前へ出てくると、今まで自分の中だけで暴れていた違和感が、急に“現実の形”を持ち始める。
そして今のすばるは、その一番しんどい場所に立っていた。
「……無理なんだけど」
木曜の夜、自室のベッドの上でスマホを見つめながら、小さく呟く。
画面には、今日久瀬が共有した内容を自分なりに整理したメモが映っていた。
来週・学校行事当日
放課後
駅前圏
一人になる時間あり
そこへ自分の中にあるAstraLink側の知識が勝手に重なる。
大型企画の動き方。
街頭ビジョンを使う時の時間帯。
学生層リーチを狙うなら選ばれやすい導線。
現場入り前後でライバーが一瞬だけ単独になるタイミング。
「ほぼじゃん……」
口に出した瞬間、また心臓がうるさくなる。
ほぼ。
でも、まだ確定ではない。
本人の口から何も言われていない以上、そこは最後の最後で残っている。
けれどオタクの脳は、もうそこを“ただの偶然”にしてくれない。
推しの大型企画の現場感覚。
久瀬の開示した危険日の輪郭。
その二つが、同じ形で重なりすぎている。
「……これ、ほぼ答え合わせでは」
呟いてから、自分で顔を覆う。
だめだ。
ほんとうにだめだ。
欲しかったのは、こんな形の輪郭じゃない。
もっと遠くから、もっとゆっくり、時間をかけて“まさかね”をやっていたかったのに。
でも、久瀬が今日そこまで出してきたということは、それだけ本当に危ないということでもある。
そこがまた、すばるを簡単にオタクの興奮へ逃がしてくれなかった。
◇
翌朝、すばるはいつもより少しだけ早く教室へ入った。
理由は単純だ。
久瀬の顔を先に見たかった。
昨日、自分で思っていた以上に踏み込んだ情報を共有してきた人間が、今日どんな顔で教室へ来るのかを見ておきたかった。
廊下を曲がる。
教室の扉が見える。
その時点で少しだけ心臓が変な音を立てる。
「……ほんと何なんだろ、私」
小さく呟いてから、扉を開ける。
いた。
久瀬湊人は、もう席に着いていた。
日野はまだ来ていない。
真白は窓際で教科書を出している。
紬希は鞄からノートを出したところだった。
つまり、まだ窓際の空気が完全に揃いきる前の、少し静かな時間。
「おはよ」
すばるが言う。
「おはようございます」
返ってくる。
いつもの少し落ち着いた温度。
その一言だけで、昨夜自分が見ていたアルトの雑談切り抜きがまた頭をよぎる。
だめだ。
挨拶一つで脳が勝手に結びつこうとする。
「……今日、早いですね」
久瀬が言う。
何でもない一言だ。
でも、その“何でもないふうに会話へ入る感じ”まで、最近のすばるには全部意味を持ってしまう。
「ちょっと」
すばるは鞄を置きながら言う。
「早く起きた」
「そうですか」
「うん」
それ以上の会話は続かない。
でも、その短い会話だけで、昨日より少しだけ輪郭が濃くなる。
だめだ。
ほんとうに、情報が増えるほど逃げ場がなくなる。
◇
真白が、すばるの席へ来たのは一限目のあとだった。
「顔」
開口一番それだった。
「何」
「もうだいぶ答えに近い顔してる」
雑なのに鋭い。
最近の真白は本当にそういうところだけ容赦がない。
すばるは少しだけ机へ突っ伏した。
「……昨日の共有」
「うん」
「かなりやばい」
「そこまでは私もわかる」
真白は椅子の背にもたれながら言う。
「で?」
「で、私の中のAstraLink知識と噛み合いすぎる」
そこまで言うと、真白が少しだけ目を細めた。
内容を全部理解しているわけではない。
でも、“すばるのオタク側の知識と、久瀬の出した情報が重なりすぎている”ことだけは分かったのだろう。
「ほぼ?」
真白が聞く。
その短さが、逆に今のすばるには痛い。
「……ほぼ」
小さく認める。
「でも」
「でも?」
「まだ、本人の口からじゃない」
それが最後の砦だった。
すばるが怖がっているのは、事実そのものだけではない。
本人が自分の言葉で何かを言う瞬間が来たら、もう今の曖昧なままの学校の空気には戻れないかもしれないことの方だ。
「うん」
真白が頷く。
「そこは大事」
「でしょ」
「でも」
真白は続ける。
「昨日ので、輪郭はかなり来た」
「来た」
「逃げ場減った?」
図星だった。
すばるは少しだけ苦く笑う。
「かなり」
そう言うと、真白も小さく息を吐いた。
「鳴海」
「なに」
「たぶんアンタ今、知りたいより先に」
「うん」
「受け止める準備の方が必要」
その言葉が、ひどくしっくり来る。
昨日も似たことを思った。
でも、真白に言葉にされるとやっぱり輪郭が強くなる。
知りたい。
でも、その前に必要なのは“知ったあとも今の空気を全部壊さずに済む自分”の準備だ。
そう考えると、今の自分の混乱にも少し説明がつく。
◇
昼休み、窓際の会話はいつもより少し静かだった。
日野が購買パンをかじり、
紬希が飲み物を机へ置き、
真白がノートを閉じる。
久瀬もそこにいる。
いるだけで、また少し心臓がざわつく。
「鳴海さん」
不意に紬希が言った。
「なに?」
「昨日のあと、ずっと考えてる?」
「……うん」
隠しても仕方ないので素直に答える。
紬希は小さく頷いた。
「やっぱり」
「顔に出てる?」
「少し」
その“少し”が最近の紬希らしい。
「私」
すばるは少し迷ってから言った。
「昨日ので、ほんとに逃げ場なくなった感じする」
そこまで言うと、日野がパンを持ったままこちらを見る。
真白も何も言わずに聞いている。
久瀬だけが、やや静かな顔でこちらを見ていた。
「今までって」
すばるは続ける。
「違和感はあっても、“気のせいで逃げる場所”があったんだよね」
「うん」
真白が促す。
「でも、昨日の時間帯とか場所とか、一人になるタイミングまで出されると」
少し言葉を探す。
「それ、私が知ってる向こう側の動きと噛み合いすぎる」
そこへ日野がぽつりと言う。
「ほぼ答え合わせ?」
「……うん」
やっぱり、その言葉になる。
久瀬は何も言わない。
でも、その無言が妙に重い。
否定しないから、ではない。
今はまだ何も言えないと分かっている人の無言だからだ。
「だから」
すばるは少しだけ視線を落とした。
「知りたいのに、逆に怖い」
その本音に、紬希が小さく頷く。
「わかる気がする」
真白も短く言った。
「うん」
日野だけが少しだけ苦笑する。
「お前ら最近、ほんとに青春してんな」
「茶化すな」
真白が切る。
でも、その切り方も今日は少しだけやわらかい。
青春。
そう言われると、たしかにそうなのかもしれない。
ただし、だいぶ面倒で、だいぶややこしい形のやつだ。
◇
放課後、帰り道の途中。
すばるは信号待ちで、ふと大型ビジョンの方角を見た。
まだ遠い。
でも、あの場所が次の危ない日の中心になるかもしれないと知ってしまった今、視線が向かない方が無理だった。
「……真白」
「なに」
「昨日さ」
「うん」
「そこまで出してきたってことは」
「うん」
「ほんとにやばい日なんだよね」
それは確認でもあり、言い聞かせでもあった。
「そう」
真白は即答する。
「だから、鳴海」
「なに」
「次は、感情だけで突っ込まない」
その言い方に、すばるは少しだけ苦笑した。
「わかってる」
「本当に?」
「本当に」
そこで少しだけ間を置く。
「……たぶん」
「最後のいらない」
即座に切られて、少しだけ笑ってしまう。
でもその笑いの奥で、やっぱり思う。
答えの輪郭を渡されるほど、もう逃げ場がなくなる。
それはしんどい。
かなり。
けれど同時に、その輪郭を本人が自分の側から少し渡してきたこと自体も、今の自分にはひどく大きかった。
オタクは、答えの輪郭を渡されるほど逃げ場がなくなる。
そして今のすばるは、その逃げ場のなさを怖がりながらも、もう完全に背を向けることはできないところまで来ていた。




