第102話 静かな子は、好きな人が二つの顔で疲れていることをまだ知らない
倉科紬希は、好きな人の疲れ方が二種類以上あることだけは知っていた。
でも、その“二種類以上”が何を意味するのかまでは、まだ知らない。
家側の問題で張る疲れ。
配信側の予定で削られる疲れ。
少なくとも、そういう違いがあることは今の窓際なら全員感じている。
そして紬希も、その違いをかなり近くで見てきた。
ただ、それを“二重生活”とか“外の顔”とかいう言葉で正確に捉えているわけではない。
今の紬希に見えているのは、もっと手前のことだけだ。
今日は張っている。
今日は削られている。
今日は平気なふりが多い。
今日は少しだけ本音が出ている。
そういう、小さな違いの積み重ね。
それだけでも、好きな人を見るには十分すぎるくらい深かった。
◇
木曜の朝、教室へ入った時点で、紬希は少しだけ安心していた。
今日は昨日よりましだ。
久瀬の顔を見れば分かる。
完全に元気というわけではない。
でも、“危ない日を一つ越えたあとの静けさ”がある。
「おはよう」
小さく声をかける。
「おはようございます」
返ってくる声も、昨日より少しだけ余裕がある。
その差が分かってしまう自分が、最近は少しだけ怖くもあった。
こんなふうに誰かの小さな変化ばかり気にするのは、自分らしくない気もするからだ。
でも、もう気にしない方が難しい。
「今日は」
真白が言う。
「うん」
「昨日よりはまだ人間」
日野が吹き出す。
すばるも笑って「判定が雑」と言う。
紬希も少しだけ口元を緩めた。
でも、その雑な言い方の奥にある安心は本物だ。
昨日の窓際は、かなり気を張っていた。
今日は少しだけ、呼吸がしやすい。
そういう違いを、最近の窓際はもう共有できるようになっている。
◇
二限目のあと、紬希はノートを片づけながら、ふと久瀬の横顔を見た。
少しだけ疲れている。
でも、それは昨日の張りではない。
今日の疲れは、もっと静かな残り方だ。
無理を通したあとの、やわらかい消耗。
家側の問題の時は、もっと硬かった。
そこが違う。
「……やっぱり、別なんだよね」
心の中で小さく思う。
何が別なのかは、まだはっきり言えない。
でも、疲れ方の質が違う。
それだけはずっと分かっている。
真白は限界を見ている。
すばるは違和感を見ている。
朱莉は秘密の数を見ている。
自分はたぶん、その日その瞬間の“しんどさ”だけを見ている。
だからこそ、今の自分にはまだ見えていないものもあるのだろう。
◇
昼休み、紬希はコンビニで買った小さなヨーグルト飲料を、そっと久瀬の机の端へ置いた。
最近はもう、こういうことをしても前みたいに変に緊張しなくなってきた。
いや、緊張はする。
でも、“した方がいい時はする”方へ少しずつ変わってきている。
「これ」
久瀬が目を上げる。
「今日は」
紬希は言う。
「昨日ほどじゃないけど、少し残ってそうだから」
そこまで言うと、すばるが横から「最近の倉科さん、回復食担当みたいになってる」と笑う。
真白も小さく頷いた。
「かなり適任」
日野は「役職名ついた」と吹き出す。
少しだけ恥ずかしい。
でも、嫌ではない。
むしろ最近は、この役割を自分で少し気に入っている気もする。
「……ありがとうございます」
久瀬が言う。
その礼の声は、今日は昨日よりずっと自然だった。
それだけで少し安心する。
「今日は」
紬希が聞く。
「うん」
「昨日のあとだから、まだ少ししんどい?」
かなりそのまま聞いた。
でも今の自分は、そのくらいの方がいいと思っている。
久瀬は少しだけ目を伏せてから答えた。
「……少しだけ」
その答え方に、紬希はまた小さく安心する。
今日は平気なふりの回数が、昨日より少ない。
それが分かるからだ。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、今日は少しだけ気を抜ける日だね」
そう言うと、久瀬は少しだけ驚いた顔をした。
たぶん、自分の“少しだけ”をそんなふうに受け取られると思っていなかったのだろう。
「……そうかもしれません」
その返事は、昨日よりやわらかかった。
◇
放課後、窓際の五人はいつものように駅へ向かって歩いていた。
今日の会話は少し軽い。
日野が意味のない話題を振り、
すばるがすぐ乗っかって、
真白がそれを切って、
紬希が笑う。
久瀬も、今日は比較的その流れへ自然に入っている。
そういう時、紬希は少しだけ思う。
この人は、たぶん自分たちが思っている以上にいろいろ抱えている。
しかも、それは一つではない。
でも今の自分には、まだその全体像は見えていない。
見えていないのに、それでも好きでいられるのは不思議だ。
いや、もしかしたら見えていないからこそ、今はただ“しんどい日かどうか”だけを見ていたいのかもしれない。
「倉科さん」
不意に久瀬が言う。
「なに?」
「今日のそれ」
手に持っていた空のヨーグルト飲料を少しだけ持ち上げる。
「助かりました」
その一言が、胸へしみる。
「……よかった」
紬希は小さく返す。
「今日は、昨日より少し話しやすかった」
それも本音だった。
久瀬は一瞬だけ目を見開いて、それから少しだけ苦笑する。
「昨日は」
「うん」
「たぶん、かなり余裕がなかったので」
「知ってる」
紬希は小さく言った。
「見てたから」
その返しに、久瀬は何も言わなかった。
でも、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
◇
夜、自室。
紬希は机へ頬杖をつきながら、今日の帰り道のことを思い出していた。
助かりました。
見てたから。
その短いやりとりだけで、今日はなんだか十分だった。
好きな人が二つの顔で疲れていることを、自分はまだ知らない。
でも、それでもいいのかもしれないと思う。
全部を知らなくても、今しんどいかどうかだけは見ていられる。
それだけで支えられる日もある。
静かな子は、好きな人が二つの顔で疲れていることをまだ知らない。
それでも、その知らなさごと抱えたまま近くにいたいと思ってしまうのが、今の紬希の恋だった。




