第101話 新人ライバーは、学校で名前を呼ばれただけで少し安心してしまう
小鳥遊絃葉は、自分がここまで現場慣れしていないとは思っていなかった。
いや、正確には“現場そのもの”より、“現場が学校の近くまで来ること”に慣れていないのだと思う。
配信は家でやるものだった。
打ち合わせも画面の向こう側でやるものだった。
収録だって、もっと遠い、日常と切り離された場所で行われるものだと、どこかで思っていた。
でも今の大型企画は違う。
駅前のビジョン。
人の流れ。
制服姿の生徒。
学校の帰り道と、配信の現場が同じ街の中で揺れている。
それが、絃葉には思っていたよりずっと怖かった。
誰かに見られるかもしれない、という意味だけではない。
自分の“学校の時間”と“配信の時間”が、思っていたより簡単に重なってしまうのだと知ったこと自体が怖い。
「……変な感じ」
木曜の朝、教室の自分の席でノートを開きながら小さく呟く。
クラスメイトの会話はいつも通りだ。
先生が来る前のざわめきも、窓の外の風景も、特に変わらない。
でも自分の中だけ、昨日までの現場の余韻がまだ残っている。
天瀬アルトの声。
スタッフの指示。
現場の人の流れ。
そして、その近くにいたかもしれない学校の人たち。
その全部が、まだ胸の内側で少しずつ鳴っている。
こういう時、絃葉はだいたい少しだけ一人になりたくなる。
でも一人になると、余計に考えてしまう。
だから結局、教室の中で何でもない顔をしているしかない。
その“何でもない顔”も、今日はあまり上手くない気がしていた。
◇
二限目が終わったあとの休み時間。
絃葉は廊下へ出て、飲み物でも買おうかと少しだけ迷っていた。
喉は渇いていない。
でも、席にじっとしていると落ち着かなかった。
廊下はいつもの学校の音で満ちている。
笑い声。
足音。
教室を移動する生徒たち。
その普通の感じに、今日は少しだけ救われる。
曲がり角を曲がったところで、不意に後ろから声がした。
「小鳥遊さん」
名前を呼ばれて、絃葉は思わず肩を揺らした。
振り返る。
久瀬湊人だった。
「あ」
それしか出ない。
最近、この人と会うと最初の一音がだいたいそれになる。
自分でもどうかと思うが、どうにもならない。
「こんにちは」
久瀬はいつもの少し落ち着いた温度で言う。
「こんにちは」
絃葉も返す。
それだけで、なぜか胸のざわつきが少しだけ落ちる。
自分の名前を呼ばれただけ。
ただそれだけなのに、妙に安心してしまう。
そのことに、絃葉は少しだけ驚いた。
「最近」
久瀬が言う。
「また少し忙しそうですね」
「……そんなにわかる?」
思わず苦笑すると、彼は少しだけ目を細めた。
「前より、考えごとの時間が長そうなので」
その言い方が、やっぱりやわらかい。
何があったのか、とは聞かない。
でも、何かあることは見えている。
その距離感がちょうどいい。
「ちょっとだけ」
絃葉は正直に言った。
「最近、落ち着かなくて」
「大事な予定のあとですか」
その一言に、絃葉は少しだけ目を丸くする。
「……あと、です」
「終わったあとも」
久瀬は続ける。
「気持ちって、すぐ元に戻らないことがありますし」
そこで、絃葉は小さく息を止めた。
そうなのだ。
まさにそれだった。
現場は終わった。
でも、終わったからといって心拍が学校仕様にすぐ戻るわけではない。
むしろ終わったあとに、近さとか怖さとか、いろいろなものがじわじわ来る。
「……そう」
絃葉は小さく頷いた。
「それ」
「なら、たぶん普通です」
久瀬が言う。
「普通」
「ええ」
少しだけ間を置く。
「大きいことの前後って、そうなりやすいので」
その言葉に、絃葉はまた少しだけ救われた。
普通。
それを言ってもらえるだけで、だいぶ違う。
自分が変になっているわけじゃないのだと思えるからだ。
「ありがとう」
絃葉は言う。
「なんか、ちょっとだけ楽になった」
久瀬は、ほんの少しだけ困ったように笑う。
「それならよかったです」
また、その返し。
やっぱり、相手を安心させることに慣れている人の返しだ。
その瞬間、絃葉の中でまた二つの声が重なる。
天瀬アルトのやわらかさ。
久瀬湊人の落ち着き。
完全に同じではない。
でも、少なくとも“人を楽にするための間”だけは、かなり似ている。
「……どうかしましたか」
久瀬が聞く。
また少し長く見てしまっていたらしい。
「ううん」
絃葉は首を振る。
「ただ、ほんとに話しやすいなって」
口に出してから、少しだけ恥ずかしくなる。
でも、もう隠しても仕方ないくらいには本音だった。
「それは」
久瀬は少しだけ視線をずらしてから言う。
「光栄です」
その言い方まで落ち着いていて、絃葉は思わず笑ってしまう。
この人と話すと、少しだけ呼吸が整う。
現場前でも、現場後でも。
それはたぶん、今の自分にとってかなり大きいことだった。
◇
午後の授業中、絃葉はさっきの会話を何度も思い返していた。
終わったあとも、気持ちはすぐ戻らない。
大きいことの前後って、そうなりやすい。
それなら普通。
全部、派手ではない。
でも、今の自分にはぴったりだった。
そして、その“ぴったりさ”がまた厄介でもある。
天瀬アルトも、こういう言葉の置き方をする。
相手を持ち上げすぎず、
でも確実に楽にする。
そこが好きだ。
かなり好きだ。
そして今、学校の中にも少しだけ似たような人がいる。
それが嬉しいのか、怖いのか、自分でもまだ分からない。
「……なんなんだろう」
ノートへ視線を落としたまま、心の中でそう呟く。
でも最近は、その“なんなんだろう”の奥に、少しずつ別の言葉が育ち始めている気がした。
似ている、じゃなくて。
同じ、でもなくて。
もっと曖昧で、でも近い何か。
それをまだ言葉にはできない。
けれど、以前より確かにその輪郭は濃くなっている。
◇
放課後、帰宅してから、絃葉はまたアルトの短い切り抜きを開いていた。
後輩ライバーへの相づち。
コメントへの返し。
少し緊張している相手へ、空気を下げる声。
そして、今日学校で名前を呼ばれた時の自分の安心まで思い出してしまう。
「……だめだな」
小さく呟く。
配信の先輩と、学校の男子。
本来なら混ざるはずのない二人が、心の中で少しずつ近い位置に来てしまっている。
新人ライバーは、学校で名前を呼ばれただけで少し安心してしまう。
そしてその安心の形が、憧れの先輩に抱く気持ちと似ていることに、まだちゃんと向き合えないでいるのだった。




