87.〈監視者〉
『〈監視者〉…?』
意味が分からず、反芻する。それに、今ニルさん、なんて言った?あるじさま?
リュゼはにっこり笑うと、私の方に視線を向けた。
「そう、〈監視者〉。ただ変化を観測し続ける、そういう存在だと思ってくれていい」
その口から流暢に出てきたのは、日本語だった。思わず身体を起こして見上げると、リュゼは苦笑する。
『長い時間、色んな土地を観測していたから、言語には詳しくなったんだ。それでも君の国の言葉は独特だけど』
彼は両手を広げて、目を細める。
『〈管理者〉、君なら知っているだろう。…僕はね、こちら側の階層の頂点にいる存在だ。この身体は、この階層を観測する為の〈端末〉の一つみたいなものかな。今はそのリュザフィール君の身体を借りているだけでね』
リュゼの顔でつらつらと喋られるのは、なんだか気持ちが悪い。顔に出ていたのか、リュゼはこちらに視線を向けて、小さく笑った。
『それじゃあ、本来の姿になろうか。その方が話しやすいなら』
彼はそう言って、自分の顔を手で覆う。何の術式を使ったのか、分からなかった。ほんの一瞬、空気を震わせる何かの気配。
手を離すと、彼の顔は全く違うものになっていた。白くて長い髪と、薄い水色の瞳。柔らかく微笑む顔は中性的で、美しい。絶句していると、彼はクスクスとまた笑う。
『ふふ、まあいいか。さて、種明かしをしよう。君達には世話になったからね』
びりっと空気が震えて、自分のいるこの空間だけが宙に浮いているような、奇妙な感覚に支配される。
『決して他人には聞かれてはいけない話だから。少しだけ、空間を分離した。まあ長い間話すわけじゃないから、支障ないだろう』
〈監視者〉はそういうと、唇に人差し指を当てた。
『〈監視者〉というものはね、全てを見通している訳じゃない。こうして、複数の端末を通してモノを見ている。僕はただ観測するだけの存在だけど、不測の事態の際には色々と手を打たないといけない。その不測の事態、というのがココだった訳だが――手の打ち方に迷っていたんだ。なかなか相手が尻尾を掴ませないし、〈管理者〉としての記録を半分受け継いでいるときてる。凄くやりづらくてね』
〈監視者〉は何もない空間に腰を下ろして、静かに足を組んだ。
『もう少し情報を探るために、グレイプニルをここに派遣した。ああ、〈管理者〉が誰かわからないって言ったのは、それくらい調べられないと〈調停者〉として失格だと思ったから。敢えて言わなかった』
悪戯っぽく笑うが、洒落にならない。それが早く分かっていれば、もっと早く手が打てたはずなのだから。
『それからね、君を巻き込んでみた。どうしたってビルレストの血が必要だったからね。その中でも、君の血は特別だから』
『…巻き込んで、みた?』
愕然として呟くと、相手は楽しそうに笑う。
『…死にかけたんですけど』
というか、一度死んだんだが。怒りの矛先を向けるべき対象を突然提示されて、逆に混乱してくる。
『それはちょっとね、僕も予想外だった。申し訳ないとは思ってる』
そんな言葉で済むと思っているのか。
――主様。何故、そんな危険な賭けを…?
ニルさんの問いに、〈監視者〉は顎に手を当てて首を傾げた。
『そう危険だとも思ってなかったんだけど。彼女に流れている血の殆どはビルレストのものだけど、その裏側に少しだけ流れているのが、この地のものだったし。それに僅かに、〈調和〉の魔獣の血も流れてる。一番死なない確率が高かった。思ったよりもビルレストの血の方が強かったってことかな』
『…どういうことだ』
黙りこくっていたクラウスが、低く問いかける。〈監視者〉は顎に当てていた手を離して、人差し指を立てた。
『君の心配はもっともだ。だが彼女がこの地に与える影響は殆ど無いに等しいから、そこは安心して欲しい。彼女は言うなれば、混ざり物さ。純粋なビルレストの人間じゃない。君もそれを最初に感じ取っただろう?』
『…ああ』
確かに、初めて会ったときに、クラウスは私の血に何かが混ざっていると言っていた。あの時はニルさんのものかと思ったが、結局は違ったということか。
『物分りが良くて結構。ああ、どこまで話したっけ。ああ、そうそう。そういう訳で、グレイプニルの召喚に紛れ込ませて、彼女もこの地に送った。そこから先は結構危ない橋ばかり渡っていて心配だったけど、ちゃんと任務をこなしてくれた。感謝してもしきれないよ』
『……』
薄っぺらい感謝の言葉に、全員が沈黙する。〈監視者〉はそれに軽く眉を上げて、クスクスと笑った。
『…事の始まりについて、話しておこうか。まずは1つ目、〈調和〉の魔獣について』
薄い水色の瞳が、真っ直ぐこちらを向いた。
『〈調和〉の魔獣は、かなり特殊な存在だ。その血肉は階層の影響を受けない。そしてそれ故に、階層を全くのノーリスクで行き来する事ができる。まあ彼は、まだ小さい頃に、それをよく分からないままやってしまってみたいだけどね』
〈監視者〉は小さく溜息をつく。
『そして彼はこの地で迫害された。それを庇ったのが君の母親、『侵食』の強い血を持つ女性だよ。君の血の、他の血液を侵食する速度が速いのは、この血の特性だろう。『調和』と混ざっていたから、君の身体に残ったんだろうね。…彼から、少しは話は聞いたとは思うけど、君の母親は彼を庇って傷を負い、彼の血が流れ込んだ池に落ちた。それで意図せず、ビルレストに移動してしまった。彼女は直ぐに病院に運ばれて、一命を取り留めた。でもそんなこと彼は知らないから、この地の人間を怨んで、憎んで…そうやって、今まで過ごしてきた』
ああ、だから、魔獣はあんなことを言っていたのか。こんな場所、潰れて無くなってしまえばいいと思っていた、と。
『さて、2つ目。エインヘイル・コルネリウス。彼は周りがよく見える男だった。信者からもよく信頼される、良い司祭。そのせいか、困ったものを押し付けられる。それが聖帝の双子の片割れだ』
その言葉に、クラウスとヴェルがぴくりと顔を上げた。
『彼は産まれたばかりの赤子を、地下に匿った。双子というのは難儀だな、顔が同じでは、外に出す事すら難しい。幸い聖教会の地下は、不測の事態が起きた場合に王が逃げ込めるように、かなり入り組んだ作りになっている。彼は陽の当たらない場所で、ただひっそりと、無欲に暮らしていた。外の世界を全く知らないから、外に出ようとすら思わなかった。だが、先代の聖帝が崩御して、〈管理者〉の記録が脳に流れ込んでしまった。それで、彼は自分の境遇を理解する。あの謀反、本来の計画を教えてやろうか』
〈監視者〉はゆっくり瞬きをすると、言葉を続けた。
『彼の怒りの矛先は、エインヘイル・コルネリウスにも向けられていた。彼は、精神干渉でエインヘイル・コルネリウスを意のままに操った。彼の計画は、本当に謀反を起こす事じゃなかった。謀反を起こして、守りが薄くなった隙に君を殺して、君に成りかわる事だった。それさえ果たせれば、後は謀反など邪魔でしかない。首謀者を操って、内側から瓦解させてしまえばいい。だが彼の計画は途中で頓挫する。君がそれを阻止したからさ』
ヴェルは、ただ黙って、剣の柄を握りしめていた。僅かに震える指先で、相当な力が込められているのだと分かる。
『コルネリウスは、君に首を刎ねられる寸前、どんな顔をしていた?』
『…っ!』
ヴェルが剣を抜こうとするのを、クラウスが剣首を抑えて押し留める。〈監視者〉はきょとんとそれを見て、困ったように笑った。
『憶えていないのかい?…笑っていただろう。安心したのさ、彼は死によって苦しみから解放されたんだから』
ヴェルは驚いたような表情で固まって、それから苦しげに顔を歪めた。
『…さて、それで彼の目論見は失敗に終わったわけだ。彼は悔しかった。そうしてね、…君が管理するこんな場所、壊してしまおうと思った訳だ』
『…随分と、酷い八つ当たりをされたものだな』
クラウスは低く呟いて、溜息をついた。〈監視者〉は軽く首を傾けて、少し困ったような顔で頷いた。
『さて、次で最後、3つ目。エインヘイル・カスケードは、コルネリウスが聖帝の双子の弟を引き取って、2年後に産まれた実子だ。母は産後すぐ亡くなってしまったから、面倒は彼が一人で見ないといけない。だが彼は、その子も地下で育てる事にした。…エインヘイル・カスケードにとっては、エインヘイル・コルネリウスと、自身と同じように地下で生活していた少年が、世界の全てだった』
そんな、ずっと地下で、ふたりぼっちなんて、辛くて苦しい。あんなに苦しめられた存在なのに、哀れむような感情が湧き上がる。
『ただ彼は、彼の2歳年上の少年とは少し違った。自分が地下にいるということを理解していた。そして、誰にも見つからないように、一緒に暮らしていた少年にも秘密で、こっそり地上に行くようになる。そうしている内に、自分と同じ歳の少年が、自分の父親と地上で普通に暮らしているのを知る』
〈監視者〉は今度はヴェルに視線を向けて、小さく笑った。
『そう、君だ、エインヘイル・ヴェルフリード。彼は君を妬んだ、憎悪した。そしてそれは、自身の血の繋がった父親にも向けられた。何故自分だけ、地下でひっそりと生きなければならないのかと。だから、彼は謀反の計画全て理解した上で、それに加担した』
『…』
その言葉に、ヴェルが静かに息を吐いた。
『…でも、彼の目的も果たされなかった。君が、エインヘイル・コルネリウスの首を落としたから。彼は憎悪全てを、君に向けるしかなくなった』
〈監視者〉はそこまで話して、ゆっくりと腰を上げた。
『これが、きっかけだ。そうして、獣と彼らは出会って、獣は彼らに力を貸した。その先は僕もよくは知らない。途中から君の弟に酷く視界を妨害されてね、全然見えなくなったから』
彼は小さく微笑むと、こちらに向かって歩を進めてきた。それに思わず後退りすると、〈監視者〉は困ったように眉尻を下げる。
『別に何もしないよ、信用無いなあ』
顔がずいっと迫ってきて、恐怖で身体がびくりと震える。相手はきょとんとした顔で私を見下ろして、直後ふふっと笑った。
『頑張った子にはご褒美をあげないとね。3つ、願いを叶えてあげる。君の世界の、ほら、何だっけ…「ランプの魔人」?だったかなあ。アレみたいで面白いでしょ?』
『…は?』
『あれ、違ったかな?まあいっか。…君が、ビルレストに帰りたいって言うなら帰してあげるよ。〈調和〉の魔獣の助けを借りれば、リスクはかなり低くなる。それに彼も喜んで協力してくれるだろうしね』
『……』
それは、自分の中で、答えが決まっていること。
『帰りません』
きっぱり言うと、〈監視者〉も、ヴェルも、驚いた顔でこちらを見た。
「これ、またと無いチャンスだと思うんだけど、君にとっては違うの?」
彼の口から出たのは、日本語だった。それに、静かに言葉を返す。
「いいんです、ここで、生きようって決めました」
「……それは、彼の存在かな?」
柔らかく微笑まれて、ちょっとだけ迷いながら頷く。〈監視者〉は満足そうに頷くと、顔を上げた。
『じゃあいいや、他に何か3つ、願い事を叶えてあげよう!僕にはあんまり不可能は無いぞー』
…非常に怪しいが、ドヤ顔で腰に手を当てているので、一応信じてあげよう。
「じゃあ、あの…ズルみたいですけど、こっちの言葉がちゃんと分かるようにして欲しいです」
『お安い御用さ!』
本当かなあ、と相手の顔を見上げるが、彼は、何の気なしに右手を振り上げて、――私の胸に突き立てた。
一瞬、意識を失っていた、らしい。
驚いて自分の胸元に視線を向けると、血塗れの穴が服のど真ん中に空いていた。丁度、心臓の真上。
『貴様!』
ヴェルが怒号を上げて、〈監視者〉に飛びかかる。それをひらりと避けた彼は、ははっと笑いながら両手をひらひらと動かした。右手が、血で真っ赤に染まっている。
『いや、君の身体、心臓が止まってないとまともに術式が効かないからさ。ヴェルフリード君、やめてやめて、ちゃんと彼女目を覚ましただろ?』
『…っ』
ヴェルはこちらを見て、しかし更に怒りのボルテージを上げたのか、背中側に差していた短剣も抜いて飛びかかる。
『やっ、やめて!』
手を伸ばして、騎士服の裾を辛うじて掴むと、ヴェルは舌打ちして足を止めた。
数回瞬きして、首をかしげる。…何て言うか、上手く表現できないのだが、前よりも音が聞き取りやすくなった気がする。
『クラウス、何か、難しいこと言ってください』
『…はあ?』
『…私の知らないような言葉で、お願いします』
『あー、…満身創痍』
『なるほど』
まさしく私の状況を表した良い言葉である。そしてどうやらちゃんと、意味がわかる。頭の中に辞書があって、そこに瞬間的にアクセスするような感じだった。
『ありがとうございます、意味はわかるようになりました』
ヴェルもクラウスも、ぽかんとした顔でこちらを見下ろした。
『…あ、あの、言葉の意味が分かるようにしてくれって言いまして…』
『それで、この方法を取るなら、次からは許可できない』
ヴェルはそう呟くと、剣を戻して、私の前に仁王立ちで立った。
『いや、それはほら、彼女の願い次第だから。さ、2つ目は何かな』
〈監視者〉は指を2本立てて、にこにことこちらを見下ろしている。その手が血で真っ赤に染まっているのに若干の恐怖心を覚えながら、おそるおそる問いを投げる。
『貴方のその『目』って、例えばだけど、ビルレストにある本を読むことはできるの?閉じられた本でも』
『一応はね。モノとして有るなら、確認することはできる』
『それを、こっちに転写することはできる?』
『それくらいなら問題ないね』
『ふうん』
すっと目を細めると、相手はビクッと肩を震わせた。その仕草はちょっとリュゼに似ている。
『ええと、本の転写がお望みかな?流石に本屋にある本全てってのはきついんだけど』
『そんな酷いことはお願いしない。私の家の本棚にある、楽譜全て。ここに転写して』
『ああ、それくらいならお安い御――』
〈監視者〉は身体を硬直させて、ちょっと青ざめた。そりゃあそうだ、うちの本棚にある楽譜。数えたことはないが、相当な量である。その中には勿論、母しか弾いたことのない楽譜も、私しか弾いたことのない楽譜も、山ほどあった。
『ついでに、3つ目のお願いも言っとく』
青ざめた〈監視者〉に、にっこりと微笑みを向ける。
『それを、リュゼの身体に負担をかけずにやること。これがお願い』
◇ ◇ ◇
それから部屋に様子を見に来た先生に『何だそれは!』と激怒され、輸血の量を増やされた。まあそりゃ、輸血していたはずの患者の胸元に大量出血の跡があれば、怒りたくもなるというか、呆れかえるというか。
〈監視者〉にお願いした楽譜の量は、相当な量だ。ということは、大量の紙が必要になる。と言うわけで、クラウスに書庫に連行されて行った。クラウスは『ついでに訊くことがある』と言っていたので、しばらくは〈監視者〉もクラウスに捕まったままだろう。
多分、輸血自体は1時間くらいくらいで終わっていたとは思うのだが、疲れとか混乱とかで脳が許容できなくなったのか、輸血の途中で意識を失ってしまった。




