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86.祭礼―前日(7)―終わり?

 ヴェルに抱え上げられて、筒の中から抜け出す。多分ヴェルは術式を使うでもなく、地力のみで蹴って破壊したのだと思うのだが、それなりの厚みのあったガラスはバキバキに砕けていた。何というか、怒らせると宜しくないということだけは理解した。

 床は血の海になっていた。ヴェルが歩くたびに、ぱしゃぱしゃと飛沫が飛ぶ。

『御苦労』

 クラウスがこちらにゆっくり歩いて来て、私の手首にちらりと視線を落とした。

『…直ぐに上に戻れ、治療が必要だろう』

『あの、でも、ここの…空気を侵している、術式も、壊さないと』

『後でいい、今やると魔獣が暴れる。そちらの処理が終わってからな』

 ああ、そうか、魔獣を先にあちらに送り返さないと。こくりと頷くと、クラウスは赤い目を少しだけ細めた。

 ゆっくりとヴェルに地面に降ろされて、大きく息を吐く。止血はしているけど、多分早く処置しないと危ない、と思う。貧血でだいぶ頭がふらふらしていた。先生の所に行けば採血していた血があるから、自己血輸血ができる。

『…君の存在だけが、想定外だったな』

 小さな声は、こちらに向けられたもの。術式の紐で雁字搦めにされた、クラウスによく似た顔の男は、こちらを向いていた。

『君が居なければ、全てが上手くいったのに』

 感情の読めない、静かな表情だった。

『…さあ、どうだろう』

 それは本心から出た言葉だった。結局のところ、私が居なければ居ないで、クラウスならちゃんと対処したんだろう。私が居たことで得られたメリットもあっただろうが、デメリットもあったはず。

『どうして、こんなこと、したの?』

 ずっとそれが気になっていた。その問いに、男は薄い唇の口角をゆっくりと持ち上げた。顔はクラウスそっくりなのに、笑い方は全然違う。薄っぺらくて、感情が読めなくて、冷徹で。

『…恨みが、無かったとは言わない。でもそれ以上に、ただ禁忌に触れてみたかっただけだよ』

『……』

 理解できなくて、言葉が出ない。それはクラウスも同じだったのか、沈黙が流れた。男は目を細めて笑みを深めると、真っ直ぐ私の方を――私の後ろに立つ、ヴェルの方を見た。

『恨みは多分、カスケードの方が強いんじゃ無いかな。ははっ、彼の名前、知らないだろう?エインヘイル・カスケードだよ』

『エインヘイル…?』

 呆然と、ヴェルが呟く。

『彼の実子だよ。気づかなかった?』

『……』

 ヴェルは、口を噤んだまま、何も返さなかった。背後を振り向くのは気が引けて、ちらりとカスケードの方に視線を向ける。拘束されて地面に胡座をかいたカスケードは、ひゅうひゅうと苦しそうな息をしていた。ただ、その目が、憎悪を込めてヴェルの方を見上げていた。

『陛下』

 団長さんが、静かにクラウスに声を掛けた。腰の剣は、鞘しかない。全部折るほど、力を込めていたのだろう。

『事後処理は、我々が。地上にお戻りください』

 団長さんはヴェルの腰から剣を一本抜いて、自分の鞘に納めた。

『お前はスグルを先生の所に連れて行ってやれ』

『…分かった』

 ヴェルは頷くと、私の身体を抱き上げた。団長さんは私の顔を見下ろして頷くと、床で座り込んでいる魔獣に声をかける。

『そこの、魔獣。お前からも話を聞く。逃げるなら首を刎ねる。いいな』

『今更、にげる気は、ない。はなせる、事は、はなす』

 魔獣の灰色の目と、一瞬視線が交錯した。この獣も、ちゃんと、あるべき場所に帰してあげたい。それから、お母さんのことも、話しておかねばと思う。

 きっとこの魔獣にとっても、母は特別な存在だったのだろうから。


◇ ◇ ◇


 クラウスは先に転移で戻って、私と、ヴェルと、ニルさんは、徒歩で地上に向かった。

 そういえば、だが。自分がいた場所というのがいまいち分かっていなかったのだが、あの剣が刺さっていた場所は、王城の地下に当たる部分だったらしい。てっきり聖教会の地下にいるのだとばかり思っていた。逆に、さっきまでいた空間が、聖教会の地下。城から教会まで、ジグザグに走りながら戻っていたということか。

――本当に、心配した。何処にいるのか全く気配が掴めなくてな。手を尽くしたが見つからなかった。リュザフィールの目も、今は使い物にならん。

『あ…ずっと、気になってたんだけど、リュゼは大丈夫…?』

 教会で感知していた時、通信機が破壊される直前に聞こえたのは、リュゼの悲鳴だった。

『『目』に干渉されたらしい。視界が侵食されて、よく見えないそうだ。失明はしていないが、回復には時間がかかる』

『そう…』

 取り敢えずは、命が無事で良かった。でも心配だ、リュゼも意外と無茶をよくするから。

 手首の血は、一応は止まっている。こんな地下では傷口の洗浄も出来ないから、全部は地上に上がってからだ。階段まで距離があるみたいで、ヴェルの腕の中で揺られながら、ぼーっと流れていく壁を眺める。

 色々とまだ分からないことはあるし、片付いていないこともあるけど、何とかケリはついた。きっとこの地の乱れは、徐々に収束していくだろう。そうしたら前みたいに、魔獣の出ない地に戻るはずだ。

 こちらも、あちらも。きっと沢山血が流れた。後はもう、これ以上流れないように、もう少しだけ頑張らないといけない。



 地上に戻って、直ぐに先生の所に運ばれた。傷口を見た先生は凄く怒っていたようだったが、急いで洗浄と消毒をして、止血をしてくれた。血さえ止まれば、少しは治癒ができる。表面の皮膚を術式で繋いで、最後に包帯でぐるぐる巻きにされた。

『お前は、無茶するのが趣味なのか?』

 前にヴェルにも似たようなことを聞かれた気がする。首をぶんぶん振ると、先生は険しい顔で私の額を小突いた。

『…痕が残らんようにはしてやる。なるべくな。あまり無茶するなよ』

『はい…』

『包帯には防水術式をかけておいた。身体についた血を先に流してこい。それが終わったら輸血する。隣の病室が個室だ、そこを使っていい』

 その言葉に、後ろで待機していたヴェルが、私の身体を抱え上げた。歩けるのに、と言おうとしたが、先生に負けないくらい険しい顔をしていたので、開きかけた口を閉じる。

 隣室に連れていかれて、入院着みたいな白い服と一緒に浴室に押し込まれた。過保護が少々爆発しているし、一緒に中に入られたらどうしようかと思っていたのでホッとする。

 身体に張り付く防護服を引っぺがして、洗面台に置いておく。鏡に映った自分が、思っていたより血みどろで引いた。まあヴェルも血みどろだったけど…。

 若干ふらつきながら浴室に足を踏み入れて、蛇口をひねる。ここの洗剤は、私の部屋のものと違うみたい。薬品の匂いがする。こんなに血塗れでは感染症にでもかかりそうだし、しっかり洗って消毒しないといけない。

 温かい湯を身体にかけると、安心感がある。固まった心が解きほぐされていくような、そんな気分。身体をしっかり洗って、髪もしっかり洗って。多分もう、血は着いていない。

 そろりと浴室から身体を出すと、ひんやりとした外気が身体を一瞬で冷やした。タオルを引っ掴んで、慌てて身体を拭く。そういえば今の時間、深夜である。先生、わざわざ出てきてくれたのかもしれない。有り難い限りだ。

 白い服に袖を通して、そっと扉を開ける。そんなに長い時間でも無かったと思うのだが、既にヴェルは身体を清めて、そこに立っていた。

 ベッドに案内されて、中に押し込まれる。横には既に輸血用のケースが用意されていて、チューブが繋がっていた。

『先生を呼んでくる』

 ヴェルはそう言って、部屋から出ていく。多分私がお風呂に入っている間からずっとそこで待っていたニルさんが、ベッドの横にお座りした。

――苦労をかけた。すまない。

「ううん、ニルさんのせいじゃないし」

――しかし…お前を、巻き込んだ。

「殆ど、自分から巻き込まれに行ったようなものだから。気にしないで」

 ニルさんの頭を軽く撫でると、眉間のあたりに皺が寄った。

「ねえ、ニルさんは…もう、帰っちゃうの?」

――いや、まだ帰らない。まだ全て解決していない。この階層の乱れが整うのを見届けてから、だな。

「そっか。ニルさんに会えなくなったら、凄く寂しいから。ちょっとホッとした」

 ニルさんは困ったように笑う。あの魔獣より、ニルさんは笑うのが上手だ。

 コンコン、と部屋がノックされて、先生とヴェルが入ってくる。先生は手際よくチューブと針を繋げて、針を私の腕にゆっくりと刺した。先生は腰を上げると、私の身体に布団をかけ直した。

『今日は隣にいる。輸血が終わったら呼べ』

『ありがとう、ございます』

『仕事だ、気にするな』

 先生はさらりとそう口にして、直ぐに部屋から出て行った。

 ヴェルはそれを見届けると、部屋に置かれた折りたたみ式の椅子を一脚持ってきて、私の隣に置く。それに腰掛けて、いつもみたいに足を組んだ。

『……』

 そして、いつも通り、無言だ。無表情で、血で満たされたチューブを眺めている。通常運転といえば通常運転だが、何となく怖くて目を逸らす。

 天井をぼんやり見ていると、少し眠たくなってきた。不思議なものだ、あんなに眠らされていたのに。ぼーっとしながら天井の染みの数を数えていると、コンコン、と部屋がノックされる音が響いた。どうぞ、と言う前に、クラウスが顔を出す。それを確認して、すっとヴェルは立ち上がった。

『無事か?』

 なんともふわっとした問いかけに、少し笑いそうになってしまった。クラウスは部屋に入ってくると、さっきまでヴェルが座っていた椅子に腰を下ろす。

『礼を言う、お前のおかげで助かった』

 彼はそう言うと、深く頭を下げた。ぽかんとそれを見ていると、クラウスは顔を上げて、息を吐いた。

『立場上、あまり他人に頭を下げられん。今の内に礼を言っておく』

 小さく笑った顔に浮かべられた笑みは、いつもの、どこか人の悪そうな笑みだった。それに笑って『どういたしまして』と返すと、クラウスはちょっと困ったように笑う。

『…いくつか、確認することがある。構わないか』

『はい。私も、話さなくちゃいけないことが――』

 また、コンコン、とノックの音が響く。次から次へと、誰だろう。きょとんとドアに視線を向けると、リュゼが扉の隙間から顔を出した。

『ああ、良かった、ちゃんと無事だったんだね』

 明るい声を出して、室内にふらりと入ってくる。クラウスがいるのに、普通に入ってくるなんて、彼らしくない。驚きを隠せないまま彼の顔を見上げると、何処と無く違和感を感じた。

『いや、一時はどうなることかと思ったけど。君のおかげだ。本当に助かったよ、ありがとう』

 笑った顔も、その優しい翠色の瞳も、いつも通りのようでいて、いつも通りじゃなかった。口調も、いつもと違う。

『お前…、』

 クラウスは、その言葉の先をどのような問いかけにするか迷っているようだった。ヴェルが困惑した表情で、腰の剣を握る。

『ああ、待って、そんな敵意丸出しにされると、僕も困る。ただ、話をしに来ただけなんだから』

 リュゼは胸の前で軽く手を振って、にっこり笑った。

『僕は、〈監視者〉だ。こう言ったら分かるだろう?』

 胸に手を当てて、仰々しく礼を取ってみせる。その言葉に、クラウスと、ニルさんだけが反応した。

――主、様…?

 その呟くような言葉に、リュゼの姿をした何かは、楽しそうに微笑んだ。

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