エピローグ
夢を見た。
目を開けても、目を閉じても、何も無い真っ黒な空間。足を前に踏み出すのが躊躇われて、じっと立ち尽くす。
瞬きをすると、黒い獣が、闇の中に立っていた。犬みたいな輪郭に、灰色の瞳の獣。ぼんやりとそれを見下ろすと、その獣は顔を歪めて笑った。
『笑うの、下手ね』
苦笑して呟くと、獣は少しだけ目を見開いて、拗ねたように顔を背けた。
『ねえ、貴方の名前、聞き忘れてた。何ていうの?』
獣はふらりとこちらに近付いて、その場に座った。手を伸ばせば、届く距離。
『…ガルム』
『へえ、良い名前』
『……』
獣は少し笑った。
彼に、話しておかなければならないことがあった。私もその場に腰を下ろして、獣と視線を合わせる。
『…お母さんのこと、話しておかなくちゃ。3年くらい前にね、事故で死んじゃったの』
『…そう、だった、のか』
悲痛な面持ちで顔を歪めた獣の前脚に手を伸ばす。ごわごわとした毛に指先が触れた。
『お母さんね、凄く、幸せそうだった。私が知る限りでは、だけど。いつもにこにこしてて、お父さんと凄く仲良しで。それから音楽が大好きで、沢山、私に教えてくれた』
記憶に残る彼女は、いつも笑っていた。楽しそうに、幸せそうに。
『ディルネを弾いてたけど、歌もよく歌ってたの。眠れない時にね、よく子守歌を歌ってくれた』
獣は顔を上げると、私の目をじっと見つめた。
『うたって、ほしい』
『え?』
『ききたい、あいつの、うた』
『…私、下手くそだもん』
『いいだろ、別に。私しか、きいていない』
『うーん』
逡巡すると、急かすように獣が私の頬を舐めた。くすぐったい。
『…少しだけだよ』
咳払いして、緊張しながら息を吸い込む。
お母さんみたいに、上手には歌えないけど。一生懸命思い出しながら、小さな声で歌う。
獣は心地好さそうに目を細めて、身体を横たえた。その身体を撫でると、ゆっくりと目を閉じて、暗闇の中で輪郭が曖昧になる。
その内、指先に感じていた毛皮の感触が無くなっていって、自分の輪郭も曖昧になって。
何も無い空間に、歌が静かに響いて、溶けていった。
◇ ◇ ◇
目が覚めたときには、腕に刺さっていた針は既に抜かれていて、輸血は終わっているようだった。
ゆっくりと身体を起こすと、まだ少しふらふらする。だが輸血のおかげか、比較的頭ははっきりしていた。
『起きたのか』
椅子に座っていたヴェルが、こちらを振り返る。ニルさんはその足元で、ぐうぐうと寝息を立てて眠っていた。
『…おきた』
ぐっと伸びをして、息を吐く。室内の空気は凄くひんやりしていて、寝起きのぼんやりとした頭を覚めさせた。
『今、何時…?』
『夜の8時くらい、だな』
『そう…』
かなり長時間眠っていたらしい。出血が多かったから、身体がついて行かなかったのだろう。
『何か、食べ物か、飲み物を用意しようか』
ヴェルの問いに、首を振る。長時間何も口にしていなかったのに、珍しくお腹が空いていない。
『…少し、散歩、したい』
小さく呟くと、ヴェルは僅かに眉根を寄せた。
『寒いぞ』
『少しだけ』
お願いすると、相手は困ったようにため息をつく。
『上着を取ってくる。…少しだけだぞ』
『うん』
こくりと頷くと、ヴェルは苦笑して立ち上がった。
夕日が見たい、と言うと、ヴェルが城壁の上に連れて行ってくれた。立場上、まだ許可なく王城の外に出ることはできないから、これがギリギリのラインだ。
徐々に橙から紺に染まっていく空をぼーっと突っ立って眺めていると、『大丈夫か』と問われた。挙動がぼんやりし過ぎていて心配されたのかもしれない。大丈夫、と返す前に、手を引かれて床に座らされた。すっぽり後ろから抱きしめられて、ちょっぴり思考が止まる。
『…帰らなくて、いいのか』
頭の直ぐ後ろ、耳元で問いかけられて、肩が思わず跳ねる。
『い、いいの』
どもりながら言うと、ヴェルは黙り込んだ。そのまま沈黙が流れて、ただぼんやりと空を2人で眺める。
『終わったね』
『…終わったな、ほぼ全て』
『まだある…?』
『魔獣を返さないとな。それに、徐々に減りはするだろうが、まだ各地に魔獣は出る。捕獲して返さねばならん。それに…罪人を、どうするか。ここは聖帝の判断次第だが』
『ああ、そっか…』
背中に触れる身体が、凄く暖かい。ああ、なんだか大きな仕事が終わった気分だ。どこか晴れやかな気分で赤く染まった聖都の街並みを眺めていると、唐突にヴェルの腕に力が込められた。
『ぐえっ』
思わず潰れたカエルみたいな声が出た。ちょっと恥ずかしくなりながら振り向くと、静かな紺色の瞳がこちらを真っ直ぐ見下ろしていた。
『…墓参り、に、行こうと思う』
掠れ気味の、どことなく緊張した声だった。
『…お前が寝ている間、思い出そうとしていた。あいつの、最期を。墓には一度も行っていなかった。今更だと思うが、それでも、行くべきだと思った。…お前も、来てくれるか』
『……』
あいつ、というのが、彼の父のことだと直ぐに理解した。それに少し安心して、『もちろん』と頷く。ヴェルは憑き物が落ちたみたいに、穏やかに笑った。
『あとは、…まあ、全部が全部終わった訳では無いが、聞こうか』
『…?何を?』
ヴェルは腕の力を抜くと、私の身体をくるりと反転させた。正面から向かい合う形になって、首をかしげる。これでは夕日が見えないでは無いか。
ヴェルは軽く首を傾けて、ほんの少しだけ口角を上げた。
『それで?』
『……』
3度目の正直、である。ぶっちゃけバタバタし過ぎて忘れていたが、そういえばその、返事は全部終わってからね!みたいなことを言っていたのだった。そしてもうこの状況、逃げられない。
こ、こういうの、どう返したらいいんだ、私。『それで?』しか言われていないのに『はい!』だけで伝わらないだろう!?『私も!!』って言うの!?えっでもヴェル私に好きとは言ってなくない!?
多分、真っ赤になって、盛大に目を泳がせているのであろう私の顔を見下ろして、ヴェルが吹き出した。ちょっと、失礼じゃないかそれは!
むっとしていると、ヴェルの手が背中に回って、ぎゅっと抱きしめられた。一度意識してしまったから、もう頭がパンクしそうなほど緊張する。
『…好きだ、愛している。こんな風に、誰かを大切に思ったことはない』
耳元で囁かれて、半ば呆然と、彼の騎士服の黒い布地を凝視する。もう正確に意味が分かるから、意味を取り違えることもない。なんだか夢を見ているみたいで、頭がふわふわして、どくどくと心臓が早鐘のように打つ。
『わっ、わ、わたし、も』
恐る恐るヴェルの背中に手を回して、ぎゅっと騎士服を掴む。
『すっ、すき』
頭に叩き込んでもらった言語知識のお陰で、前より流暢に喋れるようになったのに、前より舌足らずな告白になってしまった。恥ずかしくてぎゅうっと手に力を込める。顔が上げられない、絶対真っ赤だし、情けない顔してる。それなのにヴェルは腕から力を抜いて、こちらの顔を覗き込んできた。
『は、耳まで真っ赤だぞ』
『ううっ!』
意地悪だ!顔を手で覆ってうんうん唸っていると、ヴェルの手が私の手首を掴んだ。ひいっ、力が強い、一瞬でこじ開けられた。
ヴェルの顔が近い、近過ぎて頭に一気に血がのぼる。長い赤銅色のまつ毛も、その奥にある夜空みたいな深い紺色の瞳も、綺麗で、凄く、好き。ああ、丁度今の時間の、空の色のような…黄昏時の色。
頬に手が添えられて、上を向かされて。きょとんとしているうちに、唇に柔らかいものが触れた。そのまま、多分、3秒とかそれくらい。たったそれだけなのに、凄く長く感じて、閉じられた目が近くて、完全に思考と呼吸が止まってしまった。
唇が離れて、ヴェルはこちらを見下ろすと、少しだけ悪戯っぽく笑う。
ごくりと生唾を飲み込んで、まだ呼吸が止まっていたのに気がついて、慌てて息を吸い込む。…いま、キス、された?
『っっっ!』
ヴェルの顔を見るのが恥ずかしくなって、顔を手で覆う。うわああ!や、柔らかかった!違うそうじゃなくて!
一人でテンパっていると、正面から小さく笑う声が聞こえた。
『これくらいでそうなられては、先が思いやられる』
『こっ!?』
これくらい!?これくらいってなんだ!
『ほら、夕日が見たかったんだろう。日が沈む』
またくるっと身体を返されて、背中から軽く抱きしめられた。この体勢ならヴェルの顔は見なくて済むけど、すごく密着してる感じがして、猛烈に体温が上がる。
真正面の地平線へ、ゆっくりと夕日が沈む。闇が反対側の空から迫って、夜が訪れる。美しさに目を細めていると、抱きしめていた腕に力が込められた。
『お前がここで生きるなら、お前が死ぬまで、ずっと側にいてやる』
低く囁かれた言葉に、上手く言葉が出てこなくて、唇を噛んだ。小さく頷くと、ヴェルは耳の後ろに、口付けを落とした。
まるで、夢を見ているみたいで。沈んでいく夕日が涙で霞む。
たった、数ヶ月の旅だった。
長いようで、短いようで。楽しいようで、辛いようで。
色々あったけど、それでも今は、凄く、幸せだった。




