84.祭礼―前日(6)―起点
おかしい。
かなり緊張して、必死に音を立てないように前に進んだ訳だが――誰にも会わなかった。人っ子一人いない。
転移妨害はされているけど、幸い探知・探査妨害はされていなかったから、フェルステルさんは移動中ずっと探査をかけていた。しかしそれにも何も引っかかっていないようで、フェルステルさんも困惑気味に首をかしげていた。
ここだと指示された扉の前で、フェルステルさんと並んで立ち尽くす。
『内部に生体反応は無いな。気味が悪い』
時刻は午後11時半。作動まで30分しか時間はない。
『でも、行くしか…』
『…ああ』
罠かもしれない、というか罠にしか思えないが、ここで扉を開けない選択肢はない。フェルステルさんの手がゆっくりとノブに伸びる。
その部屋は綺麗な円形の部屋だった。部屋いっぱいに流麗に描かれた術式の陣の線と、中心の地面に刺された剣。
『これが、起点、だ』
獣の言葉通り、それは術式の起点。転移妨害と防護防壁は何となく感じ取れるが、後の気配はぐちゃぐちゃでよく分からない。感覚がうまく掴めなくて、マスクを外して注視するが、やはり混ざり合った術式が何なのかは判然としなかった。
恐る恐る中心部まで近付くと、真ん中に刺さった剣が、かなり古びたものだと気がつく。埃をかぶっていて、剣身は錆びてボロボロだった。聖騎士が使う片刃のものとは違う、両刃の一般的な剣。
短剣を出して、自分の指先に当てる。ここの起点はとても分かりやすく、剣を始点に作られていた。多分一滴、剣に血を垂らすだけで事足りる。
『待て』
短剣を握っていた右手の手首を、フェルステルさんが掴んだ。
『…おかしくないか』
彼はじっと剣を見下ろしているようだった。
『おい、魔獣。本当にこれが起点か?』
『ああ、そう、きいて、いる』
『……』
フェルステルさんはしゃがんで、剣をじっと観察する。マスク越しに見えた金の目が、すっと細められた。
『それにしては古過ぎるだろう。…血が付着している。この血は新しい。それに、この剣によって傷つけられて付着したものではないな。上から塗布されたものだ』
『…?』
『お前、血液を採取された跡はあるか』
『え』
『腕を出せ』
慌てて袖をめくる。日常的に採血されていたから、前腕には鬱血した跡が僅かに残っている。ただここ1週間ほど、体調を崩していた間は採血は控えていたから、新しい跡は見ればすぐ分かる。上まで袖を上げると、左腕の肘の付け根あたりに、真新しい針の跡があった。
『注射痕だな。心当たりはあるか』
『…いいえ』
『そうか』
フェルステルさんは呟いて、ゆっくり腰を上げる。
『魔獣、お前も信用されていなかったらしいな。スグル、ここの起点の術式、何だか分かるか』
『…転移妨害は、かろうじて。あとは、防護防壁…でしょうか。ただ他がちょっと…色々な術式が混ざり合っている感じで…』
『お前が、この地下空間で感知した術式は何だ?』
『転移妨害と、防護防壁みたいなものと、…多分、転移と、破壊がごちゃ混ぜのもの…と、あとは、分からないです』
『なるほど』
フェルステルさんは溜息をついて、ガリガリ後頭部を掻いた。
『お前、ここでは死んでも血を流すなよ』
『…はい?』
『追手だ、何とか隙は作る。死ぬ気で逃げろ』
そう呟いて、フェルステルさんは私の手から短剣を引き抜いた。出入り口に対して私を庇うように立って、静かに息を吐く。
その視線の先で、ドアノブがゆっくりと動いた。
『思い通りにならないものですね』
マスクをしていても、誰か分かる。右手に長剣をぶら下げたまま、男は首をかしげた。
『貴女だけなら、上手く行ったんでしょうけど』
小さく溜息をついて、頭を振る。
『捕らえるより殺した方が良かった。やはり聖騎士は面倒です』
フェルステルさんの背中が緊張したのが分かった。
『ここの術式を、破壊させるのが目的か』
その問いに、カスケードは冷静に言葉を返す。
『ええ、…解除に手を焼いていましたから。この術式、何だか解りますか?聖都全域を防護する、防御結界ですよ。これが本当に面倒な代物でして。この結界のせいで、聖都内部では一部の禁術が使えない。彼女の血の特性を利用できたらと血液のみ拝借しましたが、残念ながら効果は無かった。術式の破壊に彼女の意思が必要なのであれば、彼女本人に破壊してもらうのか手っ取り早い。監視役に懐柔させてここまで連れてきてもらう計画だったんですが…予定がだいぶ狂いました』
『…随分とペラペラ喋りやがる』
『まあそれは、流石にもう逃がす気はありませんし。貴方がそんなに庇うのなら、彼女の血液による術式破壊に意思は関係なさそうだ。となると、血が流れてからの経過時間でしょうか?彼女の身体に傷を付ければ、私の勝ちですね』
マスク越しにくつくつと笑う声が聞こえる。彼は剣の腕も立つが、頭が切れる。どちらかというと、そちらの方が恐ろしい。
『…獣が裏切るのも、想定済みか』
『いいえ、想定外でした。非常に優秀な協力者でしたから、彼は。今回の計画の根幹にあるのは、彼の知識です。ただ、我々は何者も信用していなかっただけで』
その言葉に、獣が尾を揺らした。低く唸り声を上げて、毛を逆立てる。
『予定とは少し違いますが、まあ、ここまでちゃんと辿り着いてくれましたし、重畳です』
その言葉に、フェルステルさんは何も返さない。一度深く深呼吸して、不意にこちらを振り向いた。
『悪い、さっきのは忘れろ。壊せ』
『へ…?』
『壊せ!』
フェルステルさんに短剣を押し付けられて、逡巡する。壊しちゃいけないものなんじゃないか、おかしくなってしまったのかとフェルステルさんの顔を見上げるが、こちらを僅かに振り向いた冷静な金色の瞳と一瞬目があった。それで彼が正気で、本気で壊すべきだと判断したのだと悟る。
剣身を左手で握って、唇を噛んで、右手で引く。手のひらが切れて、ぼたぼたと血が溢れた。
びりびりと空気が震えて、術式が崩壊していく。その反動の強さで、自分が壊したものがかなり強力な――今まで見たどんな術式よりも強い術式だったのだと気付かされた。
『よ、よかったんですか』
『どっちにしろ、これだけ不利なら結果は変わらん。どうせ壊れんならさっさと壊しちまった方がいい。ここが壊れりゃ、助けが来るだろう。転移妨害が無いなら俺も持ち堪えられる。あとは殆ど賭けだ』
私の手から短剣を取り上げると、フェルステルさんはカスケードに飛びかかった。短剣と長剣、圧倒的にこちらの方が不利な筈なのに、フェルステルさんは片刃の峰側を左腕に当てて、力で相手を抑える。
『は、貴方、正気ですか…?』
『正気だ。賭けは嫌いだがな』
『…っ!』
フェルステルさんの姿がふっと消える。カスケードの背後に回った彼の剣先を、カスケードの長剣が弾いた。その一瞬で詰め寄った魔獣が、カスケードの胸元に飛びかかる。相手は舌打ちして、大きく後ろに跳んだ。その背中が、壁に当たる。
『…壊れた直後に作動してねえな。その禁術とやら、定刻に作動するように組んでんのか?』
フェルステルさんは呟いて、カスケードの首に向かって短剣を振り抜く。ギリギリのところで避けた彼のマスクの端を、フェルステルさんの短剣が掠めて切った。
『どうした、動揺してんのか』
フェルステルさんは軽く首を傾けて、鼻で笑う。ここに落とされる前の戦闘とは違う、フェルステルさんが圧倒している。
『…これだから、聖騎士は嫌いだ』
低く呟いた声は、今までの様子とは違った。カスケードは剣を持った腕をだらりと下ろして、顎を上げた。
『…優位に立っているつもりですか?禁術の起点の場所も知らないのに?…起動まであと、25分です。それまでに破壊できるとでも思っているんですか?』
ピリッと空気を震わせるのは、転移の気配。
カスケードの姿が眼前から消える。忘れていた、初めて彼と会った時、転移で逃亡していたのを。彼はフェルステルさんと同じように、転移が使える。
背後から、再び転移の気配がする。反射的に前方へ数歩走りながら、背後を振り返る。目の前を剣先が通過して、ぶわりと背筋を汗が伝う。間の悪いところにあった背後の剣に踵が当たって、尻餅をついた。あんなに周りを見ろって言われたのに、これでは次のは避けられない。
マスク越しに一瞬、カスケードと目が合う。薄い茶色の瞳。初めて会った時と同じ、感情の読めない、どこか茫洋とした眼差し。フェルステルさんが転移するよりも、魔獣の爪がこちらに届くよりも速く、カスケードの剣先が、私の首目掛けて横に一閃される。
でもその前。一太刀目の直後から、別の転移の気配を感じていた。
『っ!』
目の前で剣が弾かれて、カスケードの剣が床に転がる。血がぼたぼたと床に散った。
腕が掴まれて、少し乱暴に助け起こされる。黒い騎士服に、見慣れた赤銅色の髪。紺色の瞳が一瞬だけこちらを見て、直ぐにカスケードの方に向いた。
『探した』
そう呟いた声は、少しだけ掠れていた。周囲にも転移術式が複数展開される。
『…は、は、またか…』
カスケードは笑いながら呟いて、ふらつきながら剣を拾い上げた。剣を伝って、血が床に広がる。彼はマスクを外すと、血の混じった唾を床に吐いた。
『これは、勝てる気がしないな…』
左胸から、左腕の付け根にかけての、深い傷。ひゅう、ひゅう、と血液混じりの息をしながら、カスケードは後退りして、背後の壁に背中をつけた。
『まあでも、殆ど目的は果たせた。あとは時間の問題かな』
背中が、黒い壁の中へとずぐりと溶け込む。それに、目の前の赤銅色の頭がピクリと反応した。
転移を使った訳では無いと思う。気配も無かったし、ヴェルは『不向きだから使わない』とも言っていた。だからきっと、単純な強化術式のみで、ヴェルは一瞬で目の前から姿を消した。
ヴェルの背中ばかり見ていたから、何が起きたのか分からなかった。ぼんやりと視線を下げて、彼がいた辺りの石畳が割れているのに気が付く。ゆっくりと視線を上げて、ヴェルがカスケードに長剣を突き立てているのが視界に入って、生唾を飲み込んだ。
『お返し、だな』
壁に縫い付けるように胸に刺した剣を、ヴェルが更に深く刺し込む。
『っ、ぐ』
口から血を吐きながら、カスケードが胸に刺さった剣を掴んだ。心臓の上、ヴェルが刺されたのと、同じ場所。だがカスケードは笑って、足を一歩、壁の中へと埋める。
『…こんなんじゃ、駄目ですよ。あの時みたいに、首を刎ねないと。ねえ、エインヘイル・ヴェルフリード』
『……お前』
ヴェルの表情は、ここからは見えない。カスケードは手に力を込めて、胸に突き立てられた剣をばきりと砕いた。そして、ほんの少しだけ微笑んで、壁の中へと溶けて消えた。
ヴェルは舌打ちして、折れた剣を床に放る。彼の白い手袋は血で真っ赤に染まっていた。
『大丈夫か』
そう、隣から声を掛けられて顔を上げる。少し顔を上げただけでは顔が視界に入らない。団長さんだ。
左手首を持ち上げられて、眉をしかめられる。今の今まで忘れていたが、そういえばざっくり切ったんだった。
周囲を見渡すと、アレクシスさんと、ルーカスさん、クラウスとニルさんも来ていた。リュゼだけいないのが、気がかりだった。
ニルさんは焦ったように私の方へ駆けてきて、小さく唸った。
――何があった。
『…一言では、言い表せないくらい』
苦笑すると、ニルさんは困ったように顔を歪めた。
『団長』
フェルステルさんが、団長さんの肩を掴む。
『色々あって、時間がねえ』
『お前、フェルステルか?何だその頭』
『後で説明する。スグル、マスク出してやれ、足りるだろ』
『はい』
でも、ニルさんの分がない。だがニルさんは、状況がわかっているのか首を軽く振った。
――いや、私は多少耐えられる。急いでいるのか?
『凄く、急いでる。あと20分くらいで、禁術とかいうのが発動するって』
『禁術?』
クラウスが眉間に皺を寄せながらこちらに歩いてくる。
『……ここの術式を壊したのはそれでか。お前、とんでもないことをやらかしてくれたな?』
お、怒っている。怒っているのはわかるが、今はそれどころじゃない。
『ご、ごめんなさい、でも、やらないと、どうしようもなくて』
『解っている、…お前達を発見できずに手をこまねいていたのも事実だ。まずはその禁術とやら、見つけ出して壊す必要があるということだな?』
理解が早くて助かる。こくこくと頷くと、クラウスは静かに息を吐いた。
『感知できるか』
『ここが壊れたので、おそらく。それに、すごく強いので』
今は、気持ち悪い術式だけ感じる。起点が一つになったのなら、感知も出来るはず。
『あ、あと、リーゼさんが…地上に早く出さないと』
あの部屋に残したままの彼女のことが心配だ。そう声を掛けると、フェルステルさんが頷いた。
『そっちは俺がやろう。場所も分かる』
それなら助かる。ほっと息を吐いていると、クラウスが周囲に指示を飛ばし出した。
『ルーカス、お前はここに残って、フライとゲーゼをここに転移させろ。ここの術式の再構築にあたらせる。フェルステルはシュタールベルクを上に運べ。それから、直ぐに騎獣を用意しろ。トレーガー、アレクシス、ヴェルフリード、スグル、俺で禁術の破壊に向かう。スグル、お前が先導しろ。ヴェルフリードと共にグレイプニルに乗れ』
それに頷いて、部屋の隅でじっと動かない魔獣のことを思い出す。
『あの』
『何だ』
『あの獣も、連れて行かせてください。…道中説明しますから』
『……良いだろう』
クラウスは険しい顔をしたが、頷いてくれた。渡したマスクを着用したクラウスに倣って、皆もマスクを着用していく。
『お前は着用しないのか』
『私には、不要です』
『…なるほどな、そうか』
マスクの向こうで、赤い目が細められる。クラウスの右手が私の耳に伸びて、通信機を差し込んだ。彼の背後に、騎獣が数頭転移したのが見える。
『移動を開始する。先導しろ』
『はい』
ニルさんに跨ると、後ろにヴェルも続く。腰に差した剣は、あと2本あった。それはつまりは、…団長さんと同じように、加減をする気が無いということかもしれなかった。




