81.祭礼―前日(3)―地下
『っ!』
唐突に意識が浮上した。頬に当たるのは冷たい石の感触。2度あることは3度ある。あってたまるかと思っていたのだが。正直これきりにしてほしい。
こういう光景は3度目だ。ぼやける視界、冷たいゴツゴツした石の感触、等間隔に並んだ鉄の棒。つくづく牢屋というものに縁がありすぎて嫌になる。
頭はそこまでぼんやりしていない。身体を起こしてじっと待っていると、ぼやけていた視界も徐々にクリアになってくる。
気絶する直前、リーゼさんもフェルステルさんも拘束されていた。多分、私と同様、牢に入れられているだろう。殺す気はまだ無さそうだった。多分、私なんかよりずっと厳重に捕らえられているだろう。床に身体が沈んでいたから、きっと地下にいるはず。
明日になったら全部終わる、という言葉が意味しているものは…一体、何なのか。何をするつもりなのか。ただ、何をしようとしているのかは知らないが、その計画は潰さないといけない。明日にそれが実行されるのならば、今日中に。
もしここが、リュゼが確認できなかった『地下空間』なのだとしたら、我々は安否不明ということになってしまう。通信機が壊された今、連絡手段は無い。
腰のポケットに入れておいた小さめの懐中時計を引っ張り出すと、時計の針は11時頃を指していた。教会へと入り込んでから2時間経っている。教会内を歩き回っていた時間と、練習の時間を考えると、おそらく気を失っていたのは1時間ほど。私のことはあまり警戒していなかったのか、幸い短剣は太腿に巻いたバンドに刺さったままだった。時計も取られていなかったし、逃げられないと思われているのか。舐めやがって。
空間は薄暗く、ひんやりとしている。今回の牢は、牢というよりは檻だ。四方向全て鉄格子、立ち上がると頭が天井に着きそうだ。出入り口はがっちり鎖で固定されて、南京錠がぶら下がっている。特に術式の気配は感じない。
術式で鍵がかけられていたら突破できるが、これでは出られない。それを見越して、こういう閉じ込め方を選んだのだろう。前回はそれで脱出したから。
ふと思いついて、頭からヘアピンを引っこ抜く。それを引き伸ばして一本の針金のようにして、鍵穴に突っ込んでみた。しかしながら、鍵開けというのがどういう理屈で成されているのかもよく知らないし、経験もない。ひとしきりガチャガチャ弄っても、奇跡的に開くなんてことも無かった。
「そう上手くはいかないか…」
はあ、と溜息をつく。ちょっと泣きたくなってきた。
このままここで待つべきだろうか。ヴェルは、できないことはしなくていい、と言った。今私にできることは、本当に、何も無いだろうか。
通信機が破壊される寸前まで、リュゼはちゃんとこちらの状況を把握していたはずだ。ということは、多分直ぐに他の聖騎士がこちらに向かったはず。団長さんも、ヴェルも。それなのに、1時間経過しているというのはどういう事だ。もしかして、この地下空間まで辿り着けていないのでは無いか。術式の起点はあの場所だったが、場所が割れたなら相手もそりゃあ対策するだろう。
それなら、こちらからも行動すべきではないか。多分だけど、一番警戒されていないのが私だ。それに、術式が基本効かないという強みもある。
もう一度鍵穴にピンを突っ込んで、慎重に動かしてみる。かつかつと何かに当たっているような感触は感じ取れるのだが、これをどうしたらいいのか。鍵の構造なんて元々知らないし。
諦めて、鉄格子の出入り口部分を思い切り蹴飛ばしてみる。金属と金属のぶつかり合う激しい音はするが、びくともしなかった。手持ちは短剣だけだし、これで金属を削るのは厳しい。
また溜息をついて、膝を抱える。どうしたらいいのか分からない。リーゼさんとフェルステルさんは、大丈夫だろうか。みんなきっと、心配して必死に探してる。通信機が無事だったら、連絡が取れたのに。
ふと、背後の空間から、何かを引っ掻くような音がした。がり、がり、と響く嫌な音。自分が入っている檻の中には何もいなかったはずだ。じゃあ檻の外に、何かいる…?
恐る恐る背後に視線を向けて、凍りつく。背後には、沢山の檻が置かれていた。
薄暗かったし、目の前のことで手一杯で、周りの状況を全く確認できていなかった。
自分が檻の中にいるということは、逆に言えば、安全ということでもある。こちらから手出しできない代わりに、あちらからも手出しできない。
あちら、というのは。
私と同じように檻の中に閉じ込められた、魔獣。多分、さっき力任せに突破しようと檻を蹴飛ばした時の金属音で目が覚めたんだろう。動いていたら最初に気がつく筈だし、眼前の獣はイライラした様子で床の岩を引っ掻いていた。
檻は複数、奥の暗闇に赤い光がちらほら見えるから、きっとまだ沢山いる。
獣とは反対側の鉄格子に背中をつけて、息を整える。驚きすぎて、未だに心臓がばくばくしていた。思いの外眼前の獣は落ち着いているように見える。こんなに落ち着いている魔獣を見るのは初めてだ。真っ赤な瞳の奥に、理性を見た気がして、慌てて目を閉じる。気のせいだろう、彼らはこちらに来たら理性を失う筈だ。
魔獣は、こちらの空気に耐えるのが難しい。常に毒を吸い続けているのに近い状態にある。そしてそのまま長時間この地に留まれば、自然消滅する。
ここは、正を上階として捉えるならば第4階層、その反対側の負の第10階層よりも上階、中心側に近い階層の生き物は、こちら側に召喚されたら、空気の強さに耐えきれなくて、その時点で形を失うらしい。それ程までに、こちらと反対側の世界は相容れない。つまりこちらに現れる獣というのは、第10階層よりも下の、第11階層から第13階層までの獣のみだ。そうなると、この階層の生き物にとっては、魔獣というのはより高位の存在になる。
だからこちらの生き物は魔獣の血に耐えきれないのだと、ニルさんに教わった。身体が存在を保てなくなる。
魔獣は理性を失うほどの苦痛で、本能的に生き物を襲って喰らい、身体を保とうとしている。だがそれも身体に毒を流し込むのに近い行為だ。どんどん理性を失って、身体も保てなくなって、そして、最期には身体が溶解して、崩壊する。魔獣だって被害者だ。
じっと眼前の魔獣の様子を伺うが、今はもう苛ついていないようだった。あの時もそうだった、アルネイアの噴水の街の地下で、カスケードが召喚した魔獣も。目の前に人間が転がっていたのに、真っ先にこちらを殺そうとしなかった。
『あの、私の言葉、分かったりしない?』
獣がピクリと反応して、こちらを注視した。そんなまさか、言葉が分かるのか。こちらも驚いてその真っ赤な瞳を見返すが、直ぐにすっと逸らされる。どうやら、分かっているわけでは無さそうだ。ただ音に反応しただけ、なのかも。
こっちの檻には何も術式はかかっていないが、魔獣の方は違う。
『その檻に掛かってる術式、解いてあげる』
また、魔獣と視線が交錯する。魔獣は私の言葉が分かっているのか分かっていないのか、大きく欠伸をした。鋭い牙がずらりと並んでいて、本能的な恐怖を感じる。
『それ、解いたら、出られるでしょう?私の檻も、壊せる?』
鉄格子を掴んで、ぐいぐい動かす仕草をする。獣は目を細めてこちらを見つめていた。
『あなたのことは、ちゃんと元の世界に帰してあげるから。その前にちょっとだけ、協力してくれる…?』
多分私の言葉など分かっていないだろうが、獣は大人しく身を伏せた。
ここから手を伸ばせば、あっちの鉄格子にギリギリ指は届くと思う。ということは、指先を切らないといけない。
どんなに小さな傷でも、多分演奏に響く。少しだけ迷って、それでも覚悟を決めて、中指の先を切った。鉄格子の隙間から腕を出して、噛まれませんようにと祈りながら、魔獣の入っている檻に手を伸ばす。じわりと血の滲んだ指先が、僅かに鉄格子を掠めた。ピリッと、術式が崩れる感覚。同時に、獣が目を見開いた。
激しい音を立てて、獣が檻に体当たりし始める。慌てて手を引っ込めて、獣とは反対側の鉄格子に退避する。
直ぐに鉄格子が歪んで、外れた金属の棒が石の床にがらんと音を立てて転がった。
檻から出てきた獣は、口の端から涎を垂らして、低い唸り声をあげていた。苛立ちのこもった目に恐怖する。
獣は鋭い赤い目をこちらに向けて、鉄格子に牙を突き立てた。言葉は分かっていないと思うのだが、やって欲しいことは伝わっていたらしい。獣によって鉄格子が一本外れて、なんとか身体が通りそうな隙間ができた。
『あ、ありがとう、助かった』
若干怯えながら外に出ると、魔獣は静かにそこに座った。襲う気は無さそうに見える。
檻から出てみると、獣は思ったよりは小さかった。ただ私が3人くらい並んで乗れそうな程大きい体躯に、私など一飲みできそうな程大きな口。姿は狼に似ているような気がする。真っ黒な毛並みに、真っ赤な瞳。魔獣は皆、こういう姿をしている。
獣の背後にはまだ檻に囚われた魔獣が何頭もいる。それを逃がしてしまうべきなのか、そのままにしておくべきなのか、迷う。
彼らを逃がして混乱を起こすべきか、自分だけで動いて形ばかりの隠密行動を取るべきか。戦闘訓練では隠密行動のやり方なんて教わらなかったし、音もなく動き回るなんて多分できない。魔獣を大量に放ったら、もしヴェル達が地下に到達していた場合、そちらも混乱させてしまう。しかしそれくらいやらないと、相手を撹乱するのは難しいかもしれない。
…頭が痛くなってきた。突っ立ったままじっと動かずに考え込んでいると、背後で、ぎいっと扉が開く音がする。
『あれ…?っ、何で出て…!』
男の人の声。まずい、今カスケード達を呼ばれたら、今度こそ逃げる手段が何も無い所に押し込まれる。
慌てて振り向こうとしたのとほぼ同時に、横で大人しく座っていた獣が姿を消した。ぶわりと風圧で足元がぐらつく。
がつんっ
背後で、硬いものがぶつかり合う重い音が響く。よろけながら振り向くと、獣が声の主の背中を地面に押さえつけていた。一瞬だった、何が起きたのか全く分からない。
魔獣とは、こんなに速く動けるのか。今まで見てきたのは、もっと動きが鈍かった。獣の脚で押さえつけられた人物は、完全に無反応だ。意識を失っているのかもしれない。
恐る恐る近付いて、その人物を見下ろしてみる。砕けた石床が、獣に押さえつけられた時の衝撃を物語っていた。薄暗いので分かりにくいが、着ている長衣は聖教会のものだと思う。それから、
『…なにこれ』
顔を覆う、ガスマスクのようなものをしている。よくよく見てみると、男は肌が一切見えないような服を着ていた。身体全体から知らない術式の気配がする。
『…?』
もしや、空間に毒でも散布しているのだろうか。息苦しさは感じないのだが…。そっとその人物の頭から、ガスマスクを外してみる。
『うっ』
途端に苦しげな呼吸をし出して、慌てて元の位置に戻す。…私には影響の無い毒か…?となると、術式で作られた毒なのだろうか。よく分からない。
首を傾げていると、こちらをじっと見下ろしていた獣が、男を踏みつけていた脚を退けた。もう安全だと判断したのかもしれない。
壁にロープが掛けられていたのでそれを拝借して、男の身体をぐるぐる巻いて動きを封じる。足と腕も縛っておいた。
両開きの大きな扉を少しだけ開けて、外の様子をそっと伺う。室内と同様の石壁と石畳が、壁に取り付けられた照明で薄ぼんやりと確認できた。右の道も左の道もすぐ近くに曲がり角があって、どこまで続いているのかはわからない。
取り敢えず自分のやるべき事を整理する。まずは、恐らく自分と同様に捕らえられたフェルステルさんとリーゼさんを見つけないといけない。ヴェル達に合流できるのが理想だが、彼らがここにいるのか分からない以上、理想は理想でしか無い。フェルステルさんは多分転移を封じられているだろうが、私がそれを解けば、彼なら皆と合流できるかもしれない。そしたら何があったか話せるし、助けも呼べる。
ただしかし、毒の霧でも撒かれているなら、動きが取りづらくなるはず。それなら、マスクがあった方がいい。
眼前の気を失っている男は、どういう人物なのか。ここにいる以上、叛徒であることに変わりはない、はずだ。ということは、いずれにせよ聖帝によって処断される。
命を、天秤にかける行為だ。そう分かっていながら、男のマスクに手をかける。震える手を歯を食いしばって抑え込んで、男からマスクを引き剥がした。




