80.祭礼―前日(2)―潜入
クラウスに手を引かれて馬車から降りると、眼前には大きな教会が聳え立っていた。外国の大聖堂のような、美しい白い建物。きっちりと積み上げられた石壁が、陽光を僅かに反射して輝く。壁に取り付けられた大きなガラスの窓は、ステンドグラスになっていた。内部から見れば、さぞかし美しいのだろう。
地図によれば、聖教会はまるで城壁のような堅牢な壁に囲まれている。それを思い出して周囲を見渡してみると、高い壁がすぐ視界に入った。壁に阻まれて街並みは見えず、それにどこか閉鎖的な印象を受ける。
真後ろの離れた位置に門扉が見える。その黒い格子が不気味に見えるのは、これから先待ち受けていることに対する危惧の念のせいだろうか。
『お待ちしておりました、陛下』
背後からかけられた声に振り向くと、黒い髪の男性が深く頭を下げていた。長い紺色の長衣を着ている。
『斯様な処にまで足を運んで頂き、恐悦至極に存じます。陛下におかれましては、益々ご健勝のことと――』
彼の声は僅かに震えていた。難しい言葉が口からつらつらと出てくるので、意味がよく分からず、ぼんやりと聞き流す。
『口上はいい』
クラウスはそう言うと、私の背中を軽く押して前に出した。
『宮廷楽士を連れてきた。世話を頼む』
『はっ』
静かに顔を上げた男性は、思いの外若い顔立ちをしていた。柔らかい薄い金の目が印象的な、穏やかそうな人。
『それでは、ご案内いたします』
再び深く深く頭を下げて、男の人は先導して歩き出した。クラウスにまた軽く背を押されて、男の人に続く。戸惑っているうちに眼前の大聖堂の正面の大きな両開きの扉が開かれ、教会内部が露わになった。
地図では確認していたが、これ程広いとは思わなかった。広い空間には誰も居なくて、しんと静まり返っている。
どこか静謐な雰囲気の、美しい聖堂だった。
壁は真っ白で、大理石みたいな艶がある。広い空間には黒いベンチがずらりと並んでいた。高い高い天井へと向かって伸びている柱には、華美な装飾が施されている。天井近くの高い位置にはステンドグラスが嵌め込まれており、日光が様々な色になって差し込んでいて美しかった。上の方にも通路が見える。どうやら上階もあるらしい。
奥の方には階段が続いていて、少し高い位置に祭壇のようなものが設置されていた。その両側には橙色の照明が置かれている。薄ぼんやりとした暖かい色の光が、真っ白な祭壇に色を灯しているように見えた。そしてその奥に、ディルネが置かれている。あそこで演奏するのだろう。
聖堂の真ん中、扉から真っ直ぐ敷かれた臙脂色のカーペットの上を、男の人に従って進む。ふかふかと毛足の長いカーペットは靴先に纏わりついて、転びそうで少し怖い。横と背後を聖騎士にがっちり警護されているので、転んでもきっと助けてくれるだろうけど。
『こちらにどうぞ』
緊張した表情の男の人が、ディルネの前の椅子を引いてくれる。その椅子に座る前に、ふと後ろを振り向いてみると、祭壇側からの聖堂内の景色が見えた。ごくりと息を呑む。ずらりと並んだ椅子は当たり前だけど全部こっちを向いているし、上階にも沢山席が用意されているのがここからだと確認できた。その中でも一番高い所に一席だけ用意されている豪華な椅子は、きっとクラウスの席なのだろう。
人が座っているのを想像すると、今から少し緊張してしまう。ゆっくりと座ると、その横にクラウスが立った。ちらりと目配せされたのに頷きを返して、鍵盤に指を乗せる。鍵盤を軽く叩くと、広い空間に音が響いて壁へと染み込んで行くようだった。部屋で弾くのと全然違う。船のホールとも、夜会の会場ともどこか違う、とても澄んだ音色だ。
『弾いてみろ』
音に静かに耳をすませていると、クラウスにそう声をかけられた。弱い力で鍵盤に指を滑らせると、微かに鍵盤が沈む。ゆっくりと目を開けて、最初の一音を優しく叩いた。
◇ ◇ ◇
部屋で弾いている時より、ずっと気持ちが良かった。聖堂中に音が響いて、まるで鐘の音が鳴り響いているようで――曲にも、曲名にもよく合っていた。
鍵盤から指を下ろして視線を上げると、クラウスと目が合った。小さく頷くと、クラウスも小さく頷きを返す。ディルネの向こう側で立っていた聖衣の男性に、彼は目配せして、予め決めていたのだろう台詞を口にした。
『曲の礼に、教会内でも見せてやれ。異国の娘だ、こちらの文化には疎い。この場所ほど、文化的かつ美術的価値がある場所は他にはあるまい』
『はっ、承知いたしました』
クラウスがいると話が早い。こちらを見下ろした彼に頷いて、ゆっくりと立ち上がる。ここから先は私の仕事だ。なるべく不審がられないように、そして見落としがないように。深呼吸を一度して、心を落ち着ける。
『俺は先に戻る。フェルステル、シュタールベルクはここに残れ』
『はっ』
『ではな』
軽く後ろ手を振って聖堂を戻っていくクラウスに礼を取って見送る。扉の開閉音がして、彼の姿が完全に見えなくなったのを確認してから、聖衣の男性に軽く頭を下げる。
『よろしくお願いします』
『ええ』
どこか緊張が抜けた表情の彼は微笑して、壇上から先行して降りた。彼に続いて、聖堂から続く廊下への扉の前に立つ。その扉の両脇に、フェルステルさんとリーゼさんが立った。彼らはここで待機する。ちらりとリーゼさんを見ると、凄く心配そうにしていて、逆に私の方が緊張が抜けた。笑って見せると、リーゼさんも困ったように笑みを返してくれる。
扉が開かれて、目の前の紺色の長衣がその向こうへと進む。それに付き従って、私も廊下へと足を踏み出した。
廊下の壁は聖堂と同様で白く、所々に臙脂色の幕が垂らされている。王城は紺色のものが多かったが、ここは臙脂色のものが多い。窓は全てステンドグラスになっていて、繊細な絵がずっと並んでいた。
『この廊下の窓は、建国史を綴っているんです。美しいでしょう』
『…ええ』
建国史、つまりは管理者がこの国を作るまでの物語。なるほど美しい、陽光が丁度差し込む時間帯なのか、真っ白な床に綺麗に映り込んでいた。だが、そんなことが頭に入らないくらい、廊下は異様な空気に包まれていた。
私はここに、術式の気配を探しに来た。リュゼの目で見ても、ここの異常はよく見えなかったと。
しかし、廊下全体から、よく分からない術式の気配がしていた。強烈で濃厚な、術式の気配。
(スグル、大丈夫?)
半ば呆然とその場に立ち尽くしていると、左耳から小さな声が聞こえて来た。リュゼの声に、少しだけ安心する。左耳に手を伸ばして、イヤリングのガラス部分を軽く一度だけ叩いて、術式の気配を感知したことを伝える。前を歩く男が不思議そうにこちらを振り向いたので、慌てて彼の近くまで移動した。
『すみません、あまりにも綺麗で』
笑って誤魔化すと、彼は『そうでしょう』と自慢げに微笑んだ。
『あの、お名前を伺ってもよろしいですか?』
教会内はかなり広い、名前もわからないままなのは少しやりづらい。問いかけて見ると、相手は慌てたように恐縮した。
『ああっ、すみません、名前も名乗らず…』
彼はぺこぺこと頭を下げて、『エクスナーです』と名乗った。こちらも名乗ると、『珍しいお名前ですね』といつも返ってくる返事が返ってきて、それに少し苦笑した。
『もう少し進みましたら、この建物で最大のステンドグラスがあります。ちょうど今の時間、光が差し込んでとても美しいですよ』
『楽しみです』
再び歩き出した彼の後ろに続き、ゆっくりと周囲を見渡す。周囲は酷い術式の気配で満たされているが、起点はここではない。それに、この気配、どこかで…かつて、カスケードと共にいたフードの男が使っていた術式の気配に似ているような…。
(スグル、突き当たりの扉が聖典室だ。できれば中に入って欲しいんだけど)
地図によると、聖堂をコの字で囲うように、廊下は続いている。こちら側の通路には部屋はなく、ただ聖堂へと入るための扉が一定間隔で並んでいるだけだ。リュゼの言葉に従って視線を前方に戻すと、微かに見える正面、廊下の突き当たりに、豪華な扉があった。それを確認して、眼前の男に声をかける。
『陛下に、聖典室というものがあると伺ったのですが。拝見させていただくことはできますか?』
『聖典室、ですか?』
ちょっと険しい顔になったエクスナーさんに、にっこりと笑みを向ける。
『美しい絵があるのだとか。是非一度見てみたいと思っていたのです。芸術的価値のあるものは、それこそ神懸かり的な力を持っておりますし、天啓を受けるように、作曲や音作りのいい着想を得られるのではと』
殆ど自分でも何を言っているのかわからないが、半ば強制的に叩き込まれた言葉を勢い任せに吐き出していく。詐欺師にでもなった気分であるが、背に腹はかえられない。エクスナーさんは勢いに押されたようにちょっと引き気味に『はあ…』と頷いた。多分この人、押しに弱い。特に御利益もない怪しげな壺とか買わされそうだ。
『少しだけですよ、秘密でお願いします』
『ありがとうございます』
自分でも気持ち悪くなるくらい、可憐さを装って微笑んで見せる。こう、小首を傾げるのです、とリーゼさんに教えていただいた。エクスナーさんはほんのり頬を染めて頭を下げて、少し先の扉を開く。耳元でリュゼが『完璧だよ!』と賛辞を送ってくれたので、ちょっと開き直れた。
聖典室、というのは、その名の通り『聖典を保管する部屋』だ。聖典に記されている内容までは知らないが、貴重なものではあるらしい。扉には、強力な術式除けが施された厳重な鍵がかかっていた。
この国で最も宗教的に勢力のある『聖教』というものは、意外なことに神道に似ていた。自然信仰の多神教。第1階層の存在を強く感じるからこそ、生まれた宗教なのかもしれない。
室内からは変わらず術式の気配がする。こちらから詳しい状況をリュゼに伝えることができないのがもどかしい。だがここにも起点の気配は無い。きょろきょろと周囲を見渡すと、例の『美しい絵』が壁に掛けられていた。一応これを目当てとして内部へと入ったので、ちゃんと見ておかなくては。
『美しいですね』
油絵だと思う。宗教画と言うのだろうか…人々を導く1人の男性の姿が描かれていた。赤い衣の男性は、手に杖のような木の棒を持っている。赤い目に、金の髪。あまりこういった絵画には明るくないが、綺麗な絵だとは思う。
『ええ。…ここは、高位の神官しか入れないんです。私には本来ここに入る権限も無くて。あまり長く居ると誰か入ってきてしまうかもしれないので…』
早く出たいらしい。こくり、と頷いて廊下へと戻る。そう言えば祭礼前日だというのに、人がかなり少ない。
『…人があまりいないんですか』
疑問を素直に投げかけると、エクスナーさんは困ったように俯いた。何か、まずいことを聞いただろうか。
『ええ、10年前、かなり人が減りましたから。…教会本体が残されたのは、陛下の温情の賜物です。あの時取り潰されていてもおかしくなかった』
10年前…相当数の信者が、叛徒となってクーデターに参加していたのだろう。だから人が少ない。本当は、祭礼を開くのもやっとなのかもしれない。…きっとこの先長い間、聖帝側とは遺恨が残り続けたままになるのだろう。
『すみません』
嫌なことを訊いてしまった。申し訳なくて、謝罪する。彼ももしかしたら、知人を失ったのかもしれない。エクスナーさんは苦笑して顔を上げると、『次に行きましょうか』と再び先導して歩き出した。
書庫、食堂、それから宝物室まで。信徒の居住区と教会が一体になっているため、部屋数は多いが、流石に個人の部屋には足を踏み入れるわけにはいかない。かなり集中して、入れない部屋も気配を探った。
だがしかし、様々な部屋へ様々な理由をつけて入っても、何もない。ただ前に進むのが困難に感じるほど、常に酷い術式の気配がしていた。確実に、この教会はおかしい。おかしいということはわかるのに、その根っこの部分が判然としない。
あまりに強烈な術式の気配で、気持ちが悪くなってくる。ふらついて、壁に手をついてしまった。冷や汗が背中を伝う。
『大丈夫ですか!?』
驚いたように、エクスナーさんが顔を覗き込んできた。
『顔、真っ青ですよ!…そうだ、近くに休憩室があるんです。そこで少し休んでください』
『すみません、…お言葉に甘えて』
耳元でリュゼが『大丈夫?』としきりに訊いてくるのに小さく頷いて、エクスナーさんに支えられて壁に並ぶ扉の1つに入る。
だが室内に入った瞬間に、違和感で吐き気が込み上げてきた。ここだ、ここが起点だ。よく分からない術式と、隠蔽術式、それから、個体判別術式…複数の術式気配。震える指で耳に指を伸ばして、耳飾りを叩こうとして――大きな手に手首を背後から掴まれて、それを阻まれた。
『やっぱり、分かるんですね』
エクスナーさんはそう言って、にっこりと、薄っぺらい笑みを顔面に張り付けた。見覚えのある、笑い方。
(うあっ!)
耳元でリュゼの叫び声がした。右の鼓膜の直ぐそばで、びしっとガラスにヒビが入る音がした。
『っ!』
慌てて手を振りほどいて距離を取る。狭い室内だ、直ぐに背中が壁に当たる。ソファがふたつと、ローテーブルがあるだけの、薄暗い部屋。右耳から、砕けたガラスが床に落ちた。テーブルを挟んで向かい合って、相手を伺う。
眼前の男はくすくすと笑っていた。その顔は、よく見知ったもの。ずる、ずる、と髪の色が抜けていって、元の薄い茶色の髪に戻る。
『カスケード…』
カスケードは薄い金の目を細めて、こちらを見下ろした。
『意外と気がつかないものですね。周りの術式の気配に気を取られましたか?それとも、この程度の弱い術式は感知できないんですか?興味深いですね』
聖衣の下から長剣を抜いて、楽しそうに嗤う。
『こちらの計画も大詰めなので。それ、通信機でしょう。邪魔されると困るんですがね』
薄く笑った男は、そのまま足を踏み出して、剣を振り抜いた。あんなに訓練したはずなのに、足がすくんで動けない。
だが、剣先がこちらに届く前に、ピリッと空気を震わす転移の気配がした。眼前に現れた白い背中が、カスケードの剣を鋭く弾く。膝から力が抜けて、尻餅をついてしまった。
『訓練したんだろう、しっかりしろ!』
はっとして、壁に手をついて立ち上がる。フェルステルさんは真っ直ぐ前を見据えたまま、剣先をカスケードに突き付けていた。
『あれ、元気そうですね。それも彼女のお陰ですか?』
『……』
フェルステルさんはそれには答えず、真横に剣を一閃した。それを軽くいなしたカスケードが、こちらに一歩踏み込んだのと同時に、目の前の背中が転移で消える。
『っ!』
フェルステルさんは一瞬でカスケードの背後に回っていた。カスケードははっとした表情で背後を振り向き、フェルステルさんの剣を防ぐ。ぎりぎりと体格の高いフェルステルさんが、そのまま上から体重をかけてカスケードを圧しだした。
『スグル!』
扉が開いて、リーゼさんが飛び込んできた。背後に直ぐに庇われて、ぎゅっと腕が回ってくる。カスケードは既に抜剣しているリーゼさんにちらりと視線を向けて、僅かに眉間に皺を寄せた。
『次から次へと。本当に、貴方達は面倒ですね』
不意にカスケードがフェルステルさんの方へと足を踏み出した。がきん、と音がして剣が離れる。僅かによろけながら、フェルステルさんが舌打ちして後退した。カスケードから、強化の術式の気配がする。この男にも、使えたのか。
『明日にしようと思っていたんですが。まあ、1日くらい早めてもいいでしょう。そう思いませんか?』
問いかけは、我々に向けられたものではなかった。
どくりと壁が脈打つ。ずっと感じていた気配が濃厚になるような感覚に、ぞわりと鳥肌がたった。
『それは困る』
壁も床も、どす黒い色に染まる。クラウスによく似た声、だがクラウスよりもずっと冷たくて、深い闇を湛えていて、嫌な感じがする声。
『明日だからこそ意味があるというものだ。そうだろう?』
真っ黒な壁が歪んで、そこからぬるりと黒い足が出てきた。身体が、腕が、頭が壁を歪ませながら出てくる。真っ黒なフードを被った男は、微かに笑っていた。
『どうせ明日になれば全て終わる。どうせ死ぬなら『それ』で死にたいだろう』
男は笑みを深くする。ほぼ同時に、室内の術式の気配が圧迫感を増した。
『っ!?』
床からずるりと黒い蔦のようなものが一瞬で生えてきて、身体に絡みついてきた。手足の動きを封じられて、がくりと膝をつく。肘も膝も床に縫い付けられて、どんなに引っ張っても外れない。離れたところで、フェルステルさんの身体にも蔦が巻き付いたのが見えた。同時に、座標を限定した強力な術式妨害の気配。あれでは転移ができない。目の前でリーゼさんの背中にも蔦が巻きついて、ずるずると床に引きずり込まれていく。
『スグルっ、逃げてください…!』
私と同じで殆ど身動き出来ないはずなのに、その手が伸びて、私の左腕に巻き付いていた蔦を握りしめる。触れた先から凍結して、ぼろぼろと砕けた。
『駄目ですよ、そういうのは』
『がっ』
カスケードの脚が、リーゼさんの手首をぎりぎりと踏みつける。
『ほら、早く堕としてしまいましょう』
『…っ!』
自由になった左腕で、カスケードの足首を掴む。
『おや、案外動けますね。やはり貴方には、こういう特殊転移も通じませんか』
そのまましゃがみこんだカスケードが、私の顔を覗き込んだ。薄い金の瞳が、すっと細められる。
『仕方ありません、貴方は別で運びましょう。『目』は妨害しましたが、急がないと面倒なのが来てしまいますし』
鋭く伸びた腕が、喉を掴む。気道が塞がれて息が出来ない。それと同時に、多分、血管も塞がれている。唯一自由になる左手で相手の手の甲を必死に引っ掻くが、手は外れなかった。
『ほら、もう少し』
耳元で低い声が囁く。視界が徐々にぼやけて、色が無くなって、端から真っ黒に染まっていった。




