77.熱(2)
『昨日の演奏だがな、素晴らしかった。良くやった、俺も鼻が高い』
『…ありがとうございます』
夕方頃になって、クラウスがルーカスさんを連れ立ってふらりと部屋を訪れた。機嫌が良さそうな様子のクラウスは私を褒めると、ニヤリと笑う。
『ドレスもそれなりに似合っていたぞ』
『うっ…』
『次はもう少し胸元が開いててもいいんじゃないか?』
『勘弁してください…』
本当にこの男、性格が悪い。
正直まだ気持ちの整理がついていなくて、あんまり頭が働いていなかった。衝撃から立ち直れていない。リュゼはいつからそういう風に思っていたんだろうかとか、なんでそう思うようになったんだろうとか。ぐるぐる、同じことを考えてしまって、悲しそうに、でも穏やかに笑ったリュゼの顔が脳裏に焼き付いて離れない。
『どうした、いつもより反応が鈍いな』
クラウスはつまらなそうにそう言うと、軽く片眉を上げた。
『熱は高いのか?』
指先が額の真ん中に触れる。
『お薬出してもらったので、そこまでは高くないはずです…』
おでこを押さえられたまま答えると、クラウスは少し険しい顔になった。
『体温がだいぶ高くないか。それとも元が高いのか?』
『どうなんでしょう…』
平熱は36度と少しで、特に高いわけでも低いわけでもないと思う。ただ、こちらの人基準で考えるとどうなのか、と言う点は不明だ。リーゼさんはだいぶ体温が低い感じがするし、ヴェルはちょっと温かいような気がする。血の特性でも個人差がありそうだ。
だがしかし、体温は少しずつ上がっているような。考え込んでいるせいで、知恵熱みたいなものも出始めているのかもしれない。目の奥の方が熱を持っていて、目が潤む。首をかしげて考えていると、クラウスは私の額から手を離して、腕を組んだ。
『祭礼まで時間もない。身体はちゃんと休ませて、早く治せよ』
『はい、すみません…』
『謝るな、体調を崩すことくらいあるだろう』
うちの上司もそれくらい優しければなあ。ちょっと風邪引いた時なんか、叱られたっけ。それもあったせいか、仕事している間は気が張り詰めていて、逆にあんまり体調は崩さなかった。
『…何か欲しいものはあるか?』
『…はい?』
『冷たい飲み物でも送らせようか』
『…クラウスが優しいと、気持ち悪いですね』
いつもなら多分口にしない軽口だが、頭がうまく働いていないせいか、ぽろっと口にしてしまった。クラウスはむすっとした顔になって、私の額に強烈なデコピンを入れる。
「あいたっ!」
額を押さえてうずくまると、ふんっと頭上から鼻で笑うような音がした。
『んうううう…』
思わず涙目になる。今の結構痛かったぞ。クラウスは『好意は有難く受け取れ、愚か者が』と言って、私の頭をがしがし掻き回した。
『ありがとう、ございます、いただきます』
ぐわんぐわん揺れる頭でお礼を言う。絶対おでこ赤くなった。
『後で送らせよう。水分は多く摂った方が良い』
クラウスは小さく笑うと、椅子から立ち上がった。
『今日はこの辺で勘弁してやる。明日また様子を見に来てやろう』
『うつしてしまうので、来ない方が…』
『お前のそれは、免疫力が落ちたせいだろう。俺にはうつらん。もし明日悪化していたら、何か罰でも与えるか』
こ、これはちゃんと治さねば!!慌ててこくこく頷くと、クラウスは私の頭を軽く撫でて、来た時と同じようにふらっと出て行った。
『…お大事に』
困ったように笑ったルーカスさんが、最後に小声でこちらに声をかけていく。それに笑みを返して、小さく手を振ると、彼も手を振り返してくれた。うむ、ちょっとずつ仲良くなっている気がして何となく嬉しい。
◇ ◇ ◇
夜になって、身体がもっと重くなってきた。体温が上がって、身体を起こすのが酷く億劫に感じる。リーゼさんが折角身体を拭いてくれたのに、直ぐに汗をかいてしまった。
ひんやりとした濡れたタオルが額に載せられて、目を開ける。心配そうに覗き込んだ薄い水色の瞳を見返すと、困ったような微笑が返ってきた。
『熱が上がってきています。先生をお呼びしましょうか』
『いいえ、だいじょうぶ、です』
たかだか風邪くらいで、忙しい先生を呼ぶ訳にはいかない。
『食事は摂れますか?難しそうなら、果実にしましょうか。何か召し上がっていただかないと、お薬が飲めませんから』
果物なら、食べられるかも。こくりと頷くと、リーゼさんも小さく頷きを返した。
『かしこまりました、用意しますね』
彼女の姿が天蓋の向こうへと消える。遠くの方で、ごそごそと話し声が微かに聞こえた。頭がぼーっとして、会話はよく聞き取れない。
ここまでしんどいのは久々だ。何年かぶりに風邪をこじらせている。熱によってじわじわと溢れてきた涙が、目の端を伝って枕にこぼれた。
『スグル』
少し経って、低い声と共に天蓋が捲られる。ヴェルは私の顔を見下ろして、少し複雑そうに顔を歪めた。
『…起きられそうか』
『…ん』
ゆっくり身体を起こして、ヘッドボードに身体を預ける。関節がズキズキと痛んで、唸り声が喉から漏れた。ヴェルは天蓋の中に椅子を入れて座ると、膝の上に果物の乗せられた皿を置いた。見た感じは、小さく切られた林檎のような感じ。ヴェルの手が無造作にフォークを取って、果物にざっくりと刺した。
『ほら』
口元にずいっと突き出される。困惑して固まると、ヴェルは眉間に皺を寄せた。
『口を開けろ』
唇に果実が触れる。思ったより柔らかい感触だった。口をそろりと開けると、口内に小さな塊が入ってくる。
『美味しい』
冷たくて、甘い。よく熟したキウイみたいな味がした。ごくんと嚥下すると、直ぐに2切れ目が差し出される。
『…自分で、食べられるよ』
『力が入らないんだろう。いいから、食え』
前にもこんな事があった。あの時も体調を崩して、怪我もして。多分あれは風邪ではなかったけど。
『…一緒だね』
『何が』
『前、体調崩した時…』
『ああ…』
ヴェルは鋭い目を細めて、小さく頷く。
なんだか少し、懐かしい。…それから思い返してみると、怪我ばかりしている。
『…お前は、身体が弱いのか』
2切れ目を口に入れたところで、そう問いかけられた。ヴェルは視線を落として、3切れ目にフォークを刺す。
『弱くは、無いんだけど…』
『…強そうにも、見えないな』
『……』
『…口を開けろ』
差し出された果物をまた口に入れる。
『聖都の冬は、長く厳しい。雪も多く降る。お前が生まれ育った場所は温暖だったのだろう?身体がついていっていないのではないか』
『うん…』
『寒いなら、横で寝てやる』
『…う、ん』
自分から言うのと、言われるのとではこうも違うものか。風邪の熱とは別に、顔に熱が集まるのを感じる。
果物の量は少なくて、直ぐに食べ終わってしまう。最後の一切れを飲み込むと、ヴェルはお皿を持って立ち上がった。
『薬を用意しよう。今日は私が添い寝する』
『えっ!?リ、リーゼさんは…!?』
『あいつが居たら冷えるぞ。…まあ、今日はもう直ぐ自室に戻ると言っていたが』
えっ、えっ、そんな!ふ、2人きりですか!…朝の、『こちらからも攻めないと』と笑ったリーゼさんの顔が脳裏をよぎる。まさかとは思うが、こういうことか!?
『私も着替えてくる。騎士服ではお前も寝辛いだろう』
どんどん話が進んで頭がついていかない。ぽかんと無表情のヴェルの顔を見上げて数秒固まって、いやいや待てと慌てて思考を巡らせる。
『う、うつしちゃうから、だめ!』
『うつらない』
『あ、汗だってかいてるし』
『さっき拭いてもらったんだろう、それに別に気にならない』
『私が気にするの!』
『今更だろう』
『ぐっ!』
ヴェルはやると決めたらやる男である。どんなに断ってもいつも押し切られる。そう、今まで断る事ができた試しがない!
頭を抱えていると、ヴェルが天蓋の向こうへ消えて、代わりに薬と水の入ったグラスを持ったリーゼさんが顔を出した。ニヤリと笑った顔は、とても楽しそうで、とても悪そうで、軽く絶望した。
◇ ◇ ◇
ラフなシャツ姿に着替えたヴェルは、特に表情も変えずに、私の隣に横たわる。髪も下ろしていて、いつもより少しだけ幼く見えた。彼が横で寝るのは凄く久々で、少し前は慣れて緊張しなくなっていた(というか直ぐ寝てしまっていた)のに、ガチガチに緊張してしまう。というかシャツ姿もちょっと久しぶりに見るし、もうなんだか、熱が急上昇しているような気がする。
『ほら、来い』
腕を広げられて、ぐうっと唸る。なんだそれは。
『うつしたら、悪いもん』
『うつらない。風邪は引いたことがない』
『…一度も?』
『一度も』
『私の国のことわざで、馬鹿は風邪をひかないっていうのがあるんだけど』
『……』
軽口を叩くと、ヴェルは顔を顰めてぐいっと私の腕を引っ張った。腕が背中に回されて、ぴったりと密着する。どくんどくんと大きく心音が聞こえて、目が回りそうになった。
『血のせいか知らないが、人より身体は丈夫に出来ている方だ。相当な無理をしない限り体調は崩さない』
『う…』
シャツは薄くて、肌が近い感じがする。これなら騎士服の方が良かった。こんな状態では、熱がもっと上がりそうだ。たった1枚の薄い布の向こうに、ヴェルの肌があるのだと思うと、なんか、もう。
思わず身動ぎすると、腰に回された手がぎゅっと更に身体を引き寄せて、より密着した。息をするのを忘れてしまいそうになりながら、回らない頭で羊を数え始める。
『身体が熱いな』
そりゃあ熱があるから当たり前だ。1匹、2匹。
『目も潤んでいる』
そりゃあ風邪引いてるから。3匹、4匹。
『…お前が体調を崩しているのを見るのは、妙な気分になる』
『妙な、気分?』
羊を数えるのを中断して、聞き返す。
『…悔しいような、無力感に苛まれるような』
『悔しい?ヴェルが?…なんで?』
『…守ってやれなかったのが』
『風邪だから、仕方ないよ。ヴェルのせいじゃ、ない』
『…外に連れ出したのは私だ』
ちらりと顔を見上げると、困ったように笑われる。
『風邪というのは、辛そうだな』
『…うん、ちょっとだけ』
『代わってやれないのが、もどかしい』
腰に回されていた腕が離れて、手が頬を包み込むように添わされた。親指が目元に溜まっていた涙を掬って、優しく頬を撫でていく。
『グレイプニルもかなり心配していた。治ったら顔を出してやるといい』
『…うん』
こつん、と額を胸に当てる。ニルさんは凄く、それこそヴェルより過保護だから、心配させてしまっているだろう。早く元気な姿を見せないと。それから、お気に入りの曲を聴かせてあげよう。いつも、あの綺麗な蒼い目を細めて、心地好さそうに聴き入ってくれるのが嬉しかった。
じっとしていると、徐々に眠気が襲ってくる。結果的に言えば、彼が横に寝てくれて良かったかもしれない。風邪を引くと心細くなってしまうから。それに凄く、温かい。
頬が触れている胸が、ゆっくりと上下している。私よりもずっと深く、長い呼吸。それに意識を向けていると、自分がいつもどれくらいのペースで呼吸していたのかわからなくなってしまう。
ふとヴェルの手が後頭部に移動して、優しく髪を撫でだした。大人の女性として扱っている、とは言っていたが、やっぱりどうも子供扱いされているような気がする。
『…ん』
不意にヴェルが不思議そうな声を出して身じろぎする。何だろう、と視線を上に向けて、彼の手に細長い白い箱が握られているのを見て、――眠気が一気に飛んだ。
『あっ』
枕の下に隠していたの、そのままだった!ヴェルの鋭い目がすっと細められて、こちらを見下ろしてくる。
『これは?』
『えっと、その』
リュゼに貰った首飾りは、自分だけの胸の内にしまっておきたかった。リーゼさんも開けるサイドテーブルの引き出しにも仕舞えないし、置き場所が無くて、一旦枕の下に入れていたのである。
『中身は?』
ヴェルは箱をじっと見つめて、静かに問いかけてきた。
『ひっ、ひみつ』
箱に向かって手を伸ばすが、ヴェルの方がずっと腕が長い。ちょっと彼が腕を伸ばすだけで、指先すら掠らなくなる。
『ん、うう…』
更に手を伸ばすために身体を反転させようとするが、ヴェルのもう片方の腕が背後からがっちり腰に回されて動けない。
視線の先で、ヴェルが器用に片手で箱の蓋を開けようとする。ヴェルには何となく特に見られたくなくて慌ててもがくが、奮闘虚しく、箱の蓋は目の前であっけなく開けられた。
『…これは?』
ヴェルは箱の中身をじっと見て、短く問いかける。
『……も、貰ったの』
『誰に』
『………』
黙り込むと、視線の先で、ヴェルが首飾りの台座に嵌った石に触れる。
『リュザフィールか?』
『…っ』
部屋はかなり暗いのに、色が分かったのか。息を詰まらせると、『やはりそうか』とヴェルは低く呟く。
『こういうものを贈る意味は知っているだろう』
『…うん』
『…好いているのか、あいつを』
顔をヴェルの方に向けると、険しい顔がこちらを見下ろしていた。
『…好き、だけど、そういう『好き』じゃなくて、…家族、みたいな、兄弟みたいな…』
もごもご口にすると、ヴェルの目が鋭さを増す。
『それなら、何故受け取った』
『それは…』
答えに逡巡すると、私の腰に回されていた手が、頬に添えられた。そのまま顎を上に向けられて、真っ直ぐ目が合う。
『それは?』
催促されて、恐る恐る口を開いた。
『…リュゼが、私のために、用意してくれたものだったから』
少しだけ泣きそうに笑った顔を思い出す。全部知ってて、…私がヴェルのこと好きだって、知ってたのに。断られるって分かっていて、それでも私にくれたものだった。
『大事にしたいって、思ったから…』
胸がぎゅうぎゅう締め付けられて、苦しくて、息がつまる。
ヴェルは困ったように顔を歪めて、少しだけ溢れた涙を指先で拭った。
『…そうか』
強い力で抱き寄せられて、肩口に目元が当たる。後頭部に当てられた手が、ぐっと頭を押さえつけた。
自分の熱い息がシャツに吸い込まれて、じんわりと熱を持つ。少しずつ、気持ちも落ち着いてきた。
ヴェルの手がそっと箱の蓋を閉じて、元の場所に戻す。私の呼吸が落ち着いてきたのに気が付いたのか、腕から力が抜けた。
『悪かった』
小さく息を吐き出した彼は、小さく呟いて、それきり黙り込む。それから、ただ静かに呼吸する音だけが鼓膜を揺らした。
その後は気が付いたら眠ってしまっていて。目が覚めたら、少しだけ気持ちの整理がついていた。




