76.熱(1)
翌日。身体が怠くて、起き上がれなかった。
『スグル…?大丈夫ですか?』
リーゼさんに身体を軽く揺すられて、頭がぐらぐらする。うう、と唸ると、ひんやりと冷たい手がおでこに触れた。
『少し、熱があるかもしれません。先生に診てもらいましょう』
リーゼさんはそう言って、懐から通信板を取り出す。先生は毎朝薬を届けに来てくれるけど、ちゃんとした診察となると用意もあるだろう。
『食欲はありますか?』
『…あんまり…』
『スープならどうです?』
『多分、食べられます…』
冷たい手が、気持ちいい。細い指先が軽く頬に触れて、すぐに離れた。
二日酔いにしては、怠さがちょっと違う気もする。頭は重いけど、身体が熱を持っていて、腕を上げるのが億劫な感じ。身体を起こそうとすると、すかさず腕が伸びて来て、起きるのを手伝ってくれた。
『飲み物を用意してきます。少しの間、待っていてください』
『はい』
それでは、と微笑んで、リーゼさんが天蓋の向こうに消える。一瞬流れ込んだひんやりとした外気に、ぞわりと鳥肌が立った。
『大丈夫か』
天蓋の外から、声がかけられる。
『だいじょうぶ…』
声が少し掠れる。目の奥が熱くて、関節が痛くて…多分、風邪だ。祭礼まで1週間しか無いのに、嫌なタイミングで体調を崩してしまった。軽く天蓋が捲られて、ヴェルがこちらを覗き込んできた。
『…随分、体調が悪そうに見えるが。大丈夫じゃないだろう』
『…だいじょうぶ』
『…お前、』
一気に険しくなった顔に、びくっと身体が震えてしまう。ヴェルは口を噤んで、『悪い』と低く謝罪した。
『昨日、私が外に連れ出した所為だな』
手が、髪を軽く梳る。手袋をしたままの手は体温が伝わってこなくて、少し寂しかった。
『ううん、多分、それだけじゃないし、…お酒飲み過ぎたし』
『まあそれは、そうだが』
ヴェルは困ったように呟いて、静かに息を吐いた。その後ろからリーゼさんが顔を出す。
『お水を用意しました。もうすぐ食事が来ますから、ゆっくりしていてください』
柔らかく微笑んだ顔が美しい。グラスを受け取って身体に流し込むと、ひんやりとした水が、内側から身体に染み渡った。
『風邪だな』
診察を終えた先生は案の定そう言うと、眼鏡のフレームを指でぐいっと押し上げた。
『昨日、夜会で演奏したんだろう』
『はい…』
『肌の出た服でうろついたんじゃないか』
『うぐ』
『まあ、それだけでも無さそうだが。無理が祟ったか…』
先生は溜息をつくと、綺麗に整理された鞄の中から小瓶を取り出した。中には黒い錠剤が入っている。
『解熱剤だ。咳は無いようだから、咳止めは出さないが…出るようなら言え』
小瓶を受け取って、中を覗き込む。若干禍々しい色をしているが、先生の薬はよく効くから、そこは心配していない。
『ありがとう、ございます』
『食後に1錠だ。なるべく栄養は取れよ。あとは身体を温めて、安静にな。3日間訓練も練習も禁止だ』
『えっ』
祭礼は1週間後だ、練習できないのは怖い。顔に出ていたのか、先生は少し険しい顔になった。
『医者の言うことは聞くものだ。早く練習したいなら早く治すことだな。診察は終わりだ、寝ろ』
おでこの真ん中を軽く指で押されただけなのだが、身体が支えられず、ぽすんと後ろに倒れ込んでしまう。
『ではな。お大事に』
鞄を閉めて立ち上がった先生はそう言うと、スタスタと部屋から出て行ってしまった。いつも直ぐに出て行ってしまうので、忙しいんだろうと思う。…それなのに毎日来てくれるから、ありがたい反面申し訳ない。
『…スグル、申し訳ありません。もう少し暖かい服を用意すべきでした』
隣で診察を一緒に聞いていたリーゼさんが、私に深く頭を下げた。
『いいえ、ドレス、素敵でした。……綺麗だって、言ってくれたから』
『…左様ですか』
誰が、とは問われなかった。リーゼさんは少しだけ困ったように微笑んで、私の頭を撫でる。どうやらとても分かりやすいらしい私の好意は、彼女にはお見通しだ。
『それなら私も、あの服を選んだ甲斐があるというものですわ。どうです、仲は進展しました?』
部屋にはリーゼさんと私の2人きりだ。ヴェルは一旦部屋に戻って、お風呂に入っている。悪戯っぽく笑ったリーゼさんは、ベッドに腰掛けてこちらを見下ろした。
『………ひ』
『ひ?』
『…ひみつ…です』
『あら』
瞬きをして、ニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべる。ちょっとクラウスみたいになってるぞ、勘弁してくれ!学生の時なんかは、誰が好きとか、誰と誰がくっついたとか、そういう女子トークに花を咲かせていた頃もあったが、まさかこんなところで…!
彼女はずいっとこちらに顔を寄せて、頬を両手で包み込んだ。綺麗な薄い水色の瞳が至近距離でこちらを見下ろして、どきっとする。
『教えてくれないと、口付けしちゃいますよ』
『へっ!?』
『あら、真っ赤です。可愛らしい…』
えっ、ほ、本当にするつもりなのか!?鼻先が触れ合って、ぶわっと顔に熱が集まる。
『いっ!いいますから!』
『私としては、このまま口付けしても構わないのですが』
『いいますって!』
『残念ですわ…。スグル、誰かと口付けしたことはございます?』
『無いです!!あっあああるわけ無いじゃないですか!』
『それなら、『初めて』くらい、私にくださっても…』
『わあああああ!!』
暴走気味のリーゼさんから転がるように逃げると、リーゼさんは楽しそうに笑った。
『初心で可愛らしいですわ。あの男にやるのはやはり腹立たしいものがありますね』
『別にそんなんじゃ…っ』
『あら、そういう関係になった訳では無いのですか?』
『うっ…』
『ふふっ、申し訳ありません、いじめすぎました』
ふんわりと笑ったリーゼさんは、私の身体を支えて元の位置に戻す。
『それで、どういう事があったんです?馬鹿な勘違い男に絡まれたのは確認していましたが…その後、少し外に出ていたでしょう』
『ええと、ちょっと話をして…』
『はい』
『…それだけです』
『はい?』
全部言うのは流石に恥ずかしすぎて無理だ。思い返すと、その、背中に触れた手のひらとか、顎をなぞった指先とか。触れられたところが熱を持つみたいで、体温がじわじわ上がる。
『嘘が下手ですね、貴女は。…口付けでもされました?』
『さっ、されてないです!』
『ふふ、それは本当ですね。それなら、何か甘い言葉でも囁かれました?』
『あっ、あまい…!?』
あっ甘いって何、どういうの!というか、何故そういう前提で話が進んでいるんだ!
『微妙ですか…。いいですかスグル、ああいう鈍さの塊のような男相手では、こちらからも攻めないといけません。少し肌の見えるドレスくらいではあまり心が動かされないようですし…』
えっ、あのドレス、そんな意図があったのか!?驚いてリーゼさんの顔を凝視すると、彼女は考え込むように顎に手を当てて、目を細めた。
『…まあ、私も考えておきますわ。スグルはゆっくり休んでください』
微笑んだリーゼさんに少しばかり嫌な予感を感じつつ、しかしどこか楽しそうな彼女も止める事が出来ず。布団に顔を埋めて、ぐう、と低く唸った。
◇ ◇ ◇
その日の午後は、聖騎士の面々がちらほらとお見舞いに来てくれた。
『見舞いだ』
団長さんはそう言って、小さな籠を手渡した。ブドウみたいな、房になった黄色い果実が入っている。
『甘い果実だ、食欲が無くても喉を通りやすいだろう』
『ありがとうございます』
ほんのり、桃みたいな甘い香りがする。微笑んで受け取ると、団長さんも表情を緩めて、横の椅子に座った。
『昨日の演奏、素晴らしかった』
『…いらっしゃってたんですか』
全然気が付かなかった。首をかしげると、団長さんは小さく頷く。
『陛下の護衛についていた。ドレスも良く似合っていたな』
『う、ありがとうございます…』
ちょっと恥ずかしい。縮こまると、大きな手がどすんと頭に降ってきて、髪をがしがし掻き回した。
『悪い虫がつきそうな時は俺が追い払ってやる』
『虫…?』
『ヴェンデルス卿のせがれとかな。困ったら言え』
『は、はあ』
『じゃあな、俺はそろそろ戻る。仕事もあるし、後ろもつかえているしな』
団長さんはふっと笑って立ち上がる。
『お大事に』
ぽんぽん、と最後に頭を軽く叩かれて、団長さんは部屋から出て行った。そしてそれと入れ替わりで、フェルステルさんが顔を覗かせた。ああ、後ろがつかえているってこういうことか…。そんな、お見舞いなんていいのに。
フェルステルさんは小さな花束を持って入ってくると、『見舞いだ』と団長さんと同じことを言って、私に手渡した。庭でよく見た、薄桃色の綺麗な花。ふんわりと良い香りがする。お礼を言うとフェルステルさんは苦笑して、さっきまで団長さんが腰掛けていた椅子に座った。
『顔が赤いな。熱はどうだ』
『多分そんなに、高くはないです。お薬出してもらいましたから』
『そうか』
フェルステルさんは安心したように息を吐くと、脚を組んで、小さく咳払いした。
『悪かった』
『…?何がですか?』
『お前に酒を飲ませたのは、姉だ』
『…はい?』
『その場にいたら止めていたんだが。後から聞いた』
『あ…』
思い出した、あの薄い金の目のご婦人。誰かの面影があるような気がしていたのだが、フェルステルさんだったのか。
『多分、あの時渡されなくても飲んでたと思うので、謝らないでください。…2杯目は自分で飲みましたし』
『…しかしだな』
『お酒のせい、というわけでも無いので…』
『ああ、…ドレスか。聖都は寒いからな』
…知っていたのか。その場にいなかった彼が知っているというのは、一体どういうことなのか。
『姉から聞いた。可愛らしかっただの、綺麗だっただの、幼く見えるのに色気がどうだの。煩かったが、べた褒めだったぞ』
『…恥ずかしい……』
顔を覆って呻くと、フェルステルさんに笑われた。
『ああいう機会があればまた会うこともあるだろう。仲良くしてやってくれ』
『…はい』
上品で、優しそうなご婦人だった。あの場で最初に声をかけてくれた人が、彼女で良かったと思う。フェルステルさんは立ち上がると、小さく笑って私の髪を撫でた。
『そろそろ戻る。…次は見てみてえもんだ』
『…何をですか…?』
『お前の、ドレス姿』
『……っ』
『じゃあな』
フェルステルさんは軽く手を振って、部屋から出ていった。…次は絶対、肌が見えない服にしてもらおう。絶対長袖。ううむ、と考えていると、リーゼさんがお水を運んで来てくれた。
『今日は人がひっきりなしに来ますね。…大丈夫ですか?お疲れでは?』
『大丈夫です。薬が効いてるみたいで、身体、そんなに重くないので』
『…ですが、横になっていた方が良いでしょう。まだ見舞いに人が来るでしょうし…今までの善行の賜物ですわね』
『ぜんこうのたまもの…?』
難しい言葉にきょとんと見上げると、リーゼさんは微笑んでこちらにグラスを差し出した。
『副団長があんなこと言うなんて。面白くなってきましたわ。次のドレスはどういうのがいいかしら…』
頼むから、露出は抑え目でお願いしたい…。眉根を寄せると、とても楽しそうな笑みが降ってきた。…最近リーゼさんが怖い。
◇ ◇ ◇
その後少しして、リュゼもお見舞いに来てくれた。リュゼが部屋に来るのは久々な気がする。どうやら、『見る』方の仕事が沢山あるらしくて、忙しそうにしていた。
『スっ、スグルっ』
慌てたように部屋に飛び込んで来た彼は、私の顔を見下ろして、うっと小さく唸った。
『大丈夫…?』
『大丈夫』
『熱は?』
『そんなにないよ』
『そっかあ…良かった』
溜息をついて、リュゼはすとんと椅子に腰を下ろす。
『体調崩したって聞いて、心配で…。仕事抜け出して来ちゃった』
彼は笑うが、大丈夫なんだろうか。そんなに酷い風邪というわけでもないし、申し訳ない。リュゼはふと周囲に視線を巡らせて、数回瞬きした。
『…今は、ヴェルフリードは居ないの?』
『うん、部屋に戻ってる』
『……そっか…』
どこか迷うような間を置いて、リュゼは小さく相槌を打った。緊張しているような様子に首をかしげる。…何か、ヴェルに用事でもあったんだろうか。
忙しなく動き回っていたリーゼさんが、こちらの方に顔を出した。手には通信板を持っていて、彼女にしては珍しく、少し焦っているように見える。
『リュゼ、すみませんが、少しスグルを見ていてもらってもいいですか?』
『えっ?』
『所用で席を外さなくてはなりませんの。5分くらいで戻りますから、その間お願いしますね』
『あっ』
リュゼが返事をするより前に、慌ただしくリーゼさんが部屋から出ていってしまう。リュゼと一緒にぽかんとそれを見送って、困って顔を見合わせる。
『時間、大丈夫…?』
『一応、休憩取って来てるから。ちょっとくらいは』
『ごめんね…、何か、お茶、飲む?』
『病人にそんなことさせられないよ』
リュゼは苦笑して、しかし直ぐに表情を引き締めた。静かに息を吐いて、視線をこちらに向ける。
『話が、あるんだけど、いい?』
緊張した視線に、こちらも緊張する。姿勢を正して頷くと、リュゼは腰のポケットから、何か小さな箱を取り出した。
『受け取って、欲しいんだけど』
『…?』
細長い、白い箱。包装はされていなくて、シンプルなものだった。紙のような質感の箱なのに、少しずっしりとした重みがある。
『なに…?』
『開けてみて』
促されて、そっと、蓋を開ける。中には、銀の鎖のネックレスが入っていた。
『わ、綺麗』
唐草模様みたいな、蔦のような文様が細かく彫り込まれている。鎖は細くて繊細だが、1つ1つに丁寧に小さな模様が彫られていた。台座には翠色の綺麗な石が嵌っていて、キラキラと奥の方が微かに虹色に輝いて美しい。
『ありがとう』
そっと石に触れると、ひんやりとした感触が伝わってくる。にっこり微笑んで見せると、リュゼはなぜか困ったように笑った。
『そういうものを、贈る意味は知ってる?』
『…え?』
きょとんと相手の顔を見上げて、その吸い込まれそうな綺麗な翠色の瞳に一瞬見惚れる。…言われて、やっと気がついた。
『あ…』
首飾りの、石の色と同じ。そういうものを贈る意味は、フェルステルさんに教えてもらったから知っている。
『…それはね、そういう意味で渡した』
『そういう、意味…』
『…あのね』
リュゼは苦笑して、私の手を軽く引っ張った。身体がすっぽり覆われて、驚いて硬直する。細いと思っていた身体は思っていたよりしっかりと厚みがあって、男の人なのだと、今更ながら気付かされた。
『好きだよ、スグル。ずっと好きだった』
『…っ』
言葉が喉でつっかえる。どう、言葉を返したらいいかわからなくて、頭が真っ白になった。目の前にあるのは白い騎士服だけで、顔は見えない。そのまま固まってしまっていると、リュゼはゆっくりと私を離した。
『…知ってるんだ、スグルがあいつのこと好きだって。でも、伝えずにはいられなかった』
少しだけ泣きそうな顔。リュゼはぎゅっと私の手を握ると、は、と息を吐いた。
『…やっと言えた。返事は、しなくていいよ。君は俺のこと、そういう目で見てなかっただろ?』
『…ごめん、なさい…』
手を握り返すと、リュゼはくしゃっと笑う。どんな顔をしたらいいのかわからなくて、ぎゅっと唇を噛んで俯いた。
『いいんだ、謝らないで。こんなタイミングで言うつもりじゃ無かったんだけど、なかなか、2人きりにならないから。…風邪引いてるのに、困らせてごめん』
『ううん、…ううん、私…』
『スグル』
顎に指が添えられて、上に向けられる。真っ直ぐ翠の目に射抜かれて、息を呑んだ。彼がなんだか知らない人みたいに見えて、それに少し焦る。
『…なんで君が泣きそうなの?』
リュゼは私の顔を覗き込んで、小さく吹き出した。…分からない、混乱していて、頭がうまく動かなくて。リュゼはクスッと笑って、私の頬に顔を寄せた。
『これくらい、いいよね』
頬に口付けされたと気がつくまで、少し時間がかかった。
『っ、っ!』
『はは、真っ赤だ。…あんまやり過ぎると殺されそうだからやめとこ…』
顎から手が離されて、慌ててちょっと身体を引くと、リュゼはしょげた顔になった。やっぱり弟みたいで、妙な気分になる。
『…それは、君のために作ったものだから、受け取って欲しい』
手に持ったままだった箱の上に、手が重ねられた。優しくて穏やかで、頼りないけど時々かっこよくて、リュゼのそういう所が好きだった。
『…うん、大事にする』
小さく頷くと、リュゼは嬉しそうに微笑んだ。
『ありがとう』
その顔があまりにも穏やかで、柔らかくて、それにまた少しだけ、胸が苦しくなった。




