75.夜会(2)
ガチガチに緊張しながら控え室に戻って、ふはあ、と大きく息を吐き出す。いつもそうだけど、演奏が終わった後の方が心臓がばくばくしてくる。正直もう帰ってドレス脱いでお風呂入って寝たい。
『素晴らしかった。部屋で聴くよりずっと』
壁に手をついて放心していると、一緒に戻ってきたヴェルが、小さく笑って呟くように言った。
『ありがとう』
力が抜けて、ソファーにすとんと腰を下ろす。
『…つかれた』
背凭れに体重を預けて伸びをする。少し緊張していたせいか、手の傷跡が少し引き攣るように痛んだ。軽くストレッチをしていると、横に立ったヴェルが静かにこちらを見下してくる。
『出られるか』
…そうだ、忘れていたが、挨拶回りを少しやらないといけないんだった。頷いて立ち上がると、ヴェルは私のコートを腕にかけて持って、舞台側とは別の扉を開けた。
扉の先は階段になっていて、灯りが少なくて薄暗い。ヴェルに手を取られて、ちょっとずつ降りていくと、先の方に扉があるのが見えた。
ヴェルが扉を開くと、その先はホールに繋がっていた。ふわりと広がる暖かい空気と、誰かの香水の香りと、お酒の匂い。それから沢山の視線に尻込みする。
『あら、あなた…』
近くに立っていたご婦人がこちらに近寄ってきて、穏やかに微笑する。き、気品が眩しい。
『演奏、とても素晴らしかったわ。まだお若いのに、情感豊かで』
『あ、ありがとうございます』
貴族の方なのだろう、薄いラベンダー色の品のいいドレスを着ている。慌てて礼を取ると、彼女はくすりと笑った。薄い金の瞳が柔らかく細められる。
『夜会は初めてなのでしょう。お酒は飲める?』
『は、い』
ちょっと背後の気配が険悪になったような気がするが、夜会の空気に当てられて頷く。というより飲まないとやってられない。ご婦人が近くを通った給仕の男性に目配せをして、お酒を貰ってくれた。渡されたグラスには、薄く赤く色づいた透明な液体が入っている。
『それでは、楽しんで』
微笑んだその顔は、誰かの面影があるような。だがそれが誰か思い出す前に、彼女はホールの真ん中の方へ戻って行ってしまった。
困惑したままグラスに口をつけると、すっきりとしたベリー系の甘酸っぱい味が広がる。結構強そうなお酒だ。熱い呼気が喉から漏れて、こっそりそれを吐く。美味しいけれど、あまり飲み過ぎると足にきそうだ。ふと後ろを振り向くと、ヴェルは険しい顔でこちらを見下ろしていた。少々威圧感がある。
『…一杯だけ』
『…一杯だけな』
一応許可は出たので、もう少しだけ身体に流し込む。緊張しているからか、普段より酔いがまわるのが遅い気がした。
『素晴らしかったわ』
『いい演奏でした』
『祭礼ではお弾きになりますか?楽しみにしております』
『音がとても美しかったわ』
口々に褒められて恐縮する。両手でグラスを握りしめて、ぺこぺこ頭を下げるしかなくて、早く帰りたくなった。男性も女性も、若い人も老いた人も。興味津々と言った感じで色々話しかけられたりするのを、曖昧に微笑んでごまかして、お酒を流し込んで。気がついた時にはグラスは空になっていた。
給仕の人にグラスをお返しして、若干回らなくなってきた頭で周囲を見渡す。挨拶に現れる人は落ち着いてきて、皆思い思いの場所で談笑していた。舞台のディルネは片付けられて、今は別の演奏団が演奏の準備をしている。弦楽器と管楽器、打楽器…あちらの世界でいう、オーケストラ。
『お嬢さん』
聞き覚えのある声に振り向く。と同時に、思わずげんなりする。
黒い髪の暇そうな男は、今日は綺麗に着飾っていた。長めの髪は後ろで1つに括ってあって、薄い灰色のリボンで結ばれている。男は甘く微笑んで、私の手を取った。
『本当に楽士だったんだね、とても素敵だった。やっと聴けたな』
顔を寄せた男に、そろりと距離を離す。背後に立っていたヴェルに、背中が当たった。
『ごめ、』
ん、まで言う前に、彼の醸し出す空気の鋭さに息を飲む。ヴェルはいつもの無表情で、無言で、ただその目だけが酷く冷え切っていた。ヴェルは男の方に真っ直ぐ視線を向けて、ただ静かに佇んでいる。
『ねえ、お嬢さん、1曲踊らない?もうすぐ演奏始まるし』
固まった私の手を引き寄せて、男は耳元に唇を寄せた。微かに唇が頬に触れる。背中に手がまわされて、その指先が肌を撫でて、ぞわりと、不快感に鳥肌が立った。
パリンッ!
不意に背後を術式の気配が走り、離れた所でガラスの砕ける大きな音がホールに響き渡る。はっと、ホール中の人々の視線がそちらに注がれた。
全員の意識が逸れたその一瞬、背後から強く腕を引かれて、男の腕からするりと身体が抜けた。ぴりっと、再び空気を走る術式の気配に、身体が反射的に跳ねる。
『あっ、れ?』
眼前の男は、きょとんとした顔できょろきょろと視線を彷徨わせていた。まるで、目の前に立っている私の姿が見えていないみたいに。驚いて声が出そうになった口を、背後から伸びた手が塞いだ。微かに、男の方から幻術の気配を感じる。
ヴェルは私の手を取ると、ホールの端…バルコニーがある方へと、静かに歩き出した。
音を立てずに開かれたガラス戸から、外に連れ出される。冷たい空気が肌を刺して、身体がふるりと震えた。直ぐに肩にコートがかけられて、ほっと息を吐く。
カーテンがかかっているから、向こう側はもう見えない。あの男の人も、きっと我々のことは見失ったままだろう。
ヴェルは後ろ手にガラス戸を閉じると、重い、重い溜息をついた。
『あの、…ありがとう』
助け出してくれたお礼を言っておく。そっと顔を伺うと、凄く険しい顔をしていた。今日はずっとこんな調子で、話しかけづらい。
『…私が、外で演奏するのは、心配?』
バルコニーの手すりに凭れて夜闇に視線を落としたヴェルに、小声で問いかける。ホールから僅かに光が漏れてはいるが、辺りは薄暗かった。ぼんやりと見える視界で、彼がこちらに視線を向けた。
『…別に、心配はしていない』
ヴェルはそう言うが、険しい表情は変わらない。
『…じゃあ、いや?』
『…演奏は、嫌じゃない』
『演奏は…?』
演奏じゃない所で、何か、気にくわないことがあるのか。
『…それなら、服?』
ドレスを着た時から、ヴェルはちょっと機嫌が悪くなった。こういう服は、嫌いなのかもしれない。
『別に、そこまで嫌というわけでは。…良く、似合っている』
ヴェルは手袋を外して胸元に仕舞い込むと、一度ぎゅっと目を閉じて、ゆっくり目を開ける。目を開けた彼は、いつもの静かな表情に戻っていた。
手すりから身体を起こして私の前に立ったヴェルは、私の頬にそっと触れる。親指が唇の端をほんの少しだけ掠めた。
『…綺麗だと、思う』
『……』
頬に熱が集まる。酔っているせいか、それだけでふらふらした。なんて言ったらいいかわからなくて、目を泳がせてしまう。恥ずかしいような、照れくさいような、もうなんだか良くわからない。取り敢えず心の中でリーゼさんに感謝しておく。
『だが、やはり…肌が見えすぎじゃないか』
お父さんみたいなことを言うと、ヴェルはまたちょっと険しい顔になった。
『ああいう、勘違いする輩が出てくるだろうが』
正直言えば、さっきの男に背中に触れられた時は、この服を着たことを心底後悔した。好意のかけらも抱いていない男性に触れられるというのは結構気持ち悪い。ううむ、と低く唸ると、ヴェルは小さく溜息をついた。今日のヴェルは本当に、溜息ばかりついている。幸せが逃げそうだ。
『…ごめんなさい』
ちょっとしょんぼりしていうと、ヴェルは私の頬から手を離した。
『もう少し、堂々としていろ。隙だらけだ』
『す、隙だらけ?』
『毅然としていろ。ああいう手合いが相手の時は目で威圧して追い払え』
『…難しい』
『顎を引いて、胸を張れ』
『む…』
一生懸命やってみても、いまいちピンとこない。首をかしげると、ヴェルは困ったように笑った。不意に手首を掴まれて、強い力で引き寄せられる。
『こういう事をされるのは、嫌だろう?』
あの男がしたみたいに、耳元で囁かれる。ヴェルなら別に、と返そうとして、コートの下から回された彼の指先が背中に触れて、びくりと身体が跳ねる。少しだけひんやりとした指が、背中のリボンの下に滑り込んで、皮膚をするりと撫でた。
『…っ』
ぞわっと、妙な感覚に全身を支配される。体温が急激に上がって、かくんと膝から力が抜けた。尻餅をつきそうになった身体を、ヴェルの手が支える。
ばくばくと心臓が煩い。詰まっていた息を吸い込んで、ぱちぱち瞬きを繰り返す。
『…悪い』
耳元で小さく謝罪された。熱い吐息にびっくりして、びくっと肩が揺れてしまう。
『っ、ううん』
その姿勢のまま、お互い固まる。視線も合わないし、何とも気まずい沈黙が流れた。ホールの方から聞こえてくる談笑する声が、黙っていると大きく聞こえる。まだ背中に添わされた手はそこにあるまま微動だにしないのだが、強く意識してしまって、そこだけ酷く敏感になってしまったように、手の形をはっきりと感じてしまう。
『……戻るか』
それにこくこくと頷きを返すが、腰が抜けてうまく立てない。ヴェルの手が背中から離れてほっとするが、途端に座り込みそうになってしまった。今度はコートの上から身体を支えられる。
『やっぱり、もうすこし、外にいる…』
多分今真っ赤だし、こんなんじゃ明るいところに戻れない。…抜けた腰ってどうやったら元に戻せるんだ。お酒が入っているせいもあるかもしれないが、全然力が入らない。ヴェルの騎士服の袖を掴んだまま固まっていると、彼も私の背中を支えたまま動かない。
『……』
『……』
また沈黙が流れて、空気がどんどん凍りついていく。ひゅうひゅうと冷たい風が体温を奪って、剥き出しの肌が冷えていくのがわかった。
『…寒いだろう、戻った方がいい』
そのままの姿勢でどれくらい固まっていたのか分からないが、ふと微妙に空いていた隙間を詰めるように抱き寄せられた。肩口に、頭がこつんと当たる。じんわりと騎士服から温もりが伝わってきた。ぽんぽん、と背中を宥めるように軽く叩かれて、なんだか、
『子供扱い、されてるみたい』
小さく呟くと、自分で思っているより拗ねているような声が出てしまっていた。頭上から微かに笑う音が降ってくる。
『今は、していない』
しているようにしか感じられないのだが。それに、『今は』って何だ、『今は』って。むっとして見上げると、落ち着いた紺色の目がこちらを見下ろしていた。
『まあ、初めのうちは、子供だと思っていたが』
『しかも男の子だと思ってた』
『…謝っただろう』
ばつが悪そうに顔をしかめたヴェルに、小さく吹き出してしまう。それでようやく力が入るようになった足でちゃんと立つと、支えていた手が離れた。
『今は、ちゃんと、大人の女として見ているつもりだが。…分かりにくいなら改める』
ヴェルは私の首筋を優しく撫でて、柔らかく微笑んだ。手つきがなんか、いつもと違う。親指が顎をなぞるように動いて、耳朶に軽く触れた。心臓が口から出てきそうなので、もう子供扱いにしか感じられなくてもいいから元の感じでお願いしたい。いやもういっそ、団長さんくらい、ちょっとガサツな感じでもいい。
『あ、改めなくて、いい…』
下を向いてもごもご口にする。踵が高い靴の分、部屋にいる時よりずっと顔が近くて、距離も近くて。庭に出るようになってから少しは慣れてきたはずなのに、そわそわとしてしまって落ち着かない。
『勘違い、しそう、だから』
ぶつ切りに、ぽろりと口から零れてしまった言葉は、零れてしまった以上もう取り返しがつかない。…お酒なんか飲むんじゃなかった、いつもより理性が働いていない。自分で自分の発言に衝撃を受けて、脳みそがフリーズする。
『勘違い…?』
ヴェルは不思議そうに呟く。
『勘違いして、構わない』
その言葉の意味が分からないという程、鈍い訳でもない。寧ろ、この男の方が考え無しにそういう発言をしたのではないかと疑ってしまう。
ぽかんとしてヴェルの顔を見上げると、彼は微かに悪戯っぽく笑った。背後で舞踏曲が流れ出して、談笑する声が小さくなっていく。照明が落とされたのか、僅かに漏れていたホール側からの光が弱まって、ヴェルの表情が分からなくなった。
『今ならそう目に留まることも無いだろう。…中で、少し落ち着くといい』
何事も無かったかのように私から離れてガラス戸を開けたヴェルは、普段通りの静かな声音で言う。…私の、考え過ぎだったんだろうか。
促されるまま中に戻ると、少し暗くなったホールでは、皆ゆったりと踊っていた。流れているのはなんともロマンチックなメロディー。曲を聴いていると、少しずつ落ち着いてきた、気がする。給仕さんからグラスを受け取って、中身を軽く身体の中に流し込む。
『一杯だけじゃなかったのか』
『…もう少しだけ』
咎めるような視線を感じたが、ちびちびとお酒を飲む。
心臓が、さっきから煩い。…ヴェルはどういうつもりであんな事を言ったのか。何が何だか分からなくて、頭もうまく回らない。問いただす勇気もなくて、ただ黙ってグラスを傾けた。
『…スグル、大丈夫ですか』
不意に横から声を掛けられて、びっくりしてグラスを落としそうになる。隣には、給仕姿のリーゼさんが立っていた。…髪の色が黒くて、一瞬誰かわからなかった。彼女は私の顔を見て、驚いたように目を見開く。
『随分顔が赤いです。…お酒、ですか?』
冷たい指が頬に触れた。冷たくて気持ちが良くて、少しだけ体温が下がったような気がした。
『…お部屋に戻りましょうか。貴女はずっとここにいる必要はありませんもの』
リーゼさんは、私の後ろに立つヴェルに目配せした。
『私は後から戻ります。お化粧も落とさなくてはなりませんから、なるべく起きていてくださいね』
リーゼさんの言葉にこくりと頷きを返す。彼女はそれに微笑んで、私の手から殆ど空になったグラスを取り上げた。
近くの出入り口から外に出ると、夜会の空気が嘘のように、しんと静まり返っていた。人気のない廊下をふらふらと進み、階段まで差し掛かったところで、ヴェルの手が私の身体を抱き上げた。
『わ』
慌てて首に手を回して、直後それを後悔した。顔が近くて、思わず硬直する。…なんでいつもこの男は、何も言わずに私を抱き上げるんだ。
『そう足にきていては、階段は上れないだろう。踏み外されたら困る』
…確かにちょっと飲み過ぎたせいか、足に力が入らない。しかしそれ以上に、彼のことを意識してしまって。至近距離から向けられた綺麗な紺色の瞳に、ぎゅうっと胸が苦しくなる。
『…う』
唸るように声を出して小さく頷くと、ヴェルも頷いて、階段を上がり出した。…次からはお酒には気をつけよう。
『やはり酒に弱いな、お前は』
『…弱くは、ないもん。酔ってない』
それなりの度数のお酒だったが、緊張していたせいか酔ってはいない。身体が少し熱いだけで。
『それだけ赤くなって、酔っていないは無いだろう』
それはお酒のせいというだけでも無い。
『…酔ってたら、もっと、酷くなるし』
『酷い?』
『…ひみつ』
酔うと、割と人に甘えてしまう、らしい。いや、その、ぼんやり記憶はあるのだが。アルコールを入れると普段抑圧している感情が高ぶるとか言うけど、自分が誰かに甘えたがっているとか認めたくなくて、なるべく思い出さないようにしている。
『…私がいないところで、酔うほど飲むなよ』
『…なんで、ヴェルがいないと、だめなの?』
『止められないからだ』
ヴェルは小さく溜息をつく。
『そんなに、心配?』
頼りない、だろうか。ちょっと落ち込んでしまう。
『…酔ったらどうなるのか、知らないしな』
今まで数回、彼の前でお酒は飲んだが、酔っ払ったことはない。まあその、どうなるか分からない恐怖はあるかも。
『酔うまで、飲んでみる?』
心配されるような酔い方はしていない(と思う)し、一回見ておけばそんなに心配じゃなくなるんじゃないか。
『…遠慮しておく』
ヴェルはちょっと険しい顔になった。…一体どうなると思われているのか。
『ヴェルが酔ってるのも見てみたい』
『酔わない』
『全く?』
『全く』
前にも酔わないとは言っていたが、全くというのはそれはそれでつまらない。顔に出ていたのか、ヴェルはこちらを見て小さく笑った。
『お前、私の弱味でも見つけたいのか?』
『…見つけたいかも』
『無くはない』
『えっ』
あるの!?し、知りたい。何故かと問われると困るのだが。
『教える気は無いが』
『ええ…』
あると言われると気になってしまう。ヴェルはそれ以上は言う気はないらしくて、ふっと微笑んで黙ってしまった。
前みたいに普通に話せているのに安心して、ほっと息を吐く。だがそれでも、触れられたところが熱くて、ドキドキして。…明日からも、普通に接することができるか、ちょっとだけ不安だった。




