74.夜会(1)
10着。
そう、リーゼさんが持ってきたドレスの数である。
白やら黒やら青やら黄やら赤やら…色とりどりの様々なデザインのドレスをものすごい勢いで着たり脱いだりして、10着全て袖を通した後、リーゼさんは試着したドレスの中から比較的シンプルなものを選んだ。リーゼさんがとても楽しそうにしていたので、まあいいか、と開き直る。…そのドレスの背中部分が、結構開いていることも知らずに。
そういえばだが、こちらの世界にはコルセットというものがない。代わりに、ドレスの腰部分で編み上げられた紐でしっかり締め付けるようになっているようで、それが中々の難関なのである。
夜会当日の夕方、リーゼさんにドレスを着るのを手伝ってもらったのだが、最後にぎゅうぎゅうに腰のリボンを締められた。
『ぐえ…っ』
『すみません、スグル、後もう少しで理想のくびれが…!』
「し、しぬ…っ」
思わず母国語で泣き言を漏らしても、残念ながらリーゼさんの手は止まらない。少しして、満足したような息と共に、リボンが結ばれる。内臓出るかと思った。
今回用意されたドレスは、ブルーグレーで、光沢のあるドレス。シンプルではあるのだが、背中部分が割と大きめに開いていて、リボンで編み上げられている。綺麗なデザインだとは思うが、恥ずかしい、とても。そういえば船の上でもこういう服を着たような…。胸元も広めに開いているのでちょっと困る。貧相なのだ。毎日出されていた謎の飲み物によって、若干増えたような気はするのだが。
『ああ、とてもお似合いです』
リーゼさんは背中のリボンを上まで編み上げると幸せそうに微笑んで、ぎゅっと私を抱きしめた。すりすり頬擦りされて、完全に子供扱いされている気がしてくる。というかもはや愛玩動物扱いなのでは。
『緊張は、されていますか?』
『少しだけ…』
『あら、まあ』
何故かリーゼさんはキラキラした笑顔になって、顔を寄せてきた。
『それでは、緊張の解けるおまじないを』
『ひょえ』
ちゅ、と頬に口付けが落とされて、変な声が出た。びっくりして顔を見上げると、リーゼさんは更に笑みを深める。
『はあ、可愛い』
ぎゅっとまた抱き寄せられて、うう、と唸る。たしかに、たしかに緊張は何処かに行ったけど!違う意味で心臓が口から飛び出るかと思った…!
『さ、お化粧しましょ』
うう、と唸りながら頷くと、リーゼさんは幸せそうに笑った。
◇ ◇ ◇
夜会は夜の8時から。王城内のホールで催される、それなりに大きな催し物のようだ。船の上での演奏の時に似ているかもしれない。あの時はアルネイアの貴族が集まっていたが、今回は聖都の貴族たちということか。
私が演奏するのは9時からだ。化粧も終えて、髪も整えて、準備は万端である。それなりに髪も伸びてきたので、リーゼさんが頑張って編み上げてくれた。その代わり大量のピンが刺さっているので、ちょっと怖いけど。髪には花の形を象った銀細工の髪飾りを付けてもらった。首飾りは薄い水色の石が嵌められた少し大振りのもので、似合わないんじゃないかと思っていたのだが、意外と全体の印象が締まって綺麗に見えた。曲の方もちゃんと出来上がって、リーゼさんも褒めてくれたので、多分大丈夫。彼女は音楽には詳しいから。
そろそろ移動を始めようかという時間になって、今日護衛につくヴェルが戻ってきた。白い方の騎士服に着替えてきた彼は、普段は付けない金の飾緒を右肩から垂らしている。おそらくこちらが正装なのだろう。髪もきっちりセットしていて、かっこよくて直視するのが難しい。
ヴェルは私の格好を見て、一瞬固まって、きゅっと眉間に皺を寄せた。
『露出が多くないか』
『…年頃の娘を持つ父親みたいなこと言わないで頂戴』
リーゼさんの言葉に押し黙って、ヴェルは眉間の皺を深くする。
『…にあわない?』
困って問いかけると、ヴェルはこちらをちらりと見下ろして、直ぐに目を逸らした。
『似合わなくはない』
なんとも微妙な評価である。
『…寒いだろう、時期的に』
確かに聖都はどんどん冷え込んできていた。日本ならまだ暑い季節だと思うのだが、おそらくこちらはもう最高気温が20度を切っていると思う。朝晩は凄く寒くて、最近毛布を追加してもらったばかりだ。屋内であれば暖房(術式だろうが)がかかっているみたいで暖かいが、廊下に出ると少し寒い。
『もちろん移動中の為の上着は用意してあるわ。会場は暖かいから問題ないでしょう』
リーゼさんはそう言って、丈の長い黒いコートを出してくれた。ううむ、抜かりはない。…正直私も長袖のドレスの方が安心するのだけど。
ヴェルは諦めたように息を吐き出して、腕を組む。リーゼさんは私の肩にコートを引っ掛けると、苦悶の表情で私の手を握りしめた。
『演奏した後は、少しだけホールに出ていただきたいそうです。黙ってニコニコしているだけで大丈夫ですが、困った時はヴェルフリードを頼って。私も内部には潜入しますが、直接は助けられないでしょうから』
こくりと頷いてぎゅっと手を握り返す。口をなるべく開かないのは得意だ。それにヴェルが付いていてくれるなら安心である。
『では行くか』
『うん』
腰の剣に軽く手を置いたヴェルに頷いて、歩き出した彼に続いた。扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でていく。
『わ、素敵ですね』
部屋の外に立っていたルーカスさんにそう声を掛けられて、ちょっと照れくさくてぺこりと頭を下げる。彼は今日は白い騎士服を着ていた。会場までは一緒に来てくれるらしい。その横に立っていたアレクシスさんもこちらを見下ろして、穏やかに微笑む。
『綺麗ですね、よくお似合いです』
アレクシスさんは褒めるのが上手いなあ。アレクシスさんはふとヴェルの顔をちらりと見て、笑みを深くした。私からはヴェルの顔は見えないので、少し気になる。
『ああ、…なるほど』
『…何だ』
『いえ、何でもありません』
アレクシスさんはこちらに向き直って、礼を取った。手袋をした手が私の手を掬い上げて、手の甲にごく軽く口付けが落とされる。
『それでは、お気をつけて』
『はい、いってきます』
笑いあっていると、ヴェルの背中が小さく溜息をついた。…何やら少々機嫌が悪いようで、ちょっと怖い。
無言で歩き出したヴェルの後ろについて、廊下を進む。意外と緊張は収まっていて、もしかしたらリーゼさんの『おまじない』のお陰だろうか、と少しだけ笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
会場の舞台側にある小さな扉から控え室に入って、ソファーに腰を落ち着ける。ローテーブルには既にお茶が用意されていた。ヴェルは席にはつかずに、私の背後に立って探知術式を展開し続けている。
到着は遅くなったので、出番まではあまり時間は無い。コートを脱ぐと、ヴェルの手がそれを取って、コート掛けに掛けた。それにお礼を言うと、ヴェルは小さく頷きを返す。
『……寒くないのか』
ここに来るまで完全に無言だったヴェルが、やっと口を開いた。ソファーに座った私の背中を見下ろして、物凄く険しい顔をしている。いや待ってくれ、私だって好きで着ているわけでは無いのである。
『…寒くは、無いけど』
『……そうか』
ヴェルは低く呟いて、それきりまた完全に無言になってしまった。手持ち無沙汰になって、紅茶をこくりと飲む。保温の術式がかけられているようで、まだ温かかった。
そこまで寒くはなかったが、少しだけ空気はひんやりしている。きっとこれからどんどん冷えるだろう。
カップについた口紅を指先で軽く拭って、ふう、と息を吐く。お化粧は濃いめで、ちょっと疲れる。元の顔立ちが薄いから、化粧は濃くしないとドレスに負ける。
ふと、数ヶ月前の、こちらに来たばかりの頃を思い出す。あの頃とはだいぶ変わった。ジャージが一張羅で、ズタボロで、右も左も分からなくて。まさかこんな風になるとは想像すらしていなかったし、衣食住に困らない環境に身を置けるとは思っていなかった。思った程、不運という訳ではないらしい。
背後をちらりと伺うと、腕を組んだ険しい顔のヴェルと目が合う。
『あの、何か、いや…?』
どうにもやりづらい。というか怖い。何か気に食わないことでもあるんだろうか。寒そうだからだろうか…。以前雨でびしょ濡れになった時は、隣に座って肩を寄せて身体を温めてくれたし、心配されているのかもしれない。…思い出すと恥ずかしいので記憶に蓋をしておく。
『……背中が』
『…背中が?』
『……開きすぎじゃないのか』
『…うん』
まあ確かに、ちょっと開きすぎだとは思う。
『……胸元も、少々、開きすぎだと思うのだが』
『…』
胸元はそうでもないが、彼的にはNGらしい。
ヴェルは私から目を逸らしてため息をついた。ふと小さな鐘の音が響いて、部屋に置かれていた大きな置き時計が9時を告げる。
『時間だ』
『う、うん』
手を軽く掴まれて、舞台の方へと連れて行かれる。扉を開けるとすぐ舞台袖で、ヴェルはそこに立つと、静かにこちらを見下ろした。
『お前は、私が知る中で一番の楽士だ。自信を持っていい』
小さな声でそう言って、ヴェルはほんの少し表情を緩める。頬を手袋をした指が撫でて、すぐに離された。
『…行ってこい』
軽く背中を押されて、少しだけふらつく。ヴェル言葉がすとんと心に落ちて来て、不思議と力に変わるみたい。一度深呼吸して、眼前の、舞台の真ん中に置かれたディルネに視線を向ける。
『いってきます』
小さく呟いて、決意を固めて、真っ直ぐ舞台へと足を踏み出した。周りなんかよく見えない、ただ私は、やるべきことをやる。自室の椅子と同じ高さに調整された椅子に腰掛けて、ペダルに足をかけて、座る位置を少しだけ調整して。そこまでがいつものルーティーン。そしていつものように、指先を鍵盤に乗せた。
何を弾くかは、直前まで迷っていた。
初めての演奏だから、受け入れやすい曲が良いだろうかとか、複雑なものは避けた方が良いだろうかとか。
与えられた時間は、30分。もっと短くても良いのに、と思っていたが、案外構成を考えていくと、丁度いいくらいの時間になった。
1曲目は、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。物悲しくて、切なくて、初めて聴いた時には、亡くなった王女を送る曲なのかと思った。
肩の力を抜いて、一音一音大切に奏でる。ホールは広くて、音が驚く程響き渡る。いつも通り弾いているつもりなのに、部屋と音が全然違った。高音が美しく、空間を突き抜けるように響く。まるで宝石のようで、自然とため息が漏れた。
鍵盤から一度手を下ろして、深呼吸を1つ。
2曲目は、ショパンの『幻想即興曲』。リーゼさんが是非聴きたいと言っていたので入れることにした。そういえばこの曲は、奇術団の審査で弾いた曲だった。
あの船の上での生活は楽しかったな、と思い出す。エリクは元気だろうか。団長さんや、オリビアも。みんな明るくて、優しくて、大好きだった。そういえば、エリクに会いに行くって約束したんだ。全部片付いたらみんなに会いに行きたいけど――国外に出ることはクラウスが許してくれないかもしれない。じゃあ、エリクに言われたように、いっぱい演奏して、有名になって、みんなが会いにきてくれるように頑張ろう。
3曲目は、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番、『月光』。第1楽章から第3楽章まで通しで弾く。ベートーヴェンの曲はどれもどこか重々しくて、だけどこの曲は凄く好きだった。第1楽章がきっと一番有名だが、私は第3楽章が好き。どこか少し軽やかで、幻想的で、だが焦燥感に駆られるようで。終盤に向けて、どんどん追い詰められるみたいに音が溢れてくる。最後の和音を鳴らして、そこでまた手を止めた。
次が、最後の曲。何度も編曲し直して、どうにかこうにか作り上げた。みんなに、ちゃんと受け入れられるだろうか。
鍵盤を軽く指先で撫でる。ヴィンディリア夜曲は、音の広がりが大きくて、穏やかで、音がキラキラしている。ふと視線を宙に向けると、遠く離れた窓から夜空が見えた。ああ、そうだ、星空が降ってくるような、そういう曲。
深く息を吸い込んで、ゆっくりと指先に力を込める。この曲は、恋をした女性が男性に贈る歌が元になっているのだという。貴方の全てに恋をしているという、情熱的な歌。それなのにメロディーはとても悲しげで、切なくて。ああでも、何となくそれは分かる気がする。どういうわけか、想いは募らせる程、苦しくなるから。
ぼんやり弾いていると、どうにも彼のことばかり考えてしまっていけない。この曲、そういう魔力でもあるんだろうか。苦笑しそうになって、慌ててそれを引っ込める。
最後の一音まで丁寧に弾いて、そっと鍵盤から手を下ろす。沢山練習してよかった、間違えなかった。こっそり大きく息を吐き出して、ゆっくりと立ち上がる。半ば無の境地だったので、ホールを見下すのはこれが初めてだった。
船の上で見た光景よりずっと華やかで煌びやかな空間に、今更ながら尻込みする。ホールは静寂に包まれていて、何か盛大に失敗でもしてしまったのかと不安になってきた。いやだが、やらかしてしまったものは仕方がない、と開き直っておく。
唾をごくりと嚥下して、こちらの礼を、出来るだけ丁寧に取る。深く頭を下げると、ぱちぱちと拍手の音が少しずつ聞こえてきた。徐々にその音が広がって、大きな音に身体が包まれる。
顔を上げると、遥か遠くの方で、クラウスが小さく笑っているのが見えた。ホールにいるお客さんも、穏やかに笑って拍手をしてくれている。その光景に、ようやくここで生きることを認められたような気がして、――少しだけ泣きそうになった。




