73.ある日の会話
ヴィンディリア夜曲というのは、夜会でよく演奏される曲らしい。苦心して楽譜を書き換えて弾いてみると、とても穏やかで美しい曲だった。歌になると、とてもロマンチックな歌詞らしいのだが…確かに、リーゼさんの美しい歌声で紡がれた詩は素敵だった。
折角なので夜会で弾いてみようかと思って、一緒に練習してみている。手が届かない所はどうにか音を変えたりアレンジしたりして、自作の楽譜に音符を書き込んだ。
こちらの曲は、多分全部この作業をしなければならない。試しにヴェルと手の大きさを比べてみたら、彼の手の第一関節にも指が届かなかった。こちらの人は背が高いから、その分手も大きい。当たり前の話だが、それに合わせて作られているので、私では正しくは弾けなかった。
夜会まで、あと4日。
午後の感知訓練の時間を削って、ディルネの練習の時間に充てることにした。感知はもう殆ど訓練の必要がないくらいにはなったのだが、採血も続けているのでついでに訓練も続けている。それに、フライさんとゲーゼさんにも会いたかったから。2人は相変わらず、研究のこととなるとテンションが上がりきって大変なことになる。
話が少し逸れてしまったが、そういうわけで、今はヴィンディリア夜曲の編曲に取り掛かっていた。音を足したり減らしたりしながら調整して楽譜に書き込んでいると、背後から軽く肩を叩かれて、顔を上げる。
『そろそろ休んだらどうだ』
ヴェルにそう声をかけられて、うん、と頷いてペンを置く。ちらりと時計を確認すると、練習を始めてから2時間経っていた。立ち上がろうとすると、手を取られて支えられる。最近ちょっと過保護に拍車がかかって来ている気がしないでもない。
『あれ、リーゼさんは…?』
彼女の姿が無い。練習に入る前には部屋に居たのに。室内をきょろきょろ見渡していると、ヴェルが静かな眼差しをこちらに向けて、疑問に答えた。
『夜会の準備をするそうだ。外に出ている。服でも揃えてくるのではないか』
なるほど、そうか。そういえば張り切っていたし、何着か持ってくるのかもしれない。やだなあ、多分ドレスだろう。慣れないといけないのはわかっているけど、いつもより疲れるので苦手だ。
『茶でも淹れようか』
最近はずっとリーゼさんがお茶を用意してくれていたから、ヴェルのお茶は久々だった。それがちょっと楽しみで、こくこくと頷く。リーゼさんのも凄く美味しいのだが、ヴェルの淹れるお茶は深みがあって好きだ。
一緒に簡易キッチンまで移動して、少し前よくしていたように、ヴェルがお茶を淹れるのを眺める。今回は紅茶だ。
お湯を注いで少しすると、ふんわりと良い香りが漂う。幸せを噛み締めて小さく息を吐いていると、ちらりとヴェルがこちらを見下ろした。
『トレーガーから茶菓子が届いているが、食べるか』
『食べる!』
団長さんが時々持って来てくれるお菓子はどれも美味しい。甘すぎなくて、紅茶によく合うお菓子を届けてくれるのだ。ついつい食い気味で頷くと、ヴェルは小さく笑って、棚から金属の缶を取り出した。蓋を開けると、クッキーが入っている。ヴェルはそこからいくつかお皿に出して、お盆に乗せた。
部屋に戻って椅子に座って、ヴェルと向かい合う。こうやってお茶をするのはいつぶりだろう。嬉しくて浮かれてしまう。
ヴェルは静かにカップを持ち上げて、口をつける。赤銅色の睫毛が微かに揺れた。綺麗な色にぼーっと見惚れていると、不意に視線がこちらに向けられて少し驚く。
『何だ』
『えっ、いや、その…クッキー、食べる?』
はぐらかして笑って、お皿を軽くヴェルの方に押し出す。ヴェルはそれを見下ろして、お皿を私の方に押し戻した。
『いい』
ヴェルは素っ気なくそう言って、カップをソーサーに戻す。
『甘いもの、嫌いじゃないって言ってた』
首をかしげると、ヴェルは眉間に皺を寄せた。
『甘過ぎなければ、と言った』
団長さんが送ってくるお菓子は甘さ控え目だ。試しに1つ齧ってみると、ほんのり甘さは広がるが、甘過ぎるということはない。ベリー系の果物が入っているみたいで、少しだけ甘酸っぱい所があって、とても美味しかった。
『甘過ぎないよ』
クッキーを1つ摘んで、ヴェルの顔の前に突き出す。ヴェルは眉間の皺を増やしはしたが、大人しく私の手からクッキーを取って、口に入れた。
『どう?』
問いかけてみると、ヴェルは小さく『思ったほどは甘くない』と返して、紅茶を一口飲んだ。本当に甘いものは嫌いではないのか、よく分からない。好きでも嫌いでもない、に近いのだろうか。ちょっと塩気のあるようなクッキーなら、食べてくれるかもしれない。
ああいうクッキーのレシピは知らないから、色々終わったらこっそり練習しよう。思考を巡らせていると、ヴェルがふとこちらを見下ろして、口を開いた。
『曲の方はどうだ』
『もう少しで出来上がりそう。難しいけど』
夜会では基本的にはあちらの曲を弾くが、ヴィンディリア夜曲を最後にして、しっとりと終わらせようかと思っている。その為には夜曲の方をちゃんと仕上げないといけないわけだが…編曲は少々難航していた。
『そうか。…手が小さいというのは、不便だな』
ヴェルは私の手元に視線を落として、呟いた。身長の割には大きい方で、特に今まで不便だと思ったことはなかったのだが、こんなところで壁にぶつかるとは思っていなかった。ヴェルの言葉に頷いて、2つ目のクッキーに手を伸ばす。
『手、というか。全体的に小さいか』
『む』
他意はないのだろうが、小さい小さい言われるのもちょっと腹立たしい。小さいと狭いところにだって入れるんだぞ!むすっとしてクッキーを齧っていると、ヴェルはくすりと柔らかく笑って、紅茶に口をつけた。
『別に、馬鹿にしているわけじゃない。小さい方が、可愛らしくていいだろう』
『……』
一瞬、彼の口から出た言葉の意味がわからなくて、困惑する。なんと言った、今。かわいらしい?…可愛らしい??
ぽかんと相手の顔を見上げてみても、元の無表情に戻っている。…聞き間違いな気がしてきた。『可愛らしい』なんて、ヴェルが絶対口にしなさそうな単語のランク上位に食い込んでいる単語である。似たような発音で、別の意味の単語かもしれない。そう自分を納得させて、クッキーに意識を戻す。無心でクッキーを齧っていると、ふと何かに気が付いたような表情になって、ヴェルが小さく声を上げた。
『ああ、そういえば…』
ヴェルは空になったカップをソーサーに戻して、どことなく険しい顔でこちらを見下ろしてくる。
『訊きそびれていたが、トレーガーには何の話を聞いたんだ』
『ごほっ』
丁度紅茶を飲んでいて、思わずむせてしまう。気管に入った。
立ち上がったヴェルが隣に移動して、私の背中をさする。げほげほ咳をしながら涙目でちらっとヴェルの様子を伺うが、あの時ほどは怒ってはいなさそうではある。そのまま隣の席に座ったヴェルの無言の圧力に負けて、恐る恐る口を開く。
『…料理が酷いって話とか』
『……』
『からかって遊んだ話とか…』
ヴェルはむすっとして眉間の皺を増やす。以前は年相応に素直な方だったヴェルは、よく団長さんに遊ばれていたらしい。そりゃあ険悪にもなるだろう。というか、ヴェルがちょっとひねくれているのは団長さんのせいなのではないか。
『お、怒ってる…?』
『お前には怒ってない』
ヴェルは腕を組みながらそう言うが、怒っているようにしか見えない。…後で団長さんが叱られてしまいそうで、非常に申し訳ない。
『…でも、兄弟みたいなものだって、団長さん言ってた』
そう言って笑った団長さんを思い出して、小さく笑う。ヴェルは複雑そうに目を逸らして、溜息をついた。
『…言われてみれば、アレとの関係はそれが一番近いようにも思えるな』
アレ、という言い方は酷いが…多分、嫌ってはいないんだろう。
『団長さんのこと、好き?』
『好き…?』
ヴェルは困ったような顔になって、考え込むような間を置いて低く唸る。
『…好きでも嫌いでもない』
少しした後、そう返して苦笑した。私には兄弟はいないけど、喧嘩ばかりの男兄弟だと、そういうものなのかもしれない。
『じゃあ、好きな人はいる?』
例えばアレクシスさんとは仲がよさそう(ヴェルにしては)だが、どうなんだろう。特に深い意味はなく、普通に気になって問いかけてみたのだが、ヴェルは物凄く険しい顔になって固まってしまった。
『……お前は、』
そこまで言って、不自然に言葉を止める。何だろう、と彼の顔を見上げると、ヴェルは扉の方に僅かに顔を向けて、固まっていた。
程なくしてノックの音と共に扉が開かれて、リーゼさんがキラキラした笑顔で入ってくる。
『ただいま戻りましたわ。とっても素敵なドレスを沢山ご用意いたしました』
まさかの台車である。いろんな色のドレスが載せられたそれをがらがらと室内に運び込んで、にっこりと微笑んで――直後きょとんとした顔になって、固まっている我々に視線を落とした。
『…何かございました?』
『…いや』
ヴェルは静かにそう返して、ゆっくり椅子から立ち上がる。…何の話だったんだろう。口を開こうとしたら、そこにヴェルが最後のクッキーをねじ込んできた。
『むぐっ!?』
『何でもない。話の続きはその内な』
ヴェルはそう言って、自分のカップを下げる。リーゼさんはぴくりと片方の眉を軽く上げたが、すぐに笑顔に戻って、私の方へと駆けてきた。
『感知訓練が終わりましたら、早速ドレスの試着に入りましょう』
楽しそうなリーゼさんに引きつった笑みを返して頷いて、最後のクッキーを咀嚼する。…これは長丁場になりそうだ。




