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72.ルーカスさんとエル

 作戦についての話があった翌日。比較的穏やかに日々は過ぎていて、今日もリーゼさんに起こされて1日が始まった。


 まあその、何というか、流石にリーゼさんが居る前でヴェルに『隣に寝ろ』とは言えない。ヴェルはベッド横の椅子に座って夜を過ごしているようだった。逆に今はリーゼさんが一緒に寝ていて、ちょっぴり緊張してしまう。なんともいい匂いがするのである…あと胸が…胸が大きくて…。思わず『どうやったらそんなに大きくなるんですか』と問いかけたら、『揉んで差し上げましょうか?』と凄まじく妖艶な笑みが返ってきて、意識が飛びそうになった。ぶんぶん首を振ったら残念そうにされたが、それからは食事に豆乳っぽい飲み物が出されるようになった。…飲んだら大きくなるんだろうか。信じて取り敢えず飲んでみている。


 話が逸れたが、その彼女に優しく肩を揺すられて目を覚ますのである。

『スグル、起きてください』

 甘やかな声にいつもドキドキしてしまう。身体を起こすと、朝のお薬の時間が始まる。

 皮膚の代謝を促進して傷痕を無くしていくという薬なのだが、効果の程はまだ分からなかった。長期的に塗っていかないと効いているかは分からない。ただ、化粧水のような役割を果たしてもいるようで、お肌はすべすべになった。

 リーゼさんにはいつも背中だけお願いするのだが、前も塗りたがるのでちょっとした闘いになる。

『ふぁっ、だめですっ、リーゼさん!』

『いいじゃありませんか、少しだけですわ』

『ぎゃー!!』

 脇がくすぐったい!

『やーめーてー!』

『ああっ可愛らしい!』

 という闘いの間、天蓋の向こうでヴェルがいつも頭を抱えているのを私は知らないのである。


◇ ◇ ◇


 庭に出るときはいつも緊張する。未だに、消える前に見せたカスケードの目が忘れられない。部屋は安全だけど、庭は広いし遮蔽物も多い。護衛が付いているから大丈夫だとは思うのだが、それでも東屋に着くまでは気が抜けない。ただ、先日フェルステルさんとヴェルが追い払ってくれたので、ちょっかいを出して来ていた男の人は現れなくなった。そういえば名前も知らない。

『こんにちは』

 東屋のベンチに座って今日もぼんやりと花を眺めていると、ふと声を掛けられて視線を前へと向ける。

『ルーカスさん?』

 と、

『…エル!』

 エルだ!凄く久々に会えた!思わず立ち上がって声を上げると、ルーカスさんに連れられてきた黒い獣は、こちらに金色の瞳を鋭く向けて、飛びかかってきた。

『あっ、ちょっ!』

 ルーカスさんの手から手綱がすっぽ抜けた。低い唸り声をあげて素早くこちらに突進してきたエルに軽く突き飛ばされて、東屋の外の草むらに尻餅をつく。もしや私のことを忘れてしまったのかとちょっとショックを受けたのだが、ぺろっと頬を舐められて安心した。

『エル、会いたかった』

 頬と頬をくっつけてすりすりすると、機嫌良さそうに喉の奥でゴロゴロと鳴いた。やっぱりエルは猫みたいで可愛いなあ。首に手を回して優しく撫でながら癒されていると、ヴェルの手が手綱を掴んでエルを引き離した。

『汚れる』

 引っ張り起こされて立ち上がると、既にすっかり汚れてしまっていた。ヴェルの手がそれを軽く払って、椅子まで連れて行ってくれる。

 東屋の椅子に座りなおすと、エルが膝の上に顎を乗せて甘えてきた。最近寒くなってきたからか、冬毛になってきているような。ふかふかで気持ちがいい。

『すいません!』

『いい、こいつは力が強い』

 慌てて頭を下げたルーカスさんに、ヴェルが軽く手を振った。そういえばリュゼもよく手綱を離していた。そして襲い掛かられていた。何だかんだとリュゼのことが気に入っていたのかもしれない。

『懐かれてますねえ』

 ルーカスさんがこちらを見下ろして、垂れ目がちの茶色い目を細めた。

『会いたがってるって聞いてたんで、今ならいいかと思って』

『ありがとうございます、ずっと気になってたんです』

 エルの肉球をふにふに触りながらへらっと笑うと、ルーカスさんは穏やかに笑った。

『エル、元気にしてました?』

『そりゃあもう、担当の奴に毎日噛み付いてたみたいで』

『…すみません…』

 申し訳ない…。エル、ダメだぞ、と叱ってもエルはつんっと顔を背けてしまった。むう、ほんとエルはなかなか懐かないな。

 不意にヴェルの手が伸びて、エルの頭を軽く撫でる。そういえば、エルはヴェルに対しては反抗的じゃない。逆らってはならぬと本能的に察しているのかもしれない。心地好さそうに目を細めたエルが可愛らしくて、笑みがこぼれる。

『俺にも懐いてくれないんですよね…』

『優しくすれば、いい子ですよ』

『そ、そうですか…?』

 若干怯えたそぶりを見せるルーカスさんに、思わず笑ってしまう。

『お時間、ありますか?』

『え?まあ、今は休憩中ですけど』

『じゃあ、お隣、どうぞ』

『へ?』

 きょとんとしたルーカスさんを、エルを間に挟む形で隣に座らせる。小さく唸り声を上げるエルの首をぐりぐり撫でると、機嫌良さそうに目を細めた。

『撫でてあげてみてください』

 ルーカスさんがおっかなびっくり手を伸ばして、頭を撫でる。エルは一応は甘んじて受け入れてくれているようだった。

『おお…頭触らせてくれたの、初めてです』

『可愛いでしょう?』

『か、可愛いというにはデカいですけどね』

 大きくても可愛いものは可愛いと思うのだが。猫みたいなところも、足の先が白くて、靴下を履いてるみたいなところも可愛い。エルを触ってるとにやにやしてしまう。

『可愛いっていうのは、もっと――貴方みたいな』

『はい?』

 反応に困って手が止まる。小さいからか?小さければみんな可愛いのか?固まっていると、ヴェルの手が後ろから伸びて、ルーカスさんの後頭部をがっしり掴んだ。

『いったい、痛いです先輩!!』

 アイアンクローである、みしみしと音が鳴りそうな程力が込められている様子に衝撃も吹っ飛んだ。あわあわして見ていると手はすぐ離されたが、ルーカスさんは唸りながら頭を抱えて前屈みになる。うわあ、痛そう…!

 背後を軽く睨むが、ヴェルは無表情の無反応だった。というか何故手を出したのだ。

 ルーカスさんが重い溜息をついて顔を上げる。随分痛かったらしい。エルはそれにふんっと鼻を鳴らして、また私の膝に顎を乗せた。エルももっとルーカスさんに優しくしなさい。

『ルーカスさんは、おいくつなんですか?』

『俺ですか?21です』

『あれ、じゃあ一緒ですね』

『そうですね、同い年です』

 ルーカスさんはにっこり笑う。同い年の人に会ったのは初めてだ、何となく嬉しい。そしてどうやら彼は私の年齢を知っていたようで、安心した。

『あの、それなら別に…丁寧な言葉づかいじゃなくても』

『あっ、いえ、その…色々怖いんで、このままで…』

 ルーカスさんは乾いた笑いを浮かべた。怖いってなんだろう…?首を傾げていると、ルーカスさんが『あ』と小さく声を上げた。

『そうだ、お願いがあるんですが…』

 ルーカスさんはこちらに向き直って、目を泳がせながら、後ろ頭をぼりぼり掻いた。柔らかそうな髪が乱れる。

『演奏を、聴かせて貰えればと…いいですか?』

 それくらい全然構わない。こくりと頷くと、ほっとしたようにルーカスさんは破顔した。

『よかった。当日の護衛、俺なんですけど…演奏に慣れておかないと、ぼーっとしそうで…』

『まあ、そうだな』

 フェルステルさんがルーカスさんの言葉に苦笑した。

『それなら…この後少し時間あるので、お部屋にどうぞ』

 ルーカスさんに笑いかけると、嬉しそうに彼も笑った。エルも顔を上げて、ぺろぺろと私の頬を舐める。

『エルも聴いてく?』

 問いかけると、がう、と嬉しそうに鳴いた。



 部屋にエルとルーカスさんを連れて行くと、アレクシスさんが扉の前できょとんとこちらを見下ろした。

『貴方、何してるんです?』

 笑顔が若干怖いのだが。アレクシスさんのルーカスさんへのあたりは強いような気がする。ルーカスさんはひっと悲鳴を上げて、ちょっと小さくなった。なんだろう、尻尾が垂れているのが見えるような…。凄く犬っぽい。

『お、俺今休憩中です!』

『ええ、それは知ってます』

『演奏、聴かせてもらいに来たんですっ』

『ああ、なるほど』

 そう言って、私の方ににっこり笑いかけた。

『粗相をしたら遠慮なく殴ってくださいね』

『えっ…』

 アレクシスさんは扉を開けて、軽く礼を取った。…アレクシスさんは、一番怒らせてはいけない人な気がする。だってルーカスさん、ヴェルよりもアレクシスさんに怯えてる。



 演奏する日が決まってから、練習時間を増やした。一回一回を本番だと思って、一生懸命弾く。

 無意識のうちに呼吸が浅くなる。浅く、長く。時折息を止めて、吸って吐いて。呼吸はリズムになる。

 鍵盤から指を離して、すうっと息を吸い込む。すぐ近くで、ふう、と息を吐き出す音がした。

『…聴き惚れてしまいますね、職務中だと困ります』

 ルーカスさんが、困ったように笑った。

『前聴いた時より、ずっと素敵でした。また、聴きに来てもいいですか?』

『ありがとうございます。ええ、どうぞ』

 そう言うと、エルが甘えるように頭を足に擦り付けてきた。

『エルもまたおいで』

 頭をよしよしと撫でると、すっと目を細めた。今度はエルのお気に入りの曲を弾いてあげよう。

 しかし何というか、ちょくちょく団長さんもフェルステルさんもリュゼも部屋に訪れるようになって、若干部屋が聖騎士の溜まり場みたいな感じになってきた。エルも来るならニルさんも来るかもしれないし。人が沢山いるのは楽しいからいいけど。

 ただ――なかなかヴェルとは2人きりにならなくて、ちょっと距離が離れたような気がして。それが少しもどかしいと感じてしまっているのが、なんだか恥ずかしかった。

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