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70.囮〈side:ヴェルフリード〉※

 スグルが庭に出るようになって今日で4日目になる。

 彼女は今日は白いワンピースを着て、茶色い上着を羽織っている。そろそろ聖都も寒くなってくる季節だ。ブーツになって些か歩きやすくなったのだろう、初日の危なっかしい歩き方に比べるとだいぶマシになった。踵の高い靴を履いていると、普段よりも顔が近い位置にあって新鮮ではあるが、妙な緊張感もある。

 階段を降りる彼女に手を貸してやりながら、周囲に探知術式を展開させる。前方の警戒はフェルステル、後方の警戒はこちらで行う。

 術式を展開させる際はいつもスグルの肩がぴくりと反応する。この感知能力は得難いものだと理解はしているが、出来ることなら血を見るような場所には立って欲しくはなかった。



『や、また会ったね、お嬢さん』

 毎日毎日、この男は暇なのだろうか。

 1階の廊下には、黒髪の若い男が立っている。彼は先々代の聖帝の妻の親族にあたる男だ。名前は特に興味が無いので覚えていない。今後も覚える気もない。

『また今日も名前を教えてくれないの?』

 幸いスグルもこの男には好意をかけらも抱いていないらしい。彼女にしては珍しい程険悪な視線を男に向けている。

『…』

 彼女は無言で男の脇を通り、真っ直ぐ庭へと歩く。いつもはここで男も諦めるのだが、今日は諦めが悪く、後ろを付いてきた。

『お嬢さんってば。ね、庭でいつも何してるの?』

 苛々する、斬り捨ててやりたい。ちらりとフェルステルを見上げるが、目で制された。だが、フェルステルもかなり苛ついているように見える。

『この後お茶しない?美味しい茶菓子があるんだけど』

 まさか甘味に釣られたりはしないだろうな、と若干疑いの眼差しをスグルに向けるが、彼女は眉間に皺を寄せて真っ直ぐ前を見据えていた。

『いいえ、結構です』

 低い声で言い放ち、庭へと足を踏み入れる。風で彼女の短い髪がふわりと揺れた。庭はシュルツの花の香りで満たされているが、彼女の髪からは別の…良い香りがする。無意識に顔を寄せそうになるのを抑えて、探知を庭の奥までかけた。今日も特に妙な気配は感じない。

 東屋に着くと、彼女はごく自然に、いつも通りに椅子に腰掛ける。そしてその隣に、何故か付いてきた男が平然と腰掛けた。

『今日くらいお話ししてもいいでしょ?』

『……』

 スグルは男の方に困ったような視線を向ける。彼女は初日以降、男に対して殆ど口を開かなかった。今までは、ただ礼を取って横を素通りする、ということを徹底して行なっていたが、ここまで来るのは想定外だったらしい。

『手に持ってるのは?…何それ、暗号?君どこの家の子?』

 この苛立ちは、どうしたら抑えられるのだろう。ここまでの抑えようのない苛立ちを覚えたのは初めてだ。どうにもスグルが関わると上手く感情が制御できない。彼女が居なければ腕の一本くらい切り落としていたかもしれない。

『…ヴェンデルス殿』

 フェルステルが視線を前に向けたまま、静かに男に声をかける。自分は孤児で地位など聖騎士としてのものしかないが――フェルステルはそれなりに高位の貴族の家の出だ。彼ならば無礼と一蹴されることもないだろう。

『無礼を承知で私から申し上げますが…彼女は宮廷楽士です。貴方よりも地位の高い人間だ。手出しはしないで頂きたい。敵に回したくない相手を敵に回す事になりますよ』

『宮廷楽士?』

 驚いたような様子の男はスグルの顔を見つめて、そのまま彼女の手を取った。

『こんなに手も小さいのに?』

 思わずその手首を掴む。加減が出来ず、みしっと音が鳴った。

『いっ』

『まあ、その前に――番犬に噛み殺されると思いますがね』

 視界の端で、フェルステルが楽しそうに嗤ったのが見えた。

『手を離してやれ、エインヘイル。腕が折れるぞ』

『…は、失礼しました』

『…エインヘイル…?』

 手を離すと、男は愕然とした顔でこちらを見上げてきた。フェルステルは今敢えて、エインヘイルと口にした。聖都では珍しい姓は、10年前の事件に直結する。

 自分がこの国の人間にどう思われているのかは分かっている。事実自分は親を殺した。しかも大衆の前で、膝を折らせ、屈んだ背中を足で踏み付け、動きを封じて首を落とした。

 感情の欠片も無い、血の通わない生き物。そう陰で言われ続けてきた。それ程自分の所業は罪深い。

 だから彼女があの話を聞いた後でも、自分に対する態度を変えなかったのが信じられなかった。気にしていない、嫌いにならない、と微笑ったのが。…スグルは自分には綺麗すぎる。

『お引き取り頂いてもよろしいですか』

 低い声でフェルステルが威圧する。視線は前に向けられたまま、一切動かない。

『…しょうがないなぁ。じゃあまたね、お嬢さん』

 懲りずに男は素早くスグルの手を掬い上げて、甲に唇を落とした。ぷつりと理性の糸が切れそうになるのを精神力で抑え込む。思わず剣の柄に指がかかった。

『君の演奏が聴けるのを楽しみにしてる』

 彼女の耳に顔を寄せてそう告げた男は、こちらが剣を抜く前に立ち上がり、庭へと姿を消した。次顔を見たら即殺す、一瞬で首を刎ねてやる。

『落ち着け、らしくねえぞ』

 フェルステルがちらりとこちらに視線を投げた。一度目を閉じて、息を静かに吐き出す。

『…ヴェル?』

 スグルがきょとんとした顔でこちらを見上げた。彼女の顔を見下ろして精神を落ち着ける。

『…悪い』

 そう言うと、彼女は困ったように笑って首を振った。

『ううん、…ありがとう。フェルステルさんも、ありがとうございます』

『いや。今日は一段としつこかったな』

『ええ…暇なんでしょうか』

『まあそれもあるかも知れんが、単純に好意を寄せているんじゃねえか?あれは』

『面白がっているだけでしょう』

 スグルはそう苦笑するが、正直彼女の答えは当てにならない。自分も他人のことは言えないが、彼女は鈍い、と思う。贈られた櫛の意味が分からない位には。渡した時には慣習について知らなかったようだが、後からあれ程丁寧にフェルステルが教えたと言うのに、何故思い当たらないのか。もっと分かりやすく、首飾りでも贈れば良かったのだろうか。リーゼロッテが警護につくようになってからは2人だけで話す機会もなくなり、贈物の意図については話せていないままだった。だがまあ、リーゼロッテの存在のお陰で、隣で寝ろと言われることもなくなったので感謝はしている。時折寝返りを打つ彼女が心臓に悪くて休んだ気がしない。


 スグルは楽譜を開いて視線を落として、譜面を目で追う。やはりこちらの楽譜は彼女の世界の楽譜とは異なるらしく、リーゼロッテの手を借りて、数日かけてやっと読み解いたらしい。苦心しながらあちらの楽譜に書き換えて、今はその楽譜を読んでいるようだった。五線譜、というらしいが、自分には線の上に黒い点がただ並んでいるようにしか見えない。元々楽譜は読めないが。

 彼女は楽譜を読みながら、たまに指を微かに動かす。その手は小さく華奢だが、ディルネを弾くせいか指が長い。おそらく身長の割には大きい方なのだろう。明らかに大人の手の形をしているとは思うが、幼く見える彼女にはどこか不釣り合いで、それがより彼女を年齢不詳に見せているように感じた。

『それは、何の曲なんだ?』

 フェルステルの問いに、スグルが顔を上げる。

『ヴィンディリア夜曲、です』

『ああ、あの曲か。聴いたことはあるのか』

『いいえ。でも多分、弾けないので…弾けるように、調整してみようかと』

『弾けない…?』

『指が届かないんです』

 スグルは困ったように笑って、手を拡げる。こちらの人間の手の大きさが基準になっているのなら、彼女には弾けない曲もあるだろう。

 不意に彼女はこちらに向き直って、私の手を取った。手のひらを合わされて、少々困惑する。…何をされているのだろうか。

『うーん』

 彼女はそのまま、小さく唸り声を上げた。手の大きさを、比べられている気がする。彼女の手は私の手の第一関節に届かない。

『ふっ』

 反対側でフェルステルが吹き出した。この男もそう笑うような男でもなかったと思うのだが。スグルの前だとよく笑う。

『面白い顔になってるぞ』

『…』

 自分がどういう顔をしているのか分からないが、思わず眉間に皺が寄る。スグルはきょとんとした顔でこちらを凝視していたが、拗ねたような顔で『見逃した』と呟いた。それに少しだけ安心する。

『…離せ』

 スグルはむっとした顔で手を離した。そんな顔をされても困るのだが。


 いつも通りの、穏やかな日々の一部。

 スグルが戦うことを選んだ以上、彼女の意思を尊重すると決めた。そして、何があっても守ってやろうと。それで自分が死ぬようなことがあっても構わないと。

 だが他者の為に躊躇なく血を流す姿を見ると、どうしようもなく苦痛に感じる。

 離された彼女の手のひらには、深い傷痕がある。かつて自分の為に、血を流した時のもの。それを見ると…罪悪感と、自責の念と、感謝と。それから、喜びを感じると言ったら――彼女は軽蔑するだろうか。

 その手が再び楽譜をなぞるのを眺めながら、ふとそう考えて、視線を逸らした。


 ふと、背後の生垣の向こうに気配を感じる。フェルステルと一瞬視線が交錯し、直後その気配が動いたのに、ほぼ無意識に身体が反応した。

 その気配から真っ直ぐスグルに向かって短剣が投擲されたのとほぼ同時に剣を抜き、後ろへと駆け出す。背後でフェルステルが短剣を弾く音がした。

 生垣を斬り抜けて、そこに立っていた黒い服の男に飛びかかる。男が腰の剣を抜く前にその両の腕を斬り落とし、手袋をはめた手を男の口内に突き入れた。軽く手を捻り、顎を外す。

『がっ、あ』

 そこまでやって、相手があまり強くはない事に気が付いた。死なれても困るので、適当に腕は止血しておく。術式の紐で身体を縛り上げながら、耳の通信機を起動した。

『…捕縛しました』

 フェルステルに通信すると、『ああ』と返事が返ってくる。

『アレクシスを呼んだ。引き渡したら戻れ』

『はい』

『手応えは』

『弱いです。正直カスケードが仕向けたものとは思えません』

『そうか、分かった』

 一度通信を切って、剣を鞘に納める。両手から手袋を引き抜いて、丸めて男の口にねじ込んだ。声にならない音を喉の奥から漏らしながら、男は逃亡しようともがいている。その男の背中に足を踏み下ろし、動きを封じた。適当に止血した腕からびしゃりと血が飛び散り、苦しげな呻き声が漏れる。まるで手足のない虫のようだと、頭の片隅でぼんやりと思った。

『何してるんですか』

 声がした方にちらりと視線を向けると、青い髪の男が立っていた。呆れたような顔でこちらに歩いてくるアレクシスに『早かったな』と声をかけると、相手は苦笑する。

『準備はしていたので。副団長から、事前に連絡は貰ってましたから』

 アレクシスはそう答えて、男のすぐ側に膝をついた。どうやら自分が気付く前に、フェルステルはこの男の存在を探知していたらしい。男の黒い髪を、白い手袋をはめた手が掴み上げる。

『ああ、顎も外したんですか。容赦無いですね』

 冷たい青い目が、真っ直ぐ男の目を覗き込んだ。口角が微かに持ち上がる。

『やり過ぎですよ、貴方らしくない。しかしここまでやってくれると、グレイプニル君の手を借りる必要もなさそうです』

 アレクシスは更に上から術式の紐で男を縛り上げると、立ち上がってこちらを見下ろした。

『あとはこちらで引き取ります。…彼女の前に戻るなら、血は落とした方がいいと思いますよ。どうしたんです、いつもはそんなに返り血は浴びないでしょう』

 白い騎士服には、斜めに血飛沫が飛んでいた。

『…少々、苛ついていた』

 術式で血を払いながらそう返すと、アレクシスは面白そうに笑った。

『貴方がですか?はは、この男も運が悪い』

 アレクシスはくすくすと笑い声をあげながら、呻く男を袋に詰め込み、地面に転がっていた腕も回収する。そして術式で、そこら中に飛び散った血痕を消し去った。この男は近衛ではあるが、本来の性質は第8部隊寄りだ。音もなく忍び寄り、その痕跡も完璧に消し去る。冷徹に任務を遂行できる気質は、間諜というよりは暗殺の方が向いているかもしれない。

 彼に背を向けて、東屋へと歩いて戻る。身体からは僅かに血の匂いがして、それが少しばかり不快だった。


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