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57.決意と覚悟

 部屋に戻ると、既にテーブルには食事の用意がされていて、更にはディルネまで置かれていた。ディルネが大きいので部屋が狭くなったような気はするが、それでもまだ部屋は広い。

『凄い、どうやって、運んだの?』

『一時的に転移妨害の結界を解いて転移させた』

『む…?』

『…転移させた。好きに弾いていいが、先に食事を摂れ』

『うん!』

 色とりどりの料理に胸が高鳴る。とてもお腹が空いていたので、いっぱい食べられそう。席に着くと、向かいにヴェルも腰掛ける。

『アレクシスさん、は?』

『ああ、私は後程摂りますので、お気になさらず。ごゆっくり』

 アレクシスさんは微笑して部屋から退出してしまった。ううむ、アレクシスさんはご飯をゆっくり食べられているのだろうか…。

 今日のお昼ご飯は、いつものパンと、カラフルな野菜とお魚のカルパッチョみたいなものと、小さめのステーキが野菜に包まれたもの、それから薄い黄色のスープ。お高いレストランの料理みたいでちょっと緊張する。小さく切ったお肉を口に入れると、驚く程柔らかくて感動した。凄い、スーパーで売ってる安いお肉と全然違う。

 食べ終わると、ヴェルが食器をワゴンに乗せて外へと運び出してくれた。本当に、ここの料理は美味しい。アルネイアの料理はたまに不思議な味付けのものがあったのだが、聖都の料理は味付けも優しくて私の舌にも合う。

 部屋の真ん中に置かれたディルネに視線を向けると、妙な高揚感を感じてしまった。…ちょっと久し振りに弾くので、緊張する。

『ねえ、弾いても、いい?』

 そわそわしながらヴェルに問いかけると、小さく笑って、『ああ』と頷いた。



 楽譜が無いと、自分の記憶だけが頼りだ。そして、記憶は常に褪せていくもの、不確定なもの。

 指を無心で動かすことで、その記憶を手繰り寄せていく。記憶が曖昧でも、時々指が覚えている。だが私も全ては記憶出来ていないから、きっと間違えている所もある。それが酷くもどかしい。記憶がぎりぎりあるうちに、楽譜を書いた方が良いだろうか。弾きながら書いていくとなると、かなり大変な作業になりそうだ。

 指がつっかえて上手く弾けないところを何度も通って練習していると、少しだけ記憶が鮮明になってくるような気がする。深い海の中を、何かを探して彷徨うような…そんな感覚。

『そろそろ、休んだらどうだ』

 肩を叩かれて、意識が浮上した。

『っ、あ、うん』

『茶を入れよう』

『ありがとう』

 肩から力を抜いて、ふう、と息を吐く。少し集中しすぎてしまった。ヴェルの後ろに付いて行って、茶缶が用意されるのを眺める。今度は緑茶。ふと手を止めて、ヴェルがこちらを振り向いた。

『茶は、どちらが好みだ?飲みたい方を淹れる』

『どっちも、好き。ヴェルが淹れてくれるの、美味しいから。今回は緑茶でいいよ』

『そうか』

 ヴェルは少しだけ笑って、ポットに緑茶の葉を入れた。お湯を注いで、テーブルへと持って行く。注がれたお茶に口をつけて、幸せを噛み締めて息を吐き出した。

『ヴェル、お茶淹れるの、上手だね』

『そうか』

『おいしい』

『…それは、よかった』

 微かに笑う。なんだか、凄く穏やかな時間だ。気を張っていることの方が多かったから、力が抜ける。

『…お前でも、あんな風に…練習をするんだな。少し意外だった』

『…?』

『当たり前と言えば当たり前か』

 今朝、私がヴェルに抱いたのと同じ感想だ。ふふ、と笑うと、ヴェルは不思議そうにこちらを見た。

『何だ』

『ううん、なんでもない』

 秘密の話だ、黙っていないと。カップをソーサーに戻して、ヴェルに尋ねる。

『聴きたい曲、ある?』

『…いいのか?練習していただろう』

『うん、大丈夫。違うの、弾きたいから』

 席を立とうとした時、ヴェルの纏っている空気が鋭く変わった。

『動くな』

 そう言って急に立ち上がると、背後に庇うように前に立って、じっと扉に視線を注ぐ。剣を抜いてはいなかったが、柄を握る手に力がこもっているのはわかった。

 不意に、大きな音を立てて扉が開かれて、ヴェルの空気が一瞬鋭さを増して――直後、すっと弛緩した。おっかなびっくり背中から顔を出して、扉の方を伺う。

『よう』

 長い金髪に、真っ赤な瞳。部屋の入り口にはクラウスが立っていた。ゆったりとした白い服を着ていて、特に装飾なども付けていないのだが、妙な威厳がある。アレクシスさんがその背後から、眼前の金髪の後頭部に呆れたような視線を向けていた。

『陛下、ノックくらいはして下さい。女性の部屋なのですから』

『俺の城だぞ、別に良いだろうか』

『良くありません』

 溜息をつきながらぼやくように言ったアレクシスさんに平然とした顔で返して、クラウスがずんずん遠慮なく部屋の中へと入ってくる。その背後からアレクシスさんも部屋に入って、疲れた顔で扉を閉めた。なるほど、ヴェルはこの気配を感じていたのか。良くわかったな…。ヴェルは軽く頭を下げて、すっと私の斜め後ろに立つ。クラウスは私の前に立つと、軽く首を傾げた。ゆるく結われた長い髪がさらりと揺れる。

『体調はどうだ』

『大丈夫、です』

『ふむ、そうか。お前の血は貴重なものだからな、身体に不調を来した場合は直ぐに報告しろ』

『…はい』

『実験についても聞いている。その上でお前に頼みがある。今日はその件で来た』

『はい?』

『単刀直入に言うが。術式の気配と種類が判別できるよう、訓練を積んでもらいたい』

『陛下』

 その言葉に返事をする前に、ヴェルが口を開いた。

『それは、彼女を、戦場に立たせるという意味ですか』

 静かな声には、感情は篭っていない。だが何となく振り返るのが恐ろしい。クラウスは軽く片方の眉を上げて、面倒そうな顔をした。

『この娘の血は体外に持ち出すと効果が無いのだろう。それに探査や探知で見えてこない術式の気配を察知する、鋭い感知の力も得難い能力だ。有効に使うのなら前に出てもらうしかあるまい。それが分からんお前ではないだろうが』

『…しかし』

『十分に警護はつけた上でだ。その為のお前だろう』

『……承服しかねます』

『決めるのはお前じゃない』

 クラウスは静かな眼差しをこちらに向けた。

『スグル。お前は、戦場に立つ覚悟はあるか』

『…?』

 良く分からなくて首を傾げる。何に、立つ覚悟だと?

『ああ…』

 クラウスは私の前に膝をついた。目線が同じくらいになって、真っ赤な瞳が真っ直ぐに私の目を見据える。

『戦う、は分かるか』

『はい』

『戦う場所に、行ってもらいたい』

『……』

『お前の力が必要な局面が必ず来る。聖帝としてお前に頼みたい。やれるか』

 きっと、命令することも出来るんだろう。無理矢理引っ張って連れ出すことだって、できるはず。それなのに敢えて『頼む』という言葉を選ぶのは、私の意思を尊重してくれている…ということ、だと思う。

 きっとこれは、私にしかできないことだ。ここに、私の代わりは居ないのだから。

 あまりに理不尽に落とされて、沢山辛い思いをして、怪我をして。でも悪いことばかりではなかった。いつも誰かが助けてくれた、優しくてくれた。ヴェルや、ニルさんや、リュゼ、エル、奇術団のみんなや宿のおじさんとおばさん。誰かに支えられて、なんとかここまで生きてこられた。

 ただ無為に日々を過ごすよりも、そういう誰かの為に、何か…恩返しがしたい。

『やり、ます』

 恐怖を押し殺しながら言うと、クラウスはふっと静かに笑った。いつもとは違う、優しくて気品のある笑み。

『そうか。…聖帝として、管理者として感謝する』

 クラウスは立ち上がって、ちらりと私の背後に視線を向けた。

『問題ないな?』

『……はい』

 絞り出すような低い声が後ろから聞こえる。背後に視線を向けると、ヴェルは無表情だったが――紺色の瞳が、どこかいつもよりも暗く見えた。それに少しだけ目を細めてクラウスは頷くと、こちらを見下ろす。

『それでは、スグル。明日からフライとゲーゼの下で感知の訓練を行え。血液の提供も続けて貰う』

『はい』

『今日は1日休んでいい。旅の疲れを癒せ』

 こくりと頷いてみせると、クラウスはしれっと室内に置かれていた豪華な臙脂色の2人掛けのソファに座った。なんとも金色の髪と良く合っていて、威厳が増している。てっきり直ぐに出ていくものと思っていたのできょとんと見ていると、クラウスは足を組んで、肘掛にゆったりと体重を預けた。何故くつろぐ。

『お前、弾けるんだろう?聖獣に聞いた。弾いてみせろ』

 傲然と言い放つと、彼はニヤリと笑った。む、何となく腹立たしい。

『…どういう曲が、好きですか』

『ヴィンディリア夜曲』

『知りません』

『何、弾けんのか』

『あちらの、曲しか』

『つまらん、好きに弾け』

『……』

 こいつ、馬鹿にしているのか…?ならば思い知るがいい、我々の世界の作曲家の偉大さを!

 むっとしてディルネの前に座って、軽く倦怠感の残る腕を振る。深呼吸して、苛立ちを遠くに押し遣った。感情はいつだってダイレクトに音に現れる。さっきまで練習していた曲だ、落ち着いて弾けば大丈夫。鍵盤に指を這わせて、すう、と息を吸い込む。

 リストの、『ラ・カンパネラ『パガニーニによる大練習曲』第3番』。凄く有名な曲。華やかさのある旋律、難易度が高くて手もかなり酷使する。

 柔らかい高音から入って、優しいメロディーを奏でる。鐘の音を響かせるように、丁寧に音を追いかける。何となくだが…どこか物悲しいような、そんな気がする。華やかさの下に悲しさが潜んでいるような、そんな音。テーマの部分はそれがより強くなるような気がして、指先に感情がこもるのだ。

 母の演奏に近付きたくて一生懸命真似て見せたら、「自分なりに弾きなさい」と怒られた。それ以来、ずっと、自分の中での感情の込め方というのを模索し続けている。心臓がぎゅうっと掴まれるような、体の内側をこじ開けて音に乗せるような。自分の中で音に感情を乗せるというのは、そういう感覚だ。

 最後の和音を叩きつけるように弾いて、大きく息を吸い込んだ。集中の糸がぷつりと切れて、息を吐き出すのと同時に身体から力が抜ける。

 鍵盤から指を下ろして、椅子に座ったままちらりとクラウスに視線を向ける。どうだ、素晴らしい曲だろうが!とドヤ顔をして見せると、相手はどこか呆然とした顔で固まっていた。そのまま沈黙が流れて、こちらとしても反応に困ってしまう。ちらりと背後のヴェルを振り返るといつもの無表情、遠く扉の近くに立つアレクシスさんもいつもの静かな表情で何も言わない。

『…あの』

 小さく声をかけると、赤い目がゆっくり瞬きする。

『…ああ』

 肘掛から身体を起こして、クラウスは大きく息を吐き出した。

『お前、あちらでは楽士をしていたのか』

『いいえ』

『…ここまで弾けてか。鳥肌がたった。いい腕だな』

 そう言って、何か考え込むように口元に手を当てる。長い金色のまつ毛が揺れて、頬に影を作った。本当に綺麗な顔してるなあとぼんやり見ていると、鋭い瞳がこちらを向く。

『お前、うちの楽士になれ』

『…?』

『宮廷音楽家、というやつだな。特に興味も無かったが、確か先々代あたりから空席のままだ。お前の存在をどう扱うか迷っていたが、丁度いい。俺の愛妾と言うよりは良いだろう?』

『…陛下、そんなことを考えていたんですか…』

 どこか呆れたように、アレクシスさんが呟く。背後で若干ヴェルの空気が鋭くなった、ような…。今クラウスは何と言ったのだろう。

『事情を知っている者などほんの一握りであろうが。ただ保護をしているなどあまりに怪し過ぎるだろう?たった1日で妙な噂が立った。何か良い保護の理由を探していたのだ、これでもな』

 クラウスはふっと笑って立ち上がる。

『…ええと、私、何したらいい、ですか…?』

 うちの楽士、という言葉の意味を図りかねて、首を傾げる。

『難しく考えなくとも良い。俺に弾けと言われた時に弾け。取り敢えずはそれでいい』

『…はい』

 それだけで、良いんだろうか。クラウスはいつもの人の悪そうな笑みを浮かべている。彼の笑みは、何か企まれているような気がして、見ていて落ち着かない気持ちにさせられる。

 クラウスはこちらまで歩いてくると、ディルネに頬杖をついてこちらを見下ろした。

『他には何が弾ける?』

『…いろいろ』

『数は?』

『…数えたこと、ないので、わかりません』

『そうか。公務の合間に時々顔を出そう。疲れを癒しにな。…仕事を抜け出す良い口実ができた』

 笑った男は乱暴に私の頭をガシガシ撫でると、アレクシスさんによって開かれた扉から颯爽と出て行った。アレクシスさんもため息をつきながら一緒に部屋から出て行く。

『嵐…』

 嵐のような男だな…。思わず小さく呟く。ちらりと背後に立つヴェルを振り返ると、彼は眉間に皺を寄せながらこちらに近付いて、ディルネに手をついた。

『何故、承諾した』

 静かな視線をこちらに向ける。怒ってはいないと思うが、少し、辛そうな眼差し。それでも私は、決めた事を覆すつもりはなかった。

『私にしか、できないことだから』

 そう言うと、ヴェルは深く息を吐き出して、目を閉じる。

『お前がそこまでする必要はない』

 ヴェルは膝をついて、右手で私の左手を取った。手のひらを横切る傷痕を、親指がなぞる。ヴェルの身体に流れた魔獣の血を中和する為に傷付けたもの。傷痕を見下ろす紺色の目は、深海のように静かで、どこか冷たかった。

『お前が傷を負うのを…苦しむのを、見たくない』

 それは、私も同じだ。ヴェルが怪我をするのは嫌だし、苦しむのも嫌だ。ヴェルは強いから、滅多な事では怪我などしないだろうけど。

 初めて彼に会った時のことを、今でも時折思い出す。胸を貫通する深い傷と、どくどくと溢れ出る血液。…強いからって、死なないわけじゃない。怪我をしないわけじゃない。

 ヴェルが辛い思いをするのも、痛い思いをするのも、私は嫌だ。

 死なないでほしい。幸せになってほしい。

 私が前に出ることでそれができるなら、皆が助かるなら、断る理由は無い。

『それでも、やりたい』

 決意を込めて言葉にする。怖くない訳じゃない、本当はすごく怖い。前に出ると言うことは、誰かが血を流すのを見るということ。それは敵かもしれないし、味方かもしれない。それに、自分かもしれない。

 ヴェルはこちらに真っ直ぐな視線を向けると、私の恐怖心を見透かしたように苦笑した。

『そうか。…それなら、私も覚悟を決めよう』

『覚悟…?』

 ヴェルはそれには答えず、静かに笑う。穏やかで、でも目に力があって、凄く綺麗な笑みだった。

 思わず見惚れていると、ヴェルは何事も無かったかのようにいつもの無表情で立ち上がる。乱れた私の髪を整えて、ヴェルは軽く手を引いた。

『……今日の演奏も素晴らしかった。疲れただろう、休め。甘い物でも用意させようか』

『…う、ん』

 頭がうまく働かない。頬に集まる熱がどうしようもなくて、俯いてぎゅっと目を閉じた。

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