56.実験
寒い。
ぞわっと肌を駆け上る寒さで目が醒める。驚く程柔らかいベッドと、豪華な天蓋。自分がどこにいるのか分からなくて、一瞬混乱した。
『起きたか』
声をかけられて、ゆっくりと起き上がる。昨日隣で横になっていたはずのヴェルは、ベッド横に置かれた椅子に腰掛けて、こちらに背を向けていた。
『ヴェル、ちゃんと、寝た?』
『ああ』
『ほんと?』
『ああ、さっきまで横になっていた』
確かに、ほんの少しだけ…布団の中があたたかい。
結局、かなり寝た後だったはずなのだが、普通に眠りこけてしまっていたらしい。あたたかい大きな身体を思い出しそうになって、必死に首を振ってそれを意識の外へと追いやる。
部屋の中は既に明るい。窓がない部屋を、と言っていたのに、この部屋には窓がある。
『今、何時?』
『7時ごろだ』
ふうん、と頷いてベッドから出る。ぺたぺたと裸足で室内を歩いて、窓から外を伺う。だが、そこからは空しか見えなかった。
『…それは、窓ではない。外の景色を…空を映しているだけだ』
『へえ…すごい』
空をぼんやり眺めていると、肩に上着がかけられる。
『腹が空いているなら、食事を用意させるが』
『うん、食べる。一緒に食べよ』
『…まあ、いいだろう』
湯を浴びて着替えてから、部屋に運ばれた食事をテーブルに広げて、2人だけで食事を摂る。…ニルさんやエル、リュゼはちゃんとご飯食べているだろうか。アレクシスさんも誘ったのだが、『もう食べましたので』と断られてしまった。
出されたのは、野菜のスープと、色々な味のパン。パンの方の味付けは今まで食べたものとあまり変わりはない気がする。ベーコンみたいなものが挟まったやつが凄く美味しい。スープは緑色の、トマトみたいな味のもの。これは以前、あちらでは日本にあたる島で食べたことがある。それに比べると、どことなく優しくて品のいい味。
昨日のフルコースが、緊張でよく味わえなかったのが残念だ。きっととても美味しかったんだろう。さっさと食べ終えたヴェルが静かな視線をこちらに向ける。
『今日は、研究員が昼前に来室する。その後は少々実験に付き合ってほしいそうだ。私の目で見て問題があれば止めるが、お前も無理だと判断したら正直に言え。いいな』
『…うん』
そう言えば、血を抜くって言っていた。緊張する。こくりと頷くと、ヴェルは小さく苦笑した。
『そう怯えるな、後の時間は部屋から出なければ好きに過ごしていい。…何か、やりたいことはあるか』
『うーん…』
特に思いつかない。本でも読んで勉強するか、それとも久々にゆっくりできる機会なのでダラダラするか。正直ダラダラしたいけど、ヴェルがいるのでちょっと恥ずかしい。
『…何もないなら、ディルネでも運ばせようか』
『…いいの?』
『ああ』
基本的に人前で弾いてばっかりで1人で黙々と練習する機会がなかったので、ちょっと嬉しい。それなら、部屋にこもりっきりでも全然辛くない。しかしあんな大きなもの、どうやって運び入れるんだろう。ぼんやり考えながらぺろりとパンをふたつ平らげると、ヴェルはちらりとこちらに視線を向けた。
『茶は、飲むか』
『うん』
どうやら部屋にある3つの扉のうち1つは、簡易的なキッチンのようなものだったらしい。側を離れないでください、とアレクシスさんに言われていたので、ヴェルの後ろに付いて、お茶を入れる手元を覗き込む。慣れた手つきで紅茶を淹れる姿は、なんだか執事さんみたいだ。
ヴェルの淹れてくれる紅茶は美味しい。たいして味がわかる方ではないが、苦味とか渋みとかなくて、ふんわりといい香りが広がる。
『美味しい』
席に戻って一口飲んで、ふう、と息を吐き出す。ヴェルは紅茶を美しい所作で口にすると、すっと音を立てずに立ち上がった。
『着替えてくる。少々席を外すが、代わりにアレクシスを中に入れる。構わないな?』
『うん』
『では』
退出したヴェルに代わって、アレクシスさんが中に入ってきた。彼は軽く頭を下げて、お茶を飲む私の横に立つ。アレクシスさん、ずっと部屋の外に居たんだろうか。表情はとても静かで、疲労は見えない。
『お茶、どうぞ』
『…はい?』
ヴェルが淹れてくれたお茶が残っていたので、カップに注いで、テーブルの向かいに置いて促す。
『どうぞ』
『…それでは、いただきます』
逡巡するような間があって、アレクシスさんは向かいの椅子に腰掛ける。カップに口をつけると、微かに笑ってこちらを見た。
『美味しいですね。あなたが?』
『あ、いいえ、ヴェルが』
『ヴェルが…?』
驚いた顔をして、カップを見下ろす。
『…意外ですね』
『そうですか?…なんでも、できるから』
『まあ、大抵のことはできますからね。…ただ、誰かのためにお茶を淹れるというのが、少々意外だな、と。他者にあまり興味が無い男ですから』
『そう、なんですか?』
『ええ、…というより、自分にも興味が無さそうというか。長い付き合いですが、私もあまり彼の笑った顔は見たことがありませんね』
『……』
…少しは気を許してくれていると、思っていいんだろうか。返す言葉に困ってお茶を飲むと、アレクシスさんは穏やかな笑みを浮かべた。
『…ヴェルは、よく笑いますか』
『あんまり笑わない、ですけど…たまに、そんな風に、笑います』
『そんな風?』
『…穏やか、に』
アレクシスさんは一瞬きょとんとした顔になって、嬉しそうに笑みを深くした。
『そうですか。…それは良かった』
その表情に、こちらも笑みがこぼれる。ふと気になっていたことを思い出して、尋ねてみることにした。
『アレクシスさんは、いつから、ヴェルと?』
どこか、他の人に比べると距離が近い気がするし、長い付き合い、と言っていた。いつ頃からの付き合いなんだろう。
『彼とは訓練兵時代からの同期です。…初めて会ったのは10歳の時ですから、かれこれ15年の付き合いになりますか』
カップをソーサーに置いて、アレクシスさんは少しだけ遠い目をする。
『本当に、初めて会った時から無愛想な男でして。話しかけても『ああ』『いや』『そうだな』くらいしか返ってこないんですよ。まあ今と大差ありませんか』
『ふふ、そうですね』
容易に想像できて笑ってしまう。きっと可愛くない子供だったんだろう。
『ただ、彼の成績は常に一番で。戦闘訓練も、座学…勉強も、群を抜いていた。普段一体何をしているのかと気になって、後をこっそり追いかけたことがあります』
『えっ』
『ここから先は、秘密ですよ?』
悪戯っぽく笑って、アレクシスさんは人差し指を唇に当てた。このジェスチャーは、こちらでも同じらしい。こくりと頷くと、アレクシスさんは言葉を続ける。
『彼はね、協会の庭で、ずっと1人で剣を振っていました。ただ無心に、ずっと。ちょっと意外でしょう?才能だけの人間だと思っていたので、その時は驚きましたね。…それから、彼を尊敬するようになりました』
静かに息を吐き出して、アレクシスさんはお茶に一度口をつけた。
『彼を追い越すのではなく、隣に立とうと努力しました。ヴェルと共に近衛兵に召し抱えられた時は嬉しかった。…まあ、彼が私を信頼しているのかどうかは、いまいち分かりませんが。こんな話、本人にはしたことありませんしね。防音結界が張られている中だからこそできる会話、というやつです』
ふふっと笑うアレクシスさんに、同じように笑いかける。
『きっと、信頼してます。ヴェル、いつもより、ピリピリしてないです』
『…そうでしょうか。分かりにくい男ですからねえ』
『…そうですね』
顔を見合わせて、ふっと笑い合う。
『あなたは、どこか…空気が暖かいですね』
『暖かい…?』
『ええ』
くすりと笑われて、なんだか照れてしまう。へへ、と笑って頭を掻くと、アレクシスさんは何事か小さく呟いた。
『…ヴェルが気に入るのもわかります』
『?』
『いえ、何でもありません』
小さな声は聞き取れなくて首を傾げるが、はぐらかされてしまった。アレクシスさんは柔らかく笑うと、飲み終わったカップをワゴンに下げて立ち上がった。
『一応護衛ですから、立っておきます。ヴェルは座っていても咄嗟の事態に対応できるでしょうが、私はそうもいきませんから』
『…はい』
彼は私の斜め後ろに立って、剣の柄に手を乗せた。
『…ヴェルが来るまで、彼の子供時代の話でもお話ししましょうか?』
『ききたい、です!』
悪戯っぽく言ったアレクシスさんに勢い込んで頷くと、彼は楽しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
それからヴェルが戻って来るまで、のんびりと2人で話をしていた。…面白い話を沢山聞いてしまって、ちょっぴり弱みを握った気分になる。部屋に戻ったヴェルの顔をニヤニヤと2人で見ると、眉間に皺が寄った。
『…何だ』
『なんでもない』
『なんでもありません』
『……』
胡乱な視線をこちらに向けるヴェルの横を通って、アレクシスさんは部屋の外へと退出した。扉が閉まる前に一瞬だけ目があって、笑い合う。ヴェルは眉間の皺をさらに増やしたが、それ以上追及はしなかった。なんだか、秘密を共有するのってドキドキして楽しい。
『…あと少しで、研究員が来る。準備しておけ』
『わかった』
茶器を片付けていると、ノックの音が5回響く。もしかしたら、回数を決めているのかもしれない。
『いいか』
『うん』
ヴェルが扉を開けると、よぼよぼのお爺さんが2人立っていた。2人とも大きな鞄を持っている。1人は真っ白な髪に、真っ白で真っ直ぐ伸びる長い髭。もう1人は茶色っぽいくるくるした長い髪に、同じくるくるとした長い髭。身長はやはり高いが、ヴェルよりは少し低いように見える。柔らかそうな紺色と暗い緑色のローブを着ていて、なんだか絵本に出て来る魔法使いみたい。
『どうも、初めまして、お嬢さん。主任研究員のフライじゃ』
白い髭の方のお爺さんが、ふがふがと髭の下からしゃがれた声を出す。その横の茶色い髭のお爺さんが、続けるように話しかけてきた。
『同じく、主任研究員のゲーゼじゃ。よろしくな、お嬢ちゃん』
白い方の髭のお爺さんがフライさんで、茶色い方の髭のお爺さんがゲーゼさん。『主任』研究員、とは何だろう。でも何となく偉い人なのかな、と思ってぺこりと頭を下げる。
『はじめまして、優、です。よろしくお願いします』
そう言うと、お爺さん2人は柔らかく笑う。研究員、というから、何となく怖いイメージだったのだが、思いの外穏やかな姿に安心した。
『中へどうぞ』
ヴェルが促して、室内の椅子に腰掛けて向かい合う。ヴェルは椅子には座らず、私の横に立った。
『さて、スグルさん。我々がお願いしたいのは、実験への協力と、血液の提供じゃ。ある程度事情は知っとるが、分からんことが多過ぎる。可能なことと、不可能なことを正確に把握しておきたいのじゃ』
『…?』
フライさんが説明してくれているのだが、難しい言葉が多くて、いまいちピンとこない。ちらりと隣のヴェルを見上げると、小さな頷きが返ってきた。彼が問題ないと判断するなら、問題ないんだろう。
『わかりました』
頷いて見せると、お爺さん達はほっとしたように息を吐く。
『すまんの、恩に着る。先に、血液を採取させてもらってもいいかの』
こくりと頷くと、ゲーゼさんがアタッシュケースみたいな形の木製の鞄を机に乗せて、ぱかりと開けた。中には意外としっかりとした作りのガラスの瓶や、注射器の類、チューブなどが綺麗に整頓されて入っている。こちらの医療技術がどれ程発展しているのか判然としないが(術式があるのであれば無用の長物と言われても仕方がない)、思ったよりは進んでいるのかもしれない。
ゲーゼさんはそこからガラスの注射器を取り出して、それに針を取り付ける。
『少し痛いかもしれんが、我慢してもらえるかの』
どこか申し訳なさそうなゲーゼさんにこくこくと頷いて、左腕を差し出す。
『…過去に、血を、採取されたことは?』
『はい、あります。あちらで』
フライさんはきょとんとした顔で瞬きをした。
『それは、何故じゃ?』
『ええと…』
健康診断なんて単語は知らないので、上手に伝えられる自信がない。
『…身体が、元気かどうか、みる、ために』
『ほう、ほう。興味深い!話を深く聞いてみたいのう』
『獣が居らぬと上手く話せぬのじゃろ?』
『ああ、そうじゃった!明日にでも連れて来るかの』
『そうじゃな、面白い話が聞けそうじゃ』
妙にテンションが高い。お爺さん達は楽しそうに話し合うと、にっこりと笑顔をこちらに向けた。ちょっと怖い。
『さて、血を抜くが…なに、ほんのちょっとじゃ。終わったら横の男に治して貰うといい。ここに居る人間で一番治癒が上手い』
『…は』
小さく返事をしたヴェルは、静かな視線を私の左腕へと向けていた。ゲーゼさんは注射器を持って、私の前腕部にゆっくりと正確に針を刺す。ちくりとした痛みと共に、血が注射器の中に溜まっていく。恐らく量は、20ccから30cc位。もっと抜かれるのかと思っていたのだが、そこでゲーゼさんは注射針を抜いた。直ぐに消毒液と布があてがわれる。
『これくらいで十分じゃ、ありがとうな、お嬢ちゃん』
幼い子にするように頭が撫でられる。…もしかしてクラウス、私の年齢を言っていないのでは。こちらを見ていたフライさんが、心配そうに問いかける。
『身体の調子はどうじゃ?』
『大丈夫です』
『もし調子が悪くなったら言うんじゃぞ』
『はい』
献血ではもっと血を抜く。かなり少量だし、支障はないだろう。血が止まったのを見計らって、ヴェルが治癒の術式で傷を塞いだ。それを見て、『相変わらず鮮やかじゃのう』と感心したようにゲーゼさんが呟いた。
『次に、少々、実験に付き合ってもらいたいんじゃが…隣室を使って、術式の気配を探ってほしい』
『わかり、ました』
フライさんに優しく手を取られて立ち上がる。とても紳士だ。部屋から出て、周囲をヴェルとアレクシスさんに固められながら、隣室の扉の前まで連れて行かれる。どことなく妙な気配のある部屋だ。
『この部屋、何か感じるかね?』
『…少し』
『扉を開けてみるぞ』
部屋の中へと入ると、その感覚が強くなる。
『どこが、一番強いかね?』
どこが、ど言われると難しい。ううむ、と唸って、部屋の中を壁伝いに歩いてみる。壁掛け時計まで差し掛かったところで、なんとなく気持ち悪い感覚が強まったように感じた。
『ここ』
指差してみせると、フライさんとゲーゼさんが何やら興奮気味に手帳に何か書き連ねる。
『どういう感覚がするかね?』
『うまく、いえない、です。気持ち悪い感じ』
『ふうむ、興味深い!それが何の術式かはわかるかね?』
『わかりません』
『別の術式で試してみよう!ああ、ちなみにそれは強力な防音の術式じゃ!』
『防音…?』
『折角じゃ、血で解除できるか試してみようではないか、のう、ゲーゼ!』
『おお!よいな!フライ!』
お爺さん達は軽い足取りでこちらまで駆けてきて、先程採取した血液を一滴、時計に垂らした。
『……』
『……』
『何も起きんな』
『そうじゃな』
『どういう原理じゃろうなあ』
『お嬢ちゃんが触ったらどうじゃろうか』
『それもそうじゃな。スグルさん』
『…?はい』
『ここ、触ってもらってもよいかの』
落とされた血痕が指さされる。頷いて、指先で触ってみたが…特に反応はない。
『ふうむ、鮮度の問題じゃろうか』
『直接傷口から流れていないと起動せんのかのう』
『…それはかわいそうじゃ』
『…なるべく身体に大きな傷は付けたくないのう…』
『…あの、別に、少しなら…大丈夫、ですけど』
『いかん!』
『そうじゃ!なるべく避けんと!最後の手段じゃ』
激しい口調で断られてしまった。しかしこのままでは埒があかない。
『…そうじゃ、舐めてみるのはどうじゃろうか』
『一応体液じゃしな…血に限定するのではなく体液で反応するのであれば、無理に血を流す必要もないのう』
『ほれ、お嬢ちゃん、ここ、舐めて見てくれんか』
『なめて…?』
首を傾げると、フライさんがぺろっと舌を出した。ああ、舐めろということか。壁掛け時計の横を舌先で舐めてみる。
『ふうむ、だめか…』
『やはり血液でないと駄目かのう』
『針と管を繋げて流してみるかの』
『そうじゃな、それならば小さな傷で済むのう』
『すまん、スグルさん、もう少しだけ血を貰ってもいいかの』
『はい』
『腕を出してくれ』
左腕を差し出すと、ゲーゼさんが管に繋がれた針を刺した。血が透明な管の中を流れて、ぽたりと時計に落とされる。妙な気配がふっと消えて、壁掛け時計からカチ、カチ、と音が出るようになった。
『おお!』
お爺さん達は小躍りしそうな勢いで語り合う。
『やはりこれならいけたか!』
『身体に接続しとらんと駄目なのじゃな』
『流れとらんと駄目なのかもしれんの』
『擬似的に心臓と血流を作って調べてみよう』
『そうじゃな、戻ったらそうしよう』
腕に刺しっぱなしだった針をヴェルが引き抜いて消毒してくれる。素早く指が動いて、傷を塞いだ。
『おお、すまんの!次は術式の種類が感知できるか実験じゃ』
『そうじゃな!』
結局その後は、興奮気味のお爺さん2人に頼まれて、2時間程かけて実験を続けた。術式の種類が分かるかどうか、どの位強いものなら感知できるのか。いくつかの段階に分かれたもの順番に試していく。終わった頃にはすっかりお腹も空いてしまった。
テンションが上がりきった様子のお爺さん達は、興奮気味に私の手を握ってぶんぶん振りながら、『恩に着る!』となんども言って、小走りに部屋から出て行った。…転ばないといいけど。非常に楽しそうに語り合いながら帰っていくお爺さん達を見送りながら、明日はどんなことをするんだろう、とぼんやり考えた。




