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45.心音

 お風呂から上がったヴェルは、ちらりと室内に視線を巡らせて、こちらを見下ろした。

『リュザフィールは』

『ご飯、買ってくるって…1時間くらい』

『随分長いな』

『…』

 黙って、座った膝の上に乗せた両手の指先に視線を落とす。気まずい。椅子に座っていると、必然的に正面からヴェルの視線を受け止めることになりそうで、ベッドマットに移動して腰掛け直しておいた。…というのに、ヴェルは黙って私の隣に腰掛ける。肩が触れるか触れないかの距離。ぽたりと、ヴェルの黒い髪の先から、水滴がベッドに落ちた。

『手を出せ』

 問答無用といった声音に、黙って右手を差し出す。親指の付け根側と、人差し指から小指までの第二関節に、少し深めの傷が平行に走っていた。短剣を握った時のもの。ヴェルは黙ってそれを見下ろして、傷に指を這わせて治癒の術式を編み上げて行く。深い深いため息をついて、ヴェルは手を離すと、鞄から取り出した包帯で固定して行く。ヴェルの術式でも、傷は完全には治せない。深い傷は激しく動かすと、傷口が開いてしまうことがある。

『無茶は、今後一切するな。わかったな』

 厳しい口調に、こくこく頷く。ヴェルは鋭い紺色の目を細めて、私の顔をじっと見つめた。

『…まだ、怪我をしているだろう。何処だ』

 やっぱり、バレていたらしい。しかし、その、腰とか太ももとかは、見せるのに物凄く、物凄く抵抗がある。まごついていると、ヴェルの纏う空気がどんどん鋭くなってきて、慌てて手を振った。

『えっと、その、ここと、ここにもあって、それはちょっと、あの、恥ずかしい…じ、自分で薬塗るから』

 腰と太ももを指差すと、ヴェルは片目をすがめて不機嫌そうに見下ろしてきた。

『そんなこと言っている場合か。脱げ』

『いや、その、』

『脱がされたくはないだろう。いいから脱げ。上からだ』

『う』

 半泣きで見上げても、ヴェルの厳しい顔は変わらない。肌着を着ている分、上はまだ脱ぎやすいけど、ズボンを脱ぐのはやだなあ…。唸り声を上げながら、シャツを脱ぐ。傷跡だらけの肌を見せるのが嫌で、身体を縮こませる。ヴェルは黙って手を伸ばして、肩口と、左腕の傷を先に治した。

『…これは?』

 左腕の前腕部の引っ掻き傷を見て、ヴェルが手を止める。

『…自分で』

『自分でやったのか?』

『…いろいろ、あって』

『…その辺りは後で聞く』

『う…』

『あとは…腰か?』

『うん…』

 肌着を軽くめくって、傷口を見せる。仕方のないこととはいえ、腰をなぞるヴェルの指がくすぐったくて死にそうになる。あと恥ずかしい、恥ずかしすぎる。ぞわぞわ背中を駆け上がるなんともいえない感覚に、真っ赤になってぷるぷるしていると、ヴェルが眉間の皺を一本増やして呟いた。

『これに懲りたら二度と怪我をするな』

 それはちょっと無理だと思うが、かなり懲りた。なるべく怪我はしないようにしよう…。

『足もだったか』

 ヴェルは腰の傷を塞ぎ切ってから、シャツを着る私に問いかける。こくり、と頷くと、目で『脱げ』と言われた気がして、嫌すぎて小さく唸った。

『…あっち、向いて。脱ぐから』

『……』

 ヴェルは黙って軽く目を伏せて、背中を向ける。躊躇いながらズボンを脱いで、毛布を手繰り寄せ、上から被ってギリギリまで見えないように隠す。醜い傷跡が走る脚を改めて見て、見せたくなくて泣きそうになる。

『…いいよ』

 ぎゅっと毛布を握りしめて、声をかける。ヴェルは黙って、先に太ももの前側にできた浅い切り傷を塞ぐ。なんでかわからないけど、太ももとか、脇腹とか、首とか、人体の急所に当たる場所って、物凄くくすぐったい。

『…こちらは、深いな』

 ふくらはぎの傷に指が触れて、ずきりと痛む。まだ血の滲む傷を見て、ヴェルは黙って薬を取り出した。

『治癒の術式がかけられない。一度こちらは薬を塗っておく。血が止まったら、改めて治療だな』

 ヴェルは薬瓶から薬を指に出して、傷口に塗布して行く。ひんやりとした薬が染みて、痛みに歯をくいしばった。どの世界でも薬は染みるものだ。ヴェルは手早くガーゼのような布切れをあてがって包帯を巻くと、足首から手を離した。

『もういいぞ』

 そう言って背中を向けてくれたので、いそいそとズボンを履き直す。ふう、と息を吐くと、ヴェルはこちらに向き直って、私の頬に手を伸ばした。頬の擦り傷が、ゆっくりと塞がれていく。

『…今回は、随分と傷が多い。カスケードか』

 小さく頷くと、ヴェルは眉間を親指と人差し指でつまんで、目を閉じてため息をついた。

『お前はどうしてこうも、毎回毎回、何かに巻き込まれるんだろうな…』

『…ごめんなさい』

『…いや、謝るな。お前は何もしていないだろう』

 ヴェルは手を下ろして、静かな目でこちらを見下ろす。座って向き直ったまま軽く腕を引かれて、おでこがヴェルの胸に当たった。腕がまわされて、ぎゅうと軽く力が込められる。抱きしめられていると気がついて、顔に火がつきそうになった。

『声を荒げて悪かった。…少し、焦って、苛ついていた』

 ヴェルの顔は見えない。ただ、普段ほとんど動揺の表れない声が僅かに震えて聞こえて、頭に上っていた血が一気に下りた。

『あまり、心配をかけるな』

『…ごめんなさい』

 背中に手を回して、ヴェルの身体を抱きしめる。

『ごめんなさい…』

 小さく繰り返しして、指先に力を込めると、ヴェルは僅かに身体を震わせた。

『お前がいなくなったら、俺はーー』

 耳元で囁かれた、掠れた声と、いつもとは違う口調。ヴェルはその先は言わず、黙って腕に力を込めた。



 そのままどれくらいじっとしていたのか、分からない。凄く短かったような、長かったような、不思議な感覚。不意にヴェルの腕から力が抜けて、身体が離れた。

『…ヴェル?』

 ヴェルは小さく苦笑して、私の髪を撫でた。

『悪い、らしくないことをした』

 その言葉に軽く首を振る。

『心配かけて、ごめんなさい』

『…いや』

 ヴェルは私の髪から手を離すと、こちらに向き直って、静かに問いかける。

『…何があった?』

『…全部は、うまく、話せないと思う』

『それでも構わない。後でリュザフィールとグレイプニルを交えて話すことになるだろう。先に聞いておきたいだけだ』

『…うん』

 頷いて、言葉を選びながら話し始める。

『カスケード、って人が、食堂に来た。領主の、…セイタンサイ?で、演奏してほしいって。遅い時間じゃなかったし、お金もいっぱい、くれるって言うから、行ったの』

『…金につられたのか』

 呆れたような眼差しに言葉が詰まる。

『み、みんなを、びっくりさせたくて』

『ちなみに、いくらだと?』

『ええと、2000?3000?だって』

『にせ…っ』

 非常に珍しいものを見た。ヴェルが軽く目を見開いて固まる。ああ、やっぱり凄い大金だったらしい。あの感じだと、カスケードはもともと払うつもりなんてなかったんだろうけど。

『屋敷に行って、着替えて、ホールで演奏した。その後、領主に呼ばれて、ホールに入ったら、何かの術式がかけられてて、私以外、いきなりいなくなった』

『転移か』

『…多分。それで、私が消えなかったから、カスケードがおかしいって、ええと…なんだっけ、ジッケン…ジッケンザイリョウ?にするとか言って、頭、殴られて』

『……』

 ヴェルの纏う空気が鋭くなる。ジッケンザイリョウって何なんだろう。疑問に思ったが、問いかけずにそのまま続ける。

『目が覚めたら、暗い部屋にいて…棒がいっぱい、並んでる…』

『牢屋か』

『ろーや?多分、それ。そこから出るときに、ここ傷付けたの。術式で、鍵かけてあったから』

 左腕を指差すと、ヴェルは眉間に皺を寄せて相槌を打った。

『そこから出たら、水路になってて。大きい扉開けたら、中に、カスケードと領主がいて、捕まって、それで、…ホールにいた人が、ぐちゃぐちゃに、なってた』

 鮮明に思い出して、吐き気がこみ上げる。唇を噛んでそれを堪えて、瞼の裏に焼き付いた光景を掻き消そうとする。

『…話したくなければ話さなくていい。悪かった』

『ううん、大丈夫』

 深呼吸を繰り返して、精神を落ち着ける。

『…そこで、カスケードが術式で、魔獣を呼んだ。剣、投げて、怪我させて、血を出した。それで、その下に突き飛ばされて…血を、かけられた。領主も、魔獣の血をかけられて、それで、死んだ。その後、カスケードが魔獣を地上に転移させて、私、そこから、なんとか逃げ出して…水路に飛び込んだ。そこから、地下の通路を通って、地上に出て、エルに助けを呼んだの』

 たどたどしく話し終わると、ヴェルは顔をしかめて小さく息を吐いた。

『随分と、酷い目に合ったな…』

 その言葉に苦笑する。本当に、酷い目にあった。どこかで逃げるのを諦めていたら、多分今頃カスケードに連れ去られていただろう。

『カスケードに血のことを勘付かれたのは正直痛手だ。お前を狙って追ってくる可能性もある。…これから先は、私の近くを離れるな。いいな』

『うん…』

『それから、何度も言うが、無茶はしないでくれ』

 懇願するような口調に、顔を上げる。ヴェルは苦悶の表情で、私の右手を見下ろしていた。

『わかった』

 深く頷いて、右手でヴェルの手の甲に触れる。少しゴツゴツした、剣を握る人の、すらりとした大きな手。ああ、私、ヴェルの手が好きだ。軽く力を込めると、ヴェルは手を返して、弱い力で握り返した。大きな手に包まれると、なんだか守られているみたいで安心する。

『…ごめんなさい』

『……』

 ヴェルは黙って苦笑すると、私の手を引いて、また軽く抱き寄せた。

『もういい。…暫く、このままでも、いいか』

『…うん』

 胸に耳を当てると、規則正しい心音が伝わってくる。不思議と安心感があって、目を閉じて耳をすます。ヴェルはそのまま、リュゼが帰ってくるまで、動かなかった。


◇ ◇ ◇


 こんこん、と扉がノックされて、ヴェルが私から離れた。リュゼは紙袋をいくつか抱えて、ひょっこりと扉の隙間から顔を出す。私の顔を見て何か察したのか、ほっとしたように微笑んで、室内へと足を踏み入れた。

『ご飯、買ってきたよ。あと、椅子も一脚借りてきた』

 小さなテーブルにリュゼが買ってきてくれた食べ物を広げて、椅子に座ってそれを囲む。魚や野菜が挟まったパンと、野菜のスープだ。…お肉じゃなくてよかった。流石に喉を通らなかったと思う。大きな瓶に入ったスープを、リュゼがお皿に入れて取り分ける。いい匂いがふわりと湯気と共に立ち上って、お腹がぐうと鳴った。そういえば昼から何も食べてない。

『はい、スグル』

 差し出されたパンとスープを受け取って、ぱくりとパンにかぶりつく。色々あった後なので、いつもより美味しく感じた。はふう、と幸せなため息をつくと、斜め向かいでリュゼがぷっと笑った。

『スグルはほんと美味しそうにご飯食べるなあ。そんなに食べてるのに、なんで細いんだろ』

『そうだな、確かに』

 えっ、食べ過ぎだろうか。スープを飲んでいた手を止めて、恐々リュゼとヴェルを見上げる。

『何に食べた分の動力が向かってるんだろうね』

それは正直私もよくわからない。身長はまあ、これ以上伸びないだろうし、あまり太った感じもない。こんなに太りにくい体質だっただろうか。首をひねりながら、パンをもぐもぐ食べる。魚は割と淡白な白身魚だが、香草焼きみたいな味付けがされていて美味しい。ああ、幸せだ。味わっているうちにすぐに食べ終わってしまって、ちょっと残念な気分になる。いや、でも、結構食べてしまったので、自重せねば。

 食べ終わった後は、リュゼが一緒に買ってきてくれたお茶を飲んで、一息ついた。今日のは緑茶だ。一口飲んで、美味しさに頬が緩む。

『今日、あったことについては…移動しながら明日話そう。グレイプニルも交えて話をする必要がある。今日はもう休んだ方がいい』

『そうだね、もうへとへとだ。…でもさあ』

 リュゼはお茶を一口飲んで、ふうと息を吐き出す。

『ベッド2つしかないよねえ』

『……』

『……』

 完全に失念していた。ヴェルも失念していたのか、口元まで持っていっていたカップをピタリと止めた。

『……俺が床で寝るよ……』

『だめ、リュゼ、疲れてる!私、床で寝る!』

 何処でも寝れるのが特技だ、こくこく頷いて見せるが、リュゼは首を振る。

『それ一番ダメでしょ!女の子なんだから!怪我もしてるんだし』

『でも…』

『…私は、あまり疲れていない。床で寝てもいい』

『だめ!』

『いやいや、流石にそれは俺が無理!』

 話が平行線だ。ヴェルは面倒そうに頬杖をついて大きく息を吐き出す。そのとき、はっと名案を思いついた。

『誰かが2人で寝ればいいんじゃない?』

『……それ、必然的に俺とヴェルフリード?』

 若干むさ苦しい絵面に思わず笑いそうになって、慌てて堪える。ヴェルは無言で眉間に皺を寄せて、お茶を飲んだ。

『それはちょっとなあ…』

『じゃあ、一緒に寝る?』

『は?』

『ごほっ』

 ヴェルがむせた。

『お、おお、俺と、スグルで?』

『うん。…いや?』

『いっ…いやじゃないけど!ちょっとそういうのは…!いや、俺も一応男だし、戦闘直後だし、察してほしいっていうか、別にだからって嫌とかではないんだけど、いや、だめ、やっぱだめ!』

 後半物凄い早口で聞き取れなかったが、耳まで真っ赤になって、リュゼはぶんぶんと首を振る。はっ、弟みたいだと思って色々頭から抜けていたが、リュゼだって年頃の男子である。こんなちんちくりんでも一応年上の女に隣に寝られたら緊張するかもしれない!

『ご、ごめん、じゃあ…』

 じゃあ、の先で固まる。ヴェルと寝るのはちょっと、なんか色々無理だ。さっきまで抱きしめられていたのを思い出して、今度は自分が赤くなる。やっぱりリュゼ、ヴェルと寝てくれないだろうか…。ヴェルはひとしきり咳き込んだ後、コップを置いて口を拭く。

『……そんなに床で寝るのが――寝かせるのが嫌なら、ベッドを繋げて、3人並んで寝ればいいんじゃないか』

『あ』

『あ…』

 リュゼと私は顔を見合わせて、ぴたりと固まる。その手があった。…結局その後、ベッドを並べて、我々は3人で川の字になって寝ることにした。ちょっと修学旅行みたいでわくわくしたが、隣で静かに眠るヴェルのことが気になって、…結局あんまり眠れなかった。


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