43.カスケード※
真っ黒な毛並みに、赤い瞳。今まで見た魔獣の中では一番大きい。全長3、4メートル程はあろうか。巨大な犬のような獣は、口から涎を垂らしながら、血走った目でぎょろぎょろと周囲を見渡した。
『素晴らしい!実に素晴らしい!』
興奮した声を上げる領主に、がたがたと震えながら視線を向ける。何を言っているんだ、こんな所にいたら危ない。早く逃げないと、取り返しのつかないことになる。
必死にもがいても、カスケードの手の力は緩まない。獣は、歓喜の声を上げる領主に気付いて、真っ赤な目をぎょろりとこちらに向けた。燃えるような憎悪の眼差しに、恐怖で身がすくむ。
『さて』
カスケードが、不気味な視線をこちらに向ける。
『魔獣の血は、通常肉体を侵しますが…』
どんっと背中を押されて、目の前の血の海に突き落とされた。肩から地面に激突して、痛みで一瞬頭が働かなくなる。白いシャツが血を吸って、一瞬で赤くなった。
『あなたのその身体、魔獣の血も跳ね除けられますか?』
カスケードの言葉に、青ざめて魔獣を見上げる。魔獣はしかし、私ではなく、真っ直ぐ領主とカスケードの方を見ていた。
『…カスケード、何の話だ?魔獣の血は…老化を止める妙薬なのだろう?』
『…ああ、すみません。そうでしたね』
『お前、まさか――』
カスケードは領主の言葉には応えず、懐から短剣を取り出して、魔獣に向かって投擲する。剣は魔獣の肩口に突き刺さり、魔獣は血を撒き散らしながら悲鳴をあげた。床に広がった血でぐっしょり濡れた私の顔に、魔獣の黒い血が飛び散る。
『さ、魔獣が怯んでいるうちに、閣下も血を浴びてください』
『しかし――』
『躊躇う理由などないでしょう。聖帝が隠した、秘密の不死の妙薬ですよ。さあ、閣下!』
カスケードが領主の背を押す。戸惑いの表情を浮かべていた領主の顔に、数滴の血が飛んだ。
『っ、が、ああああっ!』
たった、数滴だった筈だ。領主はその数滴の血を浴びただけで、苦しそうな声を上げると、床に這いつくばって、のたうちまわる。びしゃびしゃと、赤い血と肉塊が飛び散った。
『閣下、申し訳ございません』
カスケードはにっこり笑いながら、領主を見下ろす。
『魔獣の血は、僅かでも触れると侵され――遅かれ早かれ死に至ります』
『き、さま…っ』
『それにひきかえ、スグルさん、あなたは本当に素晴らしい!何ともないのですか?』
カスケードのぎらつく眼差しに怯んで後退る。とすっと、背中が魔獣の脚に触れた。恐怖で身動きが取れない。振り向くことも出来ず、身体の震えを必死で押さえ込みながら、このまま獣がどこかへ行ってくれないかと、特に信じてもいないどこぞの神様へと祈る。頭上から降り注ぐ魔獣の黒い血で、赤くなっていたシャツが黒く染まっていった。離れた所でのたうつ領主の肌が、何かに侵されるように黒く染まっていく。かつて、ヴェルも同じように、血に侵されていたのを思い出した。ああやって、身体を侵されて――死に至るのだ。
恐怖を押し殺して獣に視線を向ける。魔獣は憎悪に満ちた目をカスケードに向けていた。その瞳の奥に、理性の光を見た気がして、思わず凝視する。大きさに比例するとは思わないが、この獣、高位の魔獣なのではないだろうか。こちらに飛ばされて来ても、直ぐには理性を失わないほどの――。
『ああ、忘れる所でした』
カスケードは術式の縄のようなものを取り出す。細い蔓のようなそれを、魔獣に向かって投げると、黒い毛皮にびっしりと巻き付いた。獣の絶叫で、衝撃に脳が震える。
『この真上は、丁度噴水のあたりでしょうか。非常に都合がいい』
カスケードは術式で輪を作ると、魔獣の身体に向かって飛ばす。光が魔獣の体を包んで、一瞬の後、姿が消えた。
『地上に転移させました。今頃大騒ぎかもしれませんね』
血の海の床を、ぱしゃぱしゃと音を立てながらゆっくりと歩いてくる男の顔を、半ば呆然と見上げた。白い艶やかな手袋をはめて、カスケードはこちらに笑みを向ける。
こちらに伸ばされた手を振り払って、震える足で血の海をもがいて立ち上がり、必死に走った。
床は魔獣の血に侵食されて、どんどん黒く染まっていく。肉塊が溶かされて、形を失っていくのが視界の端で確認できた。同時に、自分の肉体の異質性も理解する。既に血で侵された領主は、床に突っ伏して事切れていた。
壁に手をついて後ろを振り向く。カスケードは、私が逃げられないと確信しているのか、急ぎもせず、ただゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。ホール内はがらんとしていて、死体が転がっている以外に何もない。燭台は手の届かないところにあるし、武器の類も見当たらない。至る所で微かに輝く光は、おそらく死体の主が生前身につけていた宝飾品だ。
走って逃げるしかない。ぽたぽたと髪から頬に垂れる黒い液体を手の甲で拭って、相手の隙を伺う。壁に手をついて、反対側の出入り口に向かって歩いた。カスケードは出入り口からほど近い位置に立って、動かない。
『逃げられるとお思いですか?』
『……』
唇を噛んで立ち止まる。カスケードとの距離は、もう5メートルとない。
カスケードは懐からもう一本短剣を取り出して、指先で弄ぶ。
『手荒な真似はしたくないと言ったでしょう?出来れば、大人しく捕まって欲しいのですが』
『…いや』
『そうですか』
私が走り出すのと同時に、カスケードが短剣を投げる。切っ先が太ももをかすめて痛みが走った。もつれそうになる足を懸命に動かして、出口へと駆ける。走り抜ける間何度も短剣が飛んできて、肩や腕や腰をかすめた。死なないように手加減されている。ふくらはぎ剣がかすめて、思わず地面に倒れこんだ。
『あまり、手間をかけさせないでください』
目の前に立った男は、微かに笑みを浮かべて、次の短剣を指でくるくると回した。出口まではあと少しだ。壁に手をついて、歯を食いしばって立ち上がる。カスケードとの距離は、もう僅か2メートルほど。あと少し、あと少しこちらに近付いてくれれば。緊張しながら男を見上げると、男は困ったような笑みを浮かべた。
『ああ、大切な血が流れてしまいましたね。それ以上あなたの体にはあまり傷はつけたくない。言うことを聞いてもらえませんか?』
そう言って、ゆっくりとこちらに近づく。男との距離は、あと1メートル。指先に力を込めて、距離を測る。カスケードがこちらに手を伸ばした時、振り払うように右手を男の顔めがけて振り抜いた。
『っ!』
黒い血が、指を伝って飛沫となり、飛んでいく。カスケードは僅かに目を見開いて、大きく後ろへ飛んだ。多分当たらないだろうとは思っていた。ただ、怯んで距離を取ってくれればそれだけでいい。震える足に力を込めて、全力で走り抜けて、扉を開けて――その先の水路に、迷わず身を投げた。
『っ、ぷはっ』
水面から顔を出して、呼吸を整える。水の勢いは思ったより速くて、みるみるうちに流されてしまう。流されながら周囲を見渡すが、カスケードの姿は見えない。
多分、ここの水流はぐるりとホール部分を取り囲むように流れているはずだ。このまま流れに身を任せていると、元の場所に戻ってしまって、間抜けなことになる。
脇の水路に向かって水が流れているのだと思っていたのだが、どうやら逆のようで、脇の水路からこの中央の円形の水路に向かって水は流れ込んでいたようだ。泳いで別の水路へ移動しようとするが、水流に阻まれてしまった。手で水を掻いて、脇の水路の縁に指をかける。冷たい水に感覚が鈍くなっていくのを感じながら、必死に力を込めて水路脇の通路によじ登った。
呼吸を整えている時間はない。まだカスケードは私の位置に気がついていないだろうが、それも時間の問題だろう。すっかり身体が冷えて、幸か不幸か、痛みも鈍く感じる。壁に手をついて、転びそうになりながら、通路を奥へと走り出した。途中いくつかの扉があったが、無視して走り抜ける。どこかに立てこもってやり過ごせるような相手ではないと直感的に感じていた。
暫く走ると、奥の方で道が分岐しているのが見える。木の枝のように、水路は街中に張り巡らされているのだろう。壁に手をついたまま、右側の通路へ足を踏み入れる。通路の先に階段を見つけて、思わず安堵の溜息が漏れた。背後にはまだカスケードの姿は無い。
少しだけ息を整えて、階段をずるずると上がる。石造りの階段を上まで上りきると、格子状の扉が天井についていた。肘で扉を押し開けると、ふわりと涼やかな風が身体を冷やした。やっと見えた空に、安堵の息が漏れる。
『っはぁ、はぁ、はぁ』
外に這い出て、扉を閉める。手近な岩をその上に乗せて僅かばかりの抵抗をしてから、草むらに腰を下ろした。あまり働かない頭で周囲に意識を向ける。
あたりはもう薄暗いが、夜遅い時間というわけではなさそうだ。正面には高い塀があって、逆側には見覚えのある城のような大きな建物。どうやらここは、領主の館の敷地内の、庭の一角らしい。遠くの方で、沢山の悲鳴が聞こえた気がした。自分のことでいっぱいいっぱいだったが、そうだ、魔獣を地上に転移させたと、あの男は言っていた。
ふらふらと立ち上がって、城壁に手をつく。濡れた服が重くて、どうにも動きづらい。服は魔獣の血を吸っているし、早く着替えた方がいいだろう。これでは、誰にも触れない。
『エル、エル!』
エルの耳を信じて、声を上げる。掠れた、弱々しい声が喉を震わせた。城をぐるりと取り囲む壁は恐ろしく広大で、何処にいるのかわからないエルに声が届くとは限らない。でも、ニルさんが信用する耳だ、私も信じたい。祈るように目を閉じて待っていると、壁の向こうをがりがりと爪が引っ掻く音がする。
『エル?』
声をかけると、小さく鳴いた。ほっとして、おでこをこつんと城壁につける。
『お願い、エル、助けを呼んで』
魔獣を先になんとかしないといけないけど、多分こちらがもたない。さっき短剣で傷つけられた足や腕が、じくじくと熱を持って気持ち悪い。カスケードに見つからないように逃げないといけないのに、正直もう動くのが辛い。
『できる?』
エルは、がう、と一度鳴いた。
『ありがとう』
本当は抱きしめてあげたいけど、それはできない。行って、と言うと、獣の駆ける足音とともに、気配が遠のいていくのを感じた。ずるずると城壁に背中をつけて座り込む。なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。だんだん腹が立ってくる。
立ち上がって、早く、逃げないと。…そう思うのに、もう身体が動かなかった。
『こんな所にいましたか』
目の前に影が落ちる。もう少しゆっくりさせてはくれないのだろうか。半ばやけくそになって見上げると、眼前の男はにたりと微笑んでこちらを見下ろしていた。カスケードは笑みを絶やさないまま懐から長剣を取り出す。お前の服は四次元ポケットか、と思わず心の中でツッコミを入れた。一体何本剣を持っているのか、心底謎だ。
『術式が使えないと言うのはとても不便ですね。術式に頼りきりでしたし、完全に想定外だったので、縄の類は持っていませんし…』
ふう、と溜息をついて剣先を手袋をはめた手でなぞる。
『この剣、魔獣の血を塗っているので、あまり使いたくはないのです。殺すつもりの相手にしか使わない。ま、ですが、あなたなら問題ないでしょう』
切っ先が突き付けられて、それを睨み上げる。
『出欠多量で死なれたら困りますので、足の腱を切るだけに留めましょう。どうします?言うことを聞いて同行してくれるのであれば、手荒な真似はしませんが』
『…っ』
唇を噛み締めて、ゆっくり立ち上がる。カスケードはにっこりと笑みを深めて、剣を下ろした。
『いい子ですね』
助けて、助けて、助けて。必死に祈る。もう逃げる手段が思いつかない。
『さ、行きましょうか』
差し出された手を取りたくなくて、黙って拳を握る。
『おや、どうしましたか?やはり足を切りましょうか』
唐突に腕を掴まれて、強引に地面に倒される。頬が地面とざりざり擦れて、痛みが走った。腰に足が乗って、動きを封じられる。冷たい感触が足首に触れて、ぞくりと背筋を冷たいものが走った。
『待って!いうこと、聞くから!』
『確信が持てませんから。切ってしまいましょう』
『いや!やめて!助けて、ヴェル!!』
『!』
がきん、と金属と金属のぶち当たる重い音とともに、背中にかかっていた圧が消えた。
『っつ』
カスケードの微かな呻き声に、顔を上げる。カスケードは離れたところで、剣を支えにして立っていた――肩口から、どくどくと血を流して。苦悶の表情を浮かべる顔に、いつもの余裕はない。
『…カスケード』
低い、地の底から響くような声。一瞬誰だか分からず、目の前に立つ人物の背中をぼんやり見上げた。片刃の剣の切っ先から、ぽたぽたと地面に血が落ちて、吸い込まれていく。
『…幽霊でも見ているんでしょうか。こんなところで死んだはずの男に会うとは』
カスケードは笑みを顔に張り付けながら、肩口を空いた手で押さえて術式で塞いでいく。
『カスケード!!』
怒号を上げて、それを妨害するように、ヴェルが一足で間合いを詰めて斬りかかる。それを軽く払って、カスケードは反動で腕が上がってがら空きになったヴェルの腹部に剣を振り下ろした。それを身体を捻って躱し、ヴェルはそのまま身体を回転させながら、斜め下からカスケードの首めがけて剣を振り上げる。カスケードは軽く身を引いてそれを避けると、間合いを取るように後ろに引いた。僅かにふらついたカスケードに、ヴェルは更に猛追して剣撃を繰り返す。
『っは、止血する余裕はありませんね』
カスケードは両手で剣を握り直して、ヴェルに向かって剣を横に振り抜いた。ヴェルは後ろに飛んでそれを避けて、剣を構え直す。その背中に今まで感じたことがないほど強いビリビリとした殺気を感じて、ごくりと生唾を飲んだ。
『なんで生きているのかと思っていたんですが…そうですか、その子ですか』
肩から飛んだ顔の血を軽く拭いながらカスケードが笑う。
『ますますその子が欲しくなりました』
『…貴様』
ヴェルの空気が鋭さを増す。息苦しくなって、喉がひゅう、と鳴った。
『ああ、でも今は諦めます。手負いであなたに勝てるとは思っていませんので』
呆気ないほど軽い口調で剣を下ろしたカスケードの身体を、術式の輪が包んでいく。あれは、転移の術式だ。先程魔獣に起きたのと同じ光に、呆然とカスケードの顔を見上げる。
『それではまた、スグルさん』
薄っぺらい笑みのまま消えた姿に、ヴェルが舌打ちをする。剣を納める腕は荒々しい。肩で大きく息をして、振り返ったヴェルの顔は、いつも通りに見えて――しかし、苛立ちを目に宿していた。
『…スグル』
低く呟いて、助け起こされる。地べたに座り込んだ私の肩に、ヴェルがマントを掛けて、身体を包みこんだ。膝をついて私の顔を見つめるヴェルの顔は険しい。
『何故、こんなところにいる?何があった』
その声に、いつもは無い苛立ちのような空気を感じて、身構えた。
『ご、ごめんなさい…』
『謝罪しろとは言っていない。私は、何故かと聞いたんだが』
『……』
厳しい口調に、口ごもる。
『スグル!』
苛立ちの篭った声に、身体がびくりと震えた。思わず俯くと、ヴェルは深い溜息をついて立ち上がる。
『もういい、急いで移動する。外にグレイプニルを待たせている、立てるか』
『……』
ふらつきながら立ち上がる。マントの下で、短剣で切られた所からどくりと血が溢れる気配がした。でもそんなこと言い出せなくて、黙ってヴェルの後ろに着く。お祭りの時みたいに手を繋ぐんじゃなく、手首を掴まれて、心臓がずきりと痛んだ。
『行くぞ』
『うん…』
城門まで行っても、兵士は居なかった。外の魔獣騒ぎで全員出払っているのか、それとも…地下の、あのホールに、ただの肉の塊になって散らばっているのかは分からない。
ヴェルは一言も声を発すること無く、ただ黙って城門を抜けると、ニルさんの背中に私を乗せた。
『魔獣の討伐がまだだ。お前達は離れていろ』
そう言うと、街の中心部に向かって駆け出す。その背中を、少しだけ泣きそうになりながら見送って、柔らかいニルさんの背中に顔を埋めて――我慢できなくて、少しだけ、泣いた。




