39.優しさと自覚
『少し、この街に滞在しようと思う。グレイプニルとはもう話はしてあるが…金銭面であまり余裕がないのでな、ここで金を稼ぐ』
『うん』
『リュザフィール、お前は私と来てもらうが…内容次第では別行動だ。なるべく割りのいい仕事を見つけて、早めに移動を再開したい』
『了解』
『スグルは…部屋にいてもいいが。どうしたい?』
宿の一階、食堂になっている部分の、隅っこの丸テーブルで、3人で向かい合って食事を摂りながら話し合う。美味しい食事に夢中になっていたので、問いかけられて慌てて口の中のパスタを飲み込む。麺の感じはパスタっぽいのに、味付けは焼きそばっぽくて、なんとなく焼きそばパンが恋しくなる。
『どうしたい…?』
そういう問いかけをされたのは初めてだ。顎に手を当てて考える。今まで、宿からはほとんど外に出る事なく生活して来たから、外でどんな仕事があるのかはわからない。
『…私でもできる仕事があるなら、お金稼ぐの、手伝いたい』
いつまでも足手まといなのはやっぱり嫌だ。ヴェルを見上げると、見慣れない黒髪の下で、見慣れた紺色の目が細められる。やっぱり、元の赤銅色の髪の方が好きだ。夕方より、少し夜に差し掛かった時みたいな、くすんだ、赤味を帯びた橙色。
『そうか。それなら考えておく』
ヴェルはそう言って、グラスに注がれたお酒に口をつける。赤いその液体は、赤ワインにしか見えない。気になる。焼きそばパスタをもぐもぐ食べながら、じっとグラスに視線を向けていると、『…一口だけだぞ』と、ため息混じりにグラスが差し出された。それをにこにこして受け取る前に、慌てたようにリュゼが取り上げてしまう。
『えっ、流石にこんな子供にお酒はまずくない?』
『子供じゃないが。…言っていないのか?』
『…ニルさんが、言ったかと思ってた』
『…なるほど』
『え?なになに?』
大きく溜息をついて、ヴェルがリュゼの手からグラスを抜き取る。
『歳上だ』
『へ?何が?』
『お前より、スグルの方が歳上だ』
『は?』
リュゼがフォークを取り落とした。金属と陶器の食器の触れる、かちゃんという高い音が食堂内に響く。
『…21歳だよ』
固まったリュゼに言うと、彼は緑の目を大きく見開いて、私の顔をガン見した。
『………』
長い沈黙の後、リュゼは机に肘をついて顔を覆った。
『…歳の割に賢いなあとか落ち着いてるなあとか思ってたけど、そうかあ…うわあ…俺恥ずかしい…凄く妹みたいな感覚だったのに…俺恥ずかしいとこばっか見せてない…?』
『…大丈夫、ヴェルもびっくりしてた』
肩をポンポンと叩いてやりながら、ヴェルが取り返したお酒を受け取って、口をつける。赤ワインかと思っていたのだが、どちらかというと日本酒に似た味わいだ。焼きそばパスタとの組み合わせは悪くない。もう一口飲む前に、ヴェルの手に取り上げられた。
『あれ、じゃあ…スグル、それ以上大きくならないの?』
『ならない』
『…そうなんだあ…』
何だその哀れみの目は。じとっと睨み上げると、リュゼはあからさまに視線を逸らした。
『なに』
『…なんでもない』
『…』
無言で圧力をかけると、リュゼは顔を覆って、もごもごと言い訳する。
『いや、その、後何年かしたら、きっと美人になるんだろうなあとか、考えてたから…』
『…………』
どういう意味だ。今はちんちくりんだってことか。美人じゃないってことか。そりゃあね、自分のことを美人だと思ったことはないですけど。もうこれ以上顔は変わらないぞ。リュゼは耳を赤くして、顔を覆ったまま縮こまる。…あんまりいじめるのも可愛そうになってきた。
『…お酒飲みたい』
嫌なことは飲んで忘れるに限る。むしゃくしゃしてヴェルにそう主張してみたが、頑として首を縦に振らない。
『明日に響くぞ』
『こっちに来て、ずっと、我慢してるのに…』
フォークを両手で握りしめて、上目遣いでヴェルを伺う。同級生の小悪魔ぶりっ子りっちゃんが、男は上目遣いに弱いって言ってた。試したことはないが、今ここで使わずしていつ使うというのだ。なるべく目は潤ませて、小首をかしげろと指導されたのだが、いまいち出来ている気はしない。
じいっとヴェルの目を見つめていると、きゅっと眉間に皺が寄って、鋭い紺色の瞳が逸らされた。…お?これは、効いているのだろうか。更にじっと見つめると、ヴェルが大きな大きな溜息をついた。
『……一杯だけだぞ』
もう一声!もう一声!せめて三杯!頑張れ涙腺、お前はもっとやれる子だろう!というか、ずっと目を開いていたので、乾燥して目がうるうるしてきた。じっと見つめながら、三本指を立ててみせる。長い沈黙の後に、ヴェルが眉間を親指と人指し指で解しながら、『……わかった』と小さく呟いた。
『三杯だけ許す。ただし、酔っ払ったら二度と飲ませないからな』
『…!!ありがとう!!』
ヴェルはやっぱり優しい!まだ打ちひしがれているリュゼの肩をポンポン叩いて、『つきあえ(最近覚えた命令形だ)』というと、戸惑いがちに頷く。失礼なことを言ってしまった手前、断れなかったらしい。というか断らせる気もなかったけど。
『俺も…飲んで忘れる…』
しかし、リュゼの方は…驚くほど、酒に弱かったのだった。
◇ ◇ ◇
『うええ…スグルぅ…』
部屋までヴェルが背負ってくれたのだが、部屋に入るなりベッドマットにぞんざいに投げられて、リュゼが呻いた。彷徨う手を掴むと、ぎゅっと握られる。
『大丈夫?』
顔を覗き込んで言うと、真っ赤になった顔で『うー』と小さく唸る。リュゼは私のことを『妹みたいに思ってたのに…』などと言っていたが、逆にリュゼの方が弟みたいだ。世話を色々焼いてくれるのは、お兄ちゃんみたいだったけど。たった二杯のお酒で酔っ払ってしまったリュゼは、ベッドの中で芋虫みたいにもぞもぞと身じろぎする。
『これは、明日は使い物にならんな』
『ごめんなさい…』
『構わない。明日は情報収集だけで終わらせるつもりだったしな…』
靴を脱がしてやりながら、ヴェルが呟く。リュゼはうんうん唸っているが、吐きそうとかでは無さそうなので、多分…大丈夫だろう。うーん、下戸だったとは。想定外だった。リュゼと一緒に飲んでいたので、まだお酒は二杯しか飲めていない。…もう少し飲みたかったが、我慢である…。
緩くカーブを描く黒い前髪を優しく撫でる。暫くそうしていると、リュゼは寝息を立て始めた。…ほんと、弟みたいだ。
『スグルはどうする?もう休むか』
『うーん…』
少し迷いながら唸る。時刻は夜の10時、寝るには少し早いかという時間だ。お酒で僅かに火照った体を、軽く手で扇いで冷ます。
『少し、冷たいものでも飲むか。部屋に行っても?』
『うん』
一人だとちょっと寂しいので、寝る前まで誰かがいるのは有難い。一度食堂に戻って水を貰ってから、私の部屋へと移動した。
ベッドに並んで座って、サイドテーブルにお盆を置く。渡された水を一口飲むと、柑橘系の香りがすっと鼻に抜けた。すっきりとしていて、ほんのり甘くて美味しい。ガラスのピッチャーの中には、氷と、黄色い小さな果実が入っている。香りは、この果実のものなのだろう。
『…リュゼには、もうお酒、飲ませちゃだめだね』
『そうだな』
ぐでぐでになっていたリュゼの姿を思い出してしみじみと呟くと、ヴェルが深く溜息をつきながら頷いた。ヴェルにとっても予想外のことだったらしい。
『お前は酔ってはいないのか』
『あれくらいじゃ、酔わないよ』
そう言いつつも、身体があつい。もしかしたら少し赤くなっているかもしれない。アルコール度数、思ったより高かったんだろうか。冷たい水を身体に流し込んで、身体を内側から冷やしていく。
『ヴェルは、酔わなさそう…』
『そうだな…もともと弱くは無いが、グレイプニルの血のせいか、全く酔わなくなったな』
『ニルさんの、血で?』
『感覚的なものなのだが、全体的に肉体が強化されたような…』
珍しく言い澱むような口調だ。
ニルさんの血の特性は、『繋ぐ』ことだ。血液を通して、肉体の繋がりが強固なものになった…とか、そういうものなんだろうか。そもそも、血の効果は、そういう風に、掛け算されていくようなものなのか…?顎に手を当てて首をかしげると、頬に髪がぱさりとかかる。
『少し、髪が伸びたか』
『…うん』
こちらに来て、2ヶ月くらい。短かった髪も少し伸びて、今ではショートボブくらいだ。猫っ毛なのでぴょんぴょん髪が跳ねてしまって、毎朝整えるのが大変だ。寝癖が酷かった時なんか、リュゼに指差されて爆笑された。
長く伸びれば、逆にあまり寝癖もつかないのだが。昔は長かった髪をぼんやり思い出しながら、毛先をいじる。ばっさり切った時は、突然頭が軽くなって驚いた。
『長いのは、嫌なのか?』
『ううん。前は長かったよ』
『意外だな』
それはどういう意味だ。
『邪魔だと言ってすぐ切りそうだ』
『流石にそれは…』
そういう気分にならないとは言わないが、一応これでも年頃の乙女なのだが。じとっとした目を向けると、彼は微かに笑ってグラスを傾けた。
なんだか、久々の穏やかな時間だ。グラスを手の中で転がして、ゆっくりと目を閉じる。ヴェルはただ無言で隣に座っているだけなのに、先程までの寂しさが感じられないから不思議だ。深く息を吸って吐き出すと、じわりと睡魔に襲われる。
『…眠いのか』
『…ううん』
もう少し、話をしていたい。目を開けて、水をまた一口飲む。
『ヴェルは…国に帰りたいって、思わないの?』
『…唐突だな』
『気になってた、から』
ヴェルは静かな眼差しを手元のグラスに向けながら、少し間をおいて答えた。
『…帰れるのなら、帰りたいとは思うが。リュザフィールはどうかは知らないが…私は、あまり国に対する愛着がない。一生帰れなかったとしても、困りはしない』
『家族、とか』
『家族はいない』
静かだが、少しだけ強い口調に押し黙る。ヴェルは目を一度閉じて、こちらに顔を向けた。
『スグルは、帰りたいとは?』
『……』
『すまない、愚かな質問だったな』
『…ううん』
一瞬返答が遅れてしまった。正直に言えば、帰れるなら、今でも帰りたい。帰ることは不可能だとわかっていても。だけど、みんなと離れてしまうのは…凄く、嫌だった。わがまま、だろうか。
『ヴェルは、国に、恋人とか、いないの?』
お酒で普段より幾分か饒舌な今なら訊ける気がして、思い切って尋ねてしまった。口にするにはしてみたが目が盛大に泳いでしまって、手に持ったグラスに視線を落とす。返事が遅くて、手持ち無沙汰にグラスを指でなぞった。グラスについた水滴が指になぞられて大きな塊になって、ぽたぽたと床に落ちる。
『何故?』
床の水滴を眺めていると、思っていたのと違う返答に思考が止まる。えっ、なんでって訊かれても。困惑して見上げると、いつもとなんら変わらない、落ち着いた眼差し。
『えっと、…家族はいないって、言うから、そういう人は、いるのかなって』
そうとしか言えなくて、また目が泳ぐ。というか、答えてはくれないのだろうか…。答えないということは、もしかして、いるということなんだろうか…?
『お前は、どうなんだ?』
『え?』
『恋人だ』
『…なんで?』
何となく、相手に答えられないうちにこちらから答えるのは釈然としない。問いに問いで返すのは卑怯というものだ。
『訊かれたので訊き返してみただけだ』
そう言って、ヴェルは正面に視線を戻して水を飲む。なんだそれ、なんかムカつく。
『…』
答えあぐねて黙り込む。そのまま沈黙が流れて、窓の外の喧騒が微かに聞こえてきた。…いいもん、リュゼに訊けばわかるかもしれないし。有名人ならそれくらいの情報流れてくるに違いない。ヴェルがいないタイミングを見計らって、こっそり聞いてやる。でも…でも、もし居たら、私は、どう思うんだろう。リュゼは弟みたいで、じゃあ、ヴェルは何だ?私は、ヴェルにどういう感情を抱いている?それは、…名前をつけてはいけないような気がして、思考から目を背ける。
『そろそろ、寝たほうがいいだろう』
声を掛けられて、顔を上げる。ヴェルはゆっくりとベッドから腰を上げて、ピッチャーの乗ったお盆を持ち上げた。
『あ…』
殆ど無意識に手が伸びて、ヴェルのシャツの袖を掴んでしまっていた。一瞬で後悔してすぐに手を離したが、ヴェルは動きを止めてこちらを見下ろす。
『なんだ?』
『…なんでもない』
苦笑して軽く手を振る。
『おやすみ』
『……』
ヴェルはしかし何も言わずに電気を消すと、一度腰を上げたベッドに、再び腰掛けた。
『ヴェル…?』
『いいから寝ろ』
おでこを軽く押されて、身体を支えられなくてベッドに仰向けに転がる。すぐに上から布団を掛けられて、身動きが取れなくなってしまった。
『う』
『眠れるまでここに居てやるから、さっさと眠れ』
月明かりに照らされて、微かに穏やかに微笑む顔が見える。さらりと髪を撫でる指が、酷く心地よくて――自分が、彼に、恋心を抱いてしまっているのだと、自覚した。




