38.過去の話
それからの旅は、覚悟していたよりは割と快適なものだった。土地柄なのかはわからないが、日本の夏よりは気温は上がっていない…と思う。山越えの時なんかは、逆に肌寒くて、マントを羽織った。そういえば、ロッキー山脈って物凄く高い山だと勝手に思い込んでいたのだが、思っていたよりはずっと低かったみたい。ただ、動植物はみたことのない形状のものばかりで、とても興味深かった。一度図鑑を見てみたい。暫くアップダウンの激しい道が続いたのでちょっとしんどかったが、基本的にはニルさんの背に乗っていたので、疲労感は薄い。
だが、野宿が多いと、困ったことにお風呂に入れない。
あまりじめじめした感じもしなくて、過ごしやすい日々が続いてはいたのだが、それでもやはり汗はかく。そうなると、川で身体を流すしかない。大自然のど真ん中で全裸はとんでもなく恥ずかしいし、なかなか慣れないし、水は冷たいしで、正直辛かった。辛かったがこんなことで皆の手を煩わせる訳には行かなくて、日々我慢である。山を越え谷を越え、いくつも街や村を越えて、やっと落ち着ける大きな街に着いたのは、旅が始まって28日目の夕方だった。
◇ ◇ ◇
『ふああ…』
久々に、温かいお風呂に入った。髪もちゃんと洗えて、やっとさっぱりした気分だ。久々に香油で流したので、良い匂いだし、さらさらで、最高に気持ちいい。ベッドに突っ伏して、幸せを噛みしめる。ドライヤーにあたるものはこちらではあまり見かけないし、この宿にも無かったので、髪はまだ生乾きだけど。
プレスコットと言う名の、この壁に囲まれた大きな街は、今まで見た中で一番大きい。簡易的な図面が宿の1階の壁にかけられていたのだが、ほぼ完璧な円形をしていて、ど真ん中に大きな噴水があるようだ。こんなに大きな街を、壁で囲うというのは途方も無い作業だったろう。外壁には東西南北の4箇所に大きな門があって、深夜は完全に閉ざしてしまうのだという。魔獣から身を守る為に、だ。アルネイアに来てから、まだ魔獣を見たことはないのだが…そんなに、こちらでは出現しやすいのだろうか。
宿の部屋で一人、ぼんやりと枕に顔を埋めていたが、身体を起こして大きく息を吐き出す。窓から見える街は、もう結構遅い時間なのに、活気に満ちている。栄えている、いい街なのかもしれない。こういう街は、食事が美味しい。少し楽しみだ。
部屋は一人部屋で、ベッドが1つしか無いから狭い。まあ、当たり前の話なのだが…ヴェルとリュゼが同室で一部屋、ニルさんとエルは外の騎獣用の小屋だ。
静寂に包まれた室内に一人でいると、どうにも…世界で、ひとりぼっちみたいな気がしてしまう。私は、この世界にとっては異物みたいなものだ。そういうところは、魔獣とあまり変わらないのかもしれない。そう、心の奥底で考えてしまっているせいか、魔獣には同情の目を向けてしまう。きっとこちらの人は、憎しみの目を向けるんだろう。
ベッドで膝を抱えて座り込んで、膝の上に頬を乗せる。一人だと、色々考え込んでしまって、ネガティブな方向に思考が向かってしまう。
…こういうのは良くない。気持ちを切り替えないと。
なんとなくヴェルに会いたくなって、廊下に出る。この宿は4階建てで、私が泊まっている部屋があるのは3階だ。部屋が埋まっているらしく、同じ階に部屋は取れなくて、ヴェル達が泊まっているのは4階。特に貴重品は持っていないのだが、一応鍵を閉めて4階への階段を上がる。ヴェル達の部屋は、ええと…どこだっけ。疲れてぼんやりしていたから、部屋の番号が思い出せない。そう大きな宿ではないから、扉は少ないが…片っ端から試す訳にもいかなくて、迷いながら廊下を進む。部屋番号を見たら思い出せたりしないだろうか。
不意に扉が開いて、びくりとそちらを見やると、ひょっこりとリュゼが顔を出した。こちらを見て、にっと笑みを浮かべる。
『スグルの足音が聞こえた』
流石、もともと間諜をしていただけあって、耳が良い。それにしても、誰だかわかるほど、私の足音はわかりやすいのだろうか。釈然としないものを感じながら部屋の前まで行くと、中に招き入れられる。
『もう少ししたら呼びに行こうと思ってたんだ。お腹すいたでしょ』
『…うん』
私が寝泊まりする部屋より少し広い部屋には、ヴェルの姿は無い。あれ、と首を傾げていると、リュゼが隣で笑う。
『ヴェルフリードは今お風呂入ってるよ』
顔に出ていただろうか。私が分かりやすいのかリュゼが察しがいいのか分からないが、確実にヴェルよりは察しがいい気がする。ヴェルは時々鈍いから。
ここの宿にはベッドとサイドテーブルがあるだけで、机や椅子が無い。促されるままベッドに腰掛けると、リュゼも隣に腰を下ろした。
『ヴェルフリード、髪染めるって。やっと髪染めの薬が手に入ったからね』
『薬で、染めるの?』
『ほんとさ、なんで術式で染めないのかなって思ってたんだけど、『そういう繊細な術式は苦手だ』だって。なんでもできそうなのになあ。てか、治癒の術式の方が繊細だろうに。あれって難しいんだよ』
『…ふうん』
治癒の術式って、そんなに難しいものだったのか。船の医務室も、薬品がたくさん並んでいたのを思い出す。あのお医者さんは、治癒の術式は使えなかったのかもしれない。考えてみれば…私の怪我を、外皮だけでも塞げるのなら、彼の使う術式はかなり強力なものなのではないだろうか。
『ほんと、噂にはきいてたけど、ここまで凄い人だとは思わなかった』
そういえば、ヴェルがなぜ顔が知られているのか、気になっていたんだった。リュゼと二人きりになる機会なんてあまり無いので、今聞かなかったらずっと聞けないかもしれない。
『ね、リュゼ。なんで、ヴェルは有名なの?』
『あー…』
少し困ったような顔になって、ちらっと浴室がある方の扉を見る。
『…ま、いっか。ちょっとこっち来て』
『…?』
肩が触れる位置まで近寄ると、リュゼが顔を寄せて、小声で話し出した。
『別に聞かれて困る話でもないけど。本人が近くにいるから、一応ね』
苦笑して、人差し指を立てて唇に当てる。頷いて見せると、リュゼは声を更に落として続ける。
『…聖騎士団っていうのはね、特殊なんだ。国を守る為というよりは、世界を守る為に存在する。世界の秩序を守る…世界の乱れを正す為にいるんだ。もちろん、聖帝国直下の部隊でもあるから、国内で戦が起きれば駆り出されることもあるけど…そういうことは、滅多にない。平和な国なんだ』
『…うん』
『10年くらい前にね、世界の至る所で、内乱が起きたことがあった。聖騎士団っていうのは精鋭集団だから、人数があんまりいないんだ。…今はもっと少なくなったけどね。ま、それで、隊を色んな所に散らして、内乱の鎮圧…ええと、内乱をおさめに行った。それで、聖都の護りが弱くなったところで、聖教会っていう…聖都のど真ん中に拠点がある教会が、謀反を起こして、聖都を制圧しようとした』
難しい言葉が増えて、所々わからなくなってくる。ニルさんがいたらよかったんだが…難しい顔で頷くと、リュゼが困ったように笑う。
『ごめん、ちょっと難しいかな。…聖都は大混乱になってさ、その時聖都に残ってた聖騎士は凄く少なくて、まともに身動きが取れなかった。そんな中で、まだ訓練兵だった兵士が、隊を組織して、聖教会を制圧し…指導者の首を落とした。その時、隊を率いていたのがヴェルフリードだよ』
10年前、というと、ヴェルはまだ15歳かそこらのはずだ。…末恐ろしい。
『その時の功績が認められて、正式に聖騎士団に入って直ぐ、ヴェルフリードは近衛兵に選ばれた。…まあそんな事がなくても、選ばれてただろうけど。何だったかな、数十年に一人の逸材とかなんとか。ヴェルフリードの血の特性って、『強化』なんだ。強化ってのはさ、身体能力も術式の効果も、全部底上げできる。そういう特性を持ってる人って、凄く少ないんだよ。その上、血の特性を差し引いても、剣術も術式も、彼はトップクラスだ。それに、ヴェルフリードは、…感情が無いみたいに、冷静に任務をこなすから、重宝されてた』
思わず首を振る。ヴェルにだってちゃんと感情はある。笑ったり、怒ったり、ちゃんと…表情には出にくいけど、感情はあるのだ。
『…うん、そうだよね。俺もちょっと考えを改めたよ。あ、でも、俺と二人の時ってびっくりするくらい無表情なんだけどね!』
それはちょっと、容易に想像できすぎて…。
『そういう訳で、ヴェルフリードは、聖騎士に顔をよく知られてる。当時まだ訓練兵ですら無かった俺でも知ってるくらいだ。畏怖に近いけどね』
『いふ…』
『恐れ、かな。尊敬もしてるけどね』
『それならもう少し態度に表してもいいと思うが』
ガチャリ、と浴室の扉を開けて、ヴェルが姿を現す。見慣れない黒い髪に、思わずぽかんと顔を見上げると、いつもの調子で『なんだ』と声をかけられた。
…似合うかもとは思っていたが、髪が黒いと、いつもより目付きが悪…鋭く見える。衝撃に黙り込んでいると、伸びた前髪の隙間から覗く紺色の瞳が、胡乱げにリュゼに向けられた。リュゼがひえっと声を上げて私を盾にする。…『尊敬』はどうか知らないが、『恐れ』の方は態度にとても出ていると思う。
『似合わないか?』
『…似合ってます』
あまり良くない意味で、とても。リュゼの言葉にこくこく頷く。…これは、暫くリュゼはびくびくしながらヴェルに接することになりそうだ。




